2026/6/5
那須の歴史:火山、古道、開拓、そして御用邸

那須の歴史について詳しく教えてほしい。
キュリオす
那須の歴史は、活火山である茶臼岳と温泉、古代からの交通の要衝、那須氏の台頭、そして明治以降の那須野ヶ原開拓と那須御用邸の設置によって形作られてきた。自然の恵みと人間の営みが交錯し、独自の風景を育んできた。
那須の歴史は、その地形的特徴と深く結びついている。約1.6万年前から活動を続ける活火山である茶臼岳を筆頭に、那須火山群は周辺に豊かな温泉資源をもたらしてきた。那須温泉郷の起源は古く、舒明天皇の御世(7世紀前半)に「鹿の湯」が発見されたという伝承があり、奈良時代の正倉院文書にも那須温泉の記録が残されている。江戸時代には、江戸在府の大名が湯治に訪れるなど、古くから保養地として知られていた。文化14年(1817年)に発行された「諸国温泉効能鑑」では、東日本の温泉番付で草津に次ぐ関脇に格付けされるほど、その効能は高く評価されていたのである。
一方で、那須の地は古代から交通の要衝でもあった。栃木県は4世紀代に毛野国と那須国に分かれていたとされ、後に那須国は下野国と合併し那須郡となるが、その地名は古代から受け継がれてきたものだ。 「那須」の地名については、那珂川の中洲を意味する「なか川の洲」が転じたという説が有力とされている。 奈良時代には東山道街道沿いの宿場として伊王野・芦野地区が栄え、仏教伝播の痕跡も見られる。
中世に入ると、那須郡を本拠とする武家・那須氏が台頭する。那須氏は藤原北家の後裔を称し、平安時代末期には開発領主として勢力を確立した。 治承・寿永の乱では源氏に味方し、特に源義経軍に加わった那須与一は、文治元年(1185年)の屋島の戦いで扇の的を射落とした弓の名手として「平家物語」などの軍記物に描かれ、その名は広く知られることとなった。 与一の実在性には諸説あるものの、那須氏がこの地で大きな影響力を持っていたことは確かである。 鎌倉時代以降、那須氏は烏山の那須氏を宗家とし、支流を束ねて戦国時代まで下野東北部を支配した。
那須の歴史を語る上で、明治時代以降の「那須野ヶ原開拓」と「那須御用邸」の存在は欠かせない。那須野ヶ原は、那珂川と箒川に挟まれた広大な扇状地で、明治初期まで水利に乏しい不毛の原野が広がっていた。 その広さは約4万ヘクタールにも及び、中央部を縦断する蛇尾川や熊川は、水が地下に浸透するため約10キロメートルにわたって水の無い川となる場所もあった。
この広大な荒野に目をつけたのが、明治新政府の殖産興業政策を推進する為政者たちであった。彼らは、ヨーロッパ貴族の農場経営に倣い、華族や民間有志による大規模農場を展開する。明治13年(1880年)に那須疏水の工事が始まり、翌明治18年(1885年)には那珂川から取水する本幹水路16.3キロメートルがわずか半年足らずで完成した。 この那須疏水は、福島県の安積疏水、京都府の琵琶湖疏水とともに「日本三大疏水」の一つに数えられ、不毛の原野を豊かな農地へと変貌させる原動力となった。 大山巌、西郷従道、松方正義、青木周蔵といった明治の元勲たちがこの地に農場を開き、別邸を構えるなど、那須野ヶ原は近代国家建設の夢が託された土地でもあった。
同時期、那須の温泉地としての魅力も再認識される。大正12年(1923年)、当時皇太子であった昭和天皇(1901〜1989)が那須温泉を行幸し、その景観に深く感動したことが、那須御用邸建設の契機となる。 大正15年(1926年)には那須御用邸が設置され、以来、歴代の天皇が夏の避暑地として利用することとなった。 この御用邸の存在は、那須高原のリゾート地としての地位を不動のものとし、別荘地やホテル、保養所の増加を促した。
那須の発展は、近代以降の開拓と保養という二つの大きな軸によって形作られてきた。まず開拓は、明治政府の政策と、それを実行した先人たちの技術力と労力によって支えられた。那須野ヶ原の広大な土地は、扇状地ゆえに水が地下に浸透しやすく、表流水が極めて乏しいという地理的制約を抱えていた。 この課題を克服するために、大規模な土木工事である那須疏水の開削が不可欠だった。わずか数ヶ月で16キロメートルを超える水路を掘り進めるという、当時の技術水準からすれば驚異的なスピードでの工事は、多くの労働力と資金、そして緻密な測量技術によって実現されたものだ。
一方、保養地としての那須の魅力は、火山活動によってもたらされた豊富な温泉と、変化に富んだ自然景観に起因する。那須岳の茶臼岳は今も噴気を上げ続ける活火山であり、その麓に湧き出す多様な泉質の温泉は、古くから人々の心身を癒してきた。 特に「鹿の湯」は7世紀に発見されたと伝わり、その歴史は千三百年以上に及ぶ。 こうした自然の恵みに加え、明治以降の皇室による御用邸の設置が、那須を「ロイヤルリゾート」と位置づけ、そのブランドイメージを確立した。御用邸自体は一般公開されていなかったものの、その存在が那須への関心と憧れを高め、観光客の誘致に大きく貢献したのである。
開拓と保養、この二つの発展のベクトルは、当初は異なる目的を持っていた。開拓は国家の食料供給と士族の授産という実利的な目的から始まり、保養は人々の癒しと皇室の静養という文化的な価値に根差す。しかし、広大な土地と豊かな自然という共通の基盤の上で、それぞれが那須の価値を高め、相互に影響を与えながら発展してきた。開拓によって整備された広大な土地の一部は、後に観光開発や別荘地へと転用され、保養地としての機能を拡大させていくこととなる。
那須の歴史を、他の著名な避暑地や開拓地と比較すると、その独自性と普遍的な構造が見えてくる。例えば、軽井沢や箱根といった他の皇室ゆかりの避暑地は、古くからの交通の要衝や景勝地として発展してきた点で那須と共通する。軽井沢は中山道の宿場町として栄え、明治以降は外国人宣教師によって避暑地としての価値が見出された。箱根もまた、東海道の関所が置かれた交通の要衝であり、温泉地として古くから知られていた。これらの地が持つ共通点は、まず「自然の美しさや気候の快適さ」という普遍的な魅力があり、そこに「交通の利便性」が加わることで、多くの人々が訪れるようになった点だろう。
しかし、那須には軽井沢や箱根とは異なる側面がある。それは「大規模な原野開拓」という、人為的な努力による土地の創出が、その発展の大きな基盤となっている点だ。軽井沢の別荘地開発が、既存の自然環境に手を加えつつも、その景観を活かす形で進められたのに対し、那須野ヶ原は明治期まで「不毛の原野」であった。 ここに水を引くための那須疏水建設は、単なる観光開発ではなく、国家的な農業振興策の一環として、文字通り「ゼロから大地を創造する」試みであった。この点で、那須は北海道の開拓地や、琵琶湖疏水によって開発された京都周辺の農業地帯など、大規模な土木事業を伴う近代開発史と共通する構造を持つ。
さらに、那須の活火山である茶臼岳の存在も特徴的だ。軽井沢の浅間山も活火山ではあるが、那須岳は古くから温泉の恵みをもたらすと同時に、噴火の歴史も持つ。1408年から1410年にかけての噴火では、降下火砕物や泥流によって180余名の死者を出した記録がある。 このように、自然の恵みと脅威が隣り合わせにある環境は、他の避暑地とは異なる、より根源的な自然との対峙を那須の歴史に刻み込んでいると言える。
現代の那須は、年間を通じて多くの観光客が訪れる一大リゾート地として知られている。広大な那須野ヶ原にはテーマパークや美術館、牧場が点在し、那須連山の麓には多様な温泉宿が軒を連ねる。一方で、明治期に開拓された広大な農地は、今も酪農や野菜栽培が盛んな地域としてその役割を担っている。
特筆すべきは、2008年に那須御用邸の敷地の一部、約560ヘクタールが「那須平成の森」として一般開放されたことだろう。 明仁天皇(上皇)の意向により、1,225ヘクタールあった御用地の約半分が日光国立公園の管轄下に置かれ、国民が自然に親しむ場として提供されることになったのである。 これまで皇室専用の場所であった森が、一般の人々に開かれたことは、那須の歴史における大きな転換点と言える。そこでは、昭和天皇が植物研究に打ち込み、新種を発見するなど、歴代天皇が自然と深く向き合ってきた歴史が息づいている。
しかし、観光地化の進展は新たな課題も生んでいる。過度な開発と自然保護のバランス、地域経済の持続可能性、そして移住者と既存住民との融和など、現代の地方が抱える普遍的な問題が那須にも存在する。特に、那須は東京圏からのアクセスが良いこともあり、別荘地としての人気が高い一方で、定住人口の維持や地域コミュニティの活性化は継続的な課題となっている。
那須の歴史を辿ると、そこには常に「自然との対峙」と「人間の営み」が交錯してきた姿が見えてくる。活火山である茶臼岳がもたらす温泉の恵みと、時に猛威を振るう噴火の記憶。そして、水利に乏しい広大な原野を、近代的な土木技術と国家的な支援によって豊かな農地へと変貌させた開拓の歴史。これらは、単なる偶然の集積ではなく、この土地固有の条件と、それに応えようとした人々の意志と努力の結果である。
那須御用邸の存在は、この地の自然が持つ「品格」を象徴するものであった。皇室の静養地として選ばれたことで、那須の自然は単なる風景ではなく、特別な価値を持つものとして認識されるようになった。そして、その一部が「平成の森」として開かれたことは、排他的なものであったはずの自然が、普遍的な共有財産へとその性格を変えたことを示している。
かつては不毛の荒野であった那須野ヶ原が、今や豊かな農地と観光地となり、活火山を抱く山々は、温泉の恵みと静謐な自然を提供する。那須の歴史は、自然の厳しさと恵み、そしてそれらを乗り越え、あるいは受け入れながら、独自の風景を育んできた人々の物語だ。この地を訪れる者は、その風景の奥に、幾重にも重なる歴史の層と、それを築き上げた確かな足跡を感じ取ることができるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。