2026/6/5
栃木で干瓢が育つ理由:江戸時代からの歴史と土地の条件

栃木は干瓢も有名だ。干瓢栽培の歴史は?また、干瓢の栽培に適した環境とは?
キュリオす
栃木県が干瓢の一大産地となった背景には、江戸時代中期に近江から伝わった栽培技術と、内陸特有の気候や土壌といった地理的条件が結びついた。藩の奨励策と農民の技術継承が、この地の保存食文化を支えている。
栃木県、特に下野(しもつけ)地域を車で走ると、夏から秋にかけて、広大な畑の脇に白い帯が何本もたなびいている光景に出くわすことがある。一見すると白い布が干されているようにも見えるその正体は、「かんぴょう」である。ユウガオの実を剥き、薄く削って乾燥させたもので、日本料理の巻き寿司の具材として広く知られている。内陸県である栃木が、なぜこのかんぴょうの一大産地となったのか。海に面していないこの地で、どのようにして伝統的な保存食が育まれ、今に至るまで受け継がれてきたのか。その背景には、土地の気候と歴史、そして人々の工夫が複雑に絡み合っている。
かんぴょうの歴史は、遡れば平安時代にまで至るとされる。中国から渡来したとされるユウガオは、当初は食用としてではなく、その堅い殻が容器として利用されていたようだ。やがて、実を乾燥させて保存食とする技術が伝わり、次第に西日本を中心に栽培が広まっていったと考えられている。しかし、現在の主要産地が栃木県であることは、この一般的な歴史とは少し異なる道筋を示している。
栃木県にかんぴょうの栽培が本格的に導入されたのは、江戸時代中期、元禄から享保年間にかけてのことだ。近江国(現在の滋賀県)水口藩主であった鳥居忠英が、下野国壬生(みぶ)藩に転封(てんぽう)された際、その栽培技術を家臣に命じて伝えたのが始まりとされる。水口藩は当時、すでに近江かんぴょうの産地として知られており、藩財政を支える重要な作物であった。忠英は、財政再建のために、この有益な作物を新天地でも根付かせようとしたのだろう。
しかし、単に技術が持ち込まれただけで、その後の発展が保証されるわけではない。壬生藩は、かんぴょう栽培を奨励するため、農民への種子の配布や栽培方法の指導を積極的に行ったという。さらに、年貢の代わりに現物でかんぴょうを納めさせる「干瓢運上(かんぴょううんじょう)」という制度を導入し、生産を強力に推進した。これにより、農民たちはかんぴょう栽培に真剣に取り組む動機を得て、その技術は瞬く間に地域に広まっていった。
明治時代に入ると、壬生藩による統制はなくなるものの、かんぴょう栽培の伝統はしっかりと地域に定着していた。交通網の発達とともに、栃木産のかんぴょうは全国へと流通するようになり、その品質の高さが評価されるようになる。特に、干瓢は保存性があり、米作の裏作として栽培できるため、農家にとって貴重な現金収入源となった。大正から昭和初期にかけては、機械化が進み、生産効率が向上。栃木県は名実ともに日本一のかんぴょう産地としての地位を確立していくのである。
栃木県がかんぴょう栽培に適した地となった背景には、複数の自然条件と、それに合わせた人々の工夫が重なり合っていた。まず、ユウガオの生育には、昼夜の寒暖差が大きい気候が好ましいとされる。栃木県の内陸部は、夏場の日中は高温になるものの、夜間は比較的気温が下がるため、ユウガオの生育に適している。また、乾燥工程においては、カラリとした晴天が続くことが重要であり、梅雨明けから秋にかけての栃木の気候は、この条件を満たすことが多い。
土壌の条件も重要だ。ユウガオは、水はけが良く、肥沃な土壌を好む。栃木県南部、特に下野市や小山市、壬生町などに広がる関東平野の沖積土壌は、かつて鬼怒川や思川(おもいがわ)といった河川が運んだ肥沃な土砂によって形成されており、かんぴょう栽培に適した地力を持っている。これらの地域は、平坦で広大な農地が広がり、大規模な栽培を可能にした。
さらに、かんぴょうの品質を左右する「乾燥」の工程がある。ユウガオの実を薄く帯状に剥き、それを天日で干す作業は、手間と時間を要する。栃木県は、夏から秋にかけて、比較的風通しの良い日が多い。この自然の風と日差しが、かんぴょう独特の風味と食感を生み出す上で欠かせない要素となる。かつては、各農家が軒先や庭先で干す光景が一般的であったが、現在では専用の乾燥施設や、ビニールハウス内で乾燥させる方法も導入されている。
しかし、自然条件だけでは、かんぴょうがここまで根付くことはなかっただろう。かんぴょう栽培は、種まきから収穫、そして加工に至るまで、多くの手作業を必要とする。特に、ユウガオの実を専用の包丁で剥き、薄く帯状に削る作業は熟練の技を要し、「かんぴょうむき」と呼ばれる。この地で長年にわたり培われてきた栽培技術と加工技術、そしてそれを支える労働力が、栃木のかんぴょう生産を支えてきたのだ。米作の裏作としてだけでなく、農業閑散期の現金収入源として、地域に根差した栽培体系が確立されていたことも、安定的な生産を可能にした大きな要因である。
日本各地には、その土地の気候風土や歴史的背景に応じて、様々な保存食が育まれてきた。例えば、東北地方の「いぶりがっこ」は、雪深い冬に備え、大根を燻製にして保存する知恵から生まれたものだ。また、北海道や東北の漁村では、鮭やイカなどを寒風にさらして作る「乾物」が発達した。これらは、厳しい自然環境や特定の季節に合わせた保存方法として発展してきた。
一方、かんぴょうは、保存食としての機能に加え、その加工工程と利用方法においていくつかの特異性を持っている。まず、ユウガオという特定の野菜を、細く薄い帯状に剥くという、非常に手間のかかる加工が前提となる。他の多くの野菜の干物は、切って干すだけ、あるいは丸ごと干すものが主だが、かんぴょうの「むき」の工程は、製品の形を均一にし、戻した際の食感を決定づける重要な技術である。この均一な形状が、巻き寿司の具材として適している大きな理由の一つだろう。
また、かんぴょうは、他の多くの干物のように「そのまま」を食べることは稀で、基本的に水で戻し、調味料で煮含めるという調理工程を経て利用される。この調理の柔軟性が、かんぴょうが日本料理の中で広く受け入れられた要因かもしれない。煮物や和え物、汁物など、多様な料理に活用できる汎用性を持つ。さらに、かんぴょうは味や香りが強くなく、他の食材の風味を邪魔しないため、脇役として様々な料理に溶け込みやすい性質がある。
加えて、かんぴょうの生産が、内陸の栃木県で発展した点も興味深い。海産物の干物が沿岸部で栄えるのは自然なことだが、かんぴょうは農産物であり、その生産地が全国的に見ても極めて限定的である。これは、先に述べた気候や土壌といった自然条件だけでなく、江戸時代に藩の政策として強力に推進され、それが地域の文化として定着したという、歴史的な要因が強く作用した結果といえる。特定の藩が、特定の作物の生産と流通を半ば強制的に確立させた例は他にもあるが、かんぴょうのように、その地域が全国的な一大産地として現代までその地位を保ち続けている例は、それほど多くはないだろう。
現在の栃木県におけるかんぴょう栽培は、かつてのような全盛期に比べると規模は縮小傾向にある。農業従事者の高齢化や後継者不足は、他の多くの農業分野と同様に深刻な課題となっている。また、手間のかかる手作業が多いことから、労働力確保も容易ではない。ユウガオの収穫は夏の暑い時期に行われ、その後の皮むき作業も重労働である。
しかし、栃木県は全国のかんぴょう生産量の9割以上を占める(2023年時点)という圧倒的なシェアを維持しており、その地位は揺るぎない。地域では、この伝統を守り、次世代へと繋ぐための様々な取り組みが行われている。例えば、機械化による作業効率の改善が模索されており、ユウガオの皮むき機や乾燥機の導入が進められている。また、かんぴょうの魅力を再発見してもらうためのイベント開催や、学校給食での利用促進、新たな加工品の開発なども行われている。
特に、下野市を中心とした地域では、かんぴょう畑が地域の景観の一部として認識されており、観光資源としての可能性も探られている。夏に広がるユウガオの白い花や、秋の収穫期に畑に並ぶかんぴょうの白い帯は、都市部では見られない独特の風景である。道の駅などでは、かんぴょうを使った加工品やお土産が販売され、訪れる人々にその存在を伝えている。伝統的な巻き寿司の具材としてだけでなく、サラダや炒め物、スイーツなど、現代の食卓に合わせた新しい食べ方の提案も、かんぴょうの消費拡大に貢献している。
栃木県がかんぴょうの一大産地となったのは、単一の理由によるものではなかった。江戸時代に遠国から持ち込まれたという「偶然」の契機が、昼夜の寒暖差が大きい内陸の気候、肥沃な土壌、そして乾燥に適した気象条件という「必然」の地理的優位性と結びついた。さらに、藩による強力な奨励策と、それを支えた地域の農民たちの勤勉さ、そして長年にわたる技術の継承が、この地の干瓢文化を確固たるものにしたのである。
海を持たない栃木の地で、これほどまでに保存食文化が深く根付いた背景には、米作の裏作として、また農閑期の貴重な収入源としての経済的な合理性があった。そして、その手間を惜しまない加工技術が、かんぴょうという独特の食材を生み出し、日本の食文化の中に確かな居場所を築いた。畑に広がる白い帯は、単なる乾燥風景ではなく、自然と歴史、そして人間の知恵と労働が織りなす、この土地ならではの物語を静かに語りかけている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。