2026年5月14日
青森でりんご栽培が盛んになる前、津軽藩は何を育てていたのか?
青森県は冷害による米作の不安定さに悩まされ、江戸時代には飢饉も発生した。米以外の産業として林業や漆器(津軽塗)が発展。明治期に西洋りんごが導入されると、冷害リスクと士族の授産対策から、りんご栽培が地域を代表する産業へと転換していった。
冷害と飢饉に抗う稲作の限界
青森県は、日本の北端に位置し、その気候は稲作にとって厳しい条件を突きつけてきた。特に冷害は古くからこの地の農業を悩ませる最大の要因であった。江戸時代には、天明の大飢饉(1783年〜1787年)や天保の大飢饉(1833年〜1836年)など、東北地方を襲った大規模な飢饉が記録されている。これらの飢饉は、冷害による農作物の激減が主な原因であり、多くの餓死者や病死者を出した。
津軽平野では岩木川流域を中心に水田による稲作が行われていたが、収穫は安定せず、常に冷害のリスクと隣り合わせだった。藩政時代には、新田開発が進められ、土淵堰や廻堰大溜池のような大規模な用水施設が整備されたものの、それでもなお、たび重なる冷害によって荒廃する田も少なくなかったという。 米は藩の主要な財源であり、また人々の主食であったため、その安定供給は切実な課題であったのだ。しかし、北国の気候は稲作の生産性を常に抑制し、他の作物への依存を強める要因ともなっていた。
津軽藩が育んだ「青木」と漆器の系譜
稲作の不安定さから、青森、特に津軽地方では、米以外の産業も古くから発達していた。その一つが林業である。津軽藩は、総面積の67%を森林が占める豊かな山林資源に着目し、江戸時代から厳格な保護育成政策を敷いていた。特に「青木」と呼ばれたヒバ材は重要視され、「青木一本に首一つ」と言われるほど厳重に管理されていたという。
この豊富なヒバ材を基盤として、漆器産業も発展した。津軽塗の始まりは江戸時代中期、津軽四代藩主信政の時代(1600年代末~1700年代初頭)に遡る。 藩は全国から職人や技術者を招き、延宝4年(1676年)頃には弘前城内に塗師の作業場が設けられていた。 当初は武士の刀の鞘を飾るために用いられたが、やがて文箱や重箱など多様な調度品が作られるようになり、朝廷や幕府への贈答品としても重宝されたという。 津軽塗は、数十回の工程と二ヶ月以上を費やす「研ぎ出し変わり塗り」という堅牢で美しい技法を特徴とし、耐久性と優美さを兼ね備えていた。 明治に入り、1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出展されたことで「津軽塗」の名が広く知られるようになり、地域を代表する伝統工芸品としての地位を確立していく。
冷害と市場が促した作物転換
青森県が「りんご王国」となる以前、主要な作物は米であったものの、冷害による不作が頻繁に発生したため、雑穀や大豆なども栽培されていた。特に、津軽地方では「毛豆」と呼ばれる在来種の枝豆が古くから栽培され、地域の食文化に深く根付いていたことが知られている。 しかし、これらの作物は米に代わる主食とはなりにくく、経済的な安定をもたらすまでには至らなかった。
明治維新後、政府は殖産興業政策を推進し、各県に海外から輸入したさまざまな農作物の苗種を配布し、試験栽培を奨励した。 青森県へ西洋りんごの苗木3本が初めて配布されたのは1875年(明治8年)のことである。 当時の青森県庁構内に植えられたこの3本の苗木が、現在のりんご産業の礎となる。 この背景には、廃藩置県によって職を失った士族たちの就農対策という側面もあった。 旧弘前藩士の菊池楯衛は、北海道で果樹栽培技術を学び、津軽地域がりんご栽培に適していることを確認すると、旧士族たちを中心に苗木を配布し、栽培技術の普及に尽力した。 「りんごの木一本で米十六俵分の収入がある」という風説も広がり、多くの農家が大規模なりんご園を開設するようになる。 明治24年(1891年)に上野-青森間で鉄道が開通すると、りんごは東京市場へ大量に出荷されるようになり、産業としての基盤が急速に固まっていった。
過去の「北限」が示す多様な可能性
青森県が現在のような「りんご王国」となる以前の状況を他の地域と比較すると、その特異性がより明確になる。例えば、稲作が困難な寒冷地において、北海道では明治期以降、ジャガイモや小麦、テンサイといった畑作が主要作物として導入され、大規模農業の基盤を築いた。一方、東北の太平洋側では、冷害に強いソバやヒエ、アワなどの雑穀が伝統的に栽培されてきた歴史がある。 青森県も同様に、米の栽培が不安定な地域では雑穀が食料を補う役割を果たしていた。
しかし、青森県が他の寒冷地と異なるのは、その「北限」という立地条件を逆手に取った発展の仕方である。冷害に苦しむ稲作の脆弱性が、高収益が期待できるりんご栽培への大胆な転換を促した一因となった。明治初期、りんごはまだ国内での消費習慣がなかったにもかかわらず、その貯蔵性の高さや高値で取引される可能性が、旧士族や豪農たちの投資意欲を刺激したと考えられる。 他の地域が既存の作物や新たな畑作物の導入で安定を図る中、青森は未知の可能性を秘めたりんごに活路を見出したのである。この転換は、単なる作物の変更ではなく、土地の気候条件と経済的合理性が複雑に絡み合った結果と言えるだろう。
りんごの陰で息づく多様な恵み
現代の青森県において、りんごが農業産出額の大きな部分を占めることは疑いようがない。 しかし、りんご一辺倒というわけではない。三方を海に囲まれた青森県は、古くから漁業も盛んであった。陸奥湾のホタテ養殖は特に有名であり、イカやサケ、ヒラメ、ウニ、昆布なども豊かな海の恵みとして水揚げされている。
また、内陸部では、かつての雑穀栽培の歴史が現代に繋がり、近年ではにんにくやながいもといった畑作物が著しく生産を伸ばしている地域もある。 さらに、津軽地方の伝統工芸品である津軽塗は、現代においても青森県唯一の経済産業大臣指定伝統的工芸品としてその価値を保ち続けている。 これらの多様な産業は、りんごが導入される以前からこの土地で培われてきた自然環境への適応と、人々の工夫の歴史を現代に伝えていると言えるだろう。りんごが主役となる以前の青森の姿は、決して単一の農業に依存していたわけではなく、むしろ多様な資源を活用した複合的な生業が息づいていたことを示している。
冷害が促した「北の果樹王国」の選択
青森県がりんご栽培へと大きく舵を切る以前、この地は冷害による米作の不安定さに常に直面していた。江戸時代にたびたび発生した大飢饉は、その脆弱性を浮き彫りにした。こうした厳しい自然条件が、結果的に高収益作物への転換を促す土壌となったことは、皮肉な巡り合わせとも言える。もし米作が常に安定していれば、リスクを冒してまで西洋りんごを導入し、大規模な産業へと発展させる必要性は薄かったかもしれない。
また、廃藩置県後の士族の授産という社会的な背景も、りんご栽培の普及を加速させた一因であった。彼らにとって、新たな収入源は喫緊の課題であり、収益性の高いりんごは魅力的な選択肢だった。つまり、青森が「りんご王国」となったのは、単に気候や土壌がりんごに適していたというだけでなく、冷害という厳しい自然条件と、明治維新後の社会変革という二つの要因が重なり、新たな産業を模索せざるを得ない状況が生まれた結果なのだ。この地のりんご畑を眺める時、その背後には、過去の苦難と、それらを乗り越えようとした人々の選択の跡が見えてくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。