2026/7/2
平安京を襲った疫病、怨霊や穢れとの戦いと祇園祭の起源

平安時代の疫病について深掘って詳しく知りたい。
キュリオす
平安時代、天然痘や麻疹などの疫病が都を襲った。当時の人々は疫病を怨霊や穢れの祟りと捉え、御霊会や祈祷で鎮めようとした。これが祇園祭や天神信仰の起源となり、現代にもその影響が残る。
都を覆う見えざる影
平安京の街路を歩くとき、今日のような清潔な舗装の下、千年前の都人がどのような空気を吸っていたのかと想像することがある。雅やかな貴族文化が花開いたとされる平安時代も、その実態は疫病の脅威と常に隣り合わせであった。文献を紐解けば、都大路に屍が横たわり、人々が恐怖に怯える記録が繰り返し現れる。現代の我々が感染症のメカ病を理解し、その対策を講じるのとは異なり、当時の人々にとって疫病は、「見えざる敵」と呼ぶべき存在であった。なぜ、彼らはこれほどまでに疫病に翻弄され、そして、いかにしてその恐怖と向き合ってきたのだろうか。その問いの答えは、当時の人々が抱いた世界観と、そこから生まれた独特の対処法の中に見出すことができるだろう。
怨霊と穢れが呼び込んだ災厄
平安時代の疫病は、特定の年に集中して発生したわけではない。毎年のように異常気象や疫病の流行が繰り返され、特に平安京のような人口密集地では、一度発生すると猛烈な勢いで蔓延したとされる。記録に残る主な疫病としては、天然痘(疱瘡)、麻疹(はしか)、赤痢、そして高熱と咳を伴う咳逆(しはぶき、一種の流行性感冒、インフルエンザと推測される)などが挙げられる。
大同3年(808年)の正月には、平安京の道が人々の屍で埋まったという記録が残る。 弘仁9年(818年)には大飢饉と共に疫病が都を襲い、京の人口が半減したとも伝えられる。 貞観3年(861年)には赤痢が大流行し、特に10歳未満の小児に多くの死者が出たことが『三代実録』に記されている。 また、延喜8年(908年)から翌年にかけては「咳逆」が京で猛威を振るい、多数の死者を出した。 後期になると、長徳元年(995年)には大規模な疫病が流行し、関白藤原道兼をはじめ、納言以上の公卿の半数近くが死亡したという記録も存在する。 1077年には麻疹が流行し、白河天皇やその皇后、多くの皇族・公家が罹患している。
これらの疫病が繰り返し発生した背景には、当時の平安京の劣悪な衛生環境があった。人口が集中する都市でありながら、汚水や汚物の処理システムは未発達で、京内には悪臭が漂っていたと考えられている。特に鴨川が大雨で氾濫すると、市街地に放置されていた汚穢や排泄物が京中に拡散され、井戸水まで汚染される事態となった。 このような環境は、赤痢のような消化器系感染症の温床となっただけでなく、天然痘やインフルエンザといった外来の疫病が日本に持ち込まれ、都市部で土着化するのを促進した可能性も指摘されている。
当時の人々は、現代のように疫病の原因を細菌やウイルスと捉えることはなかった。彼らにとって疫病は、政争に敗れて非業の死を遂げた者の怨霊(おんりょう)や、異国から訪れる疫神(行疫神)の祟り、あるいは穢れ(けがれ)によって引き起こされるものと信じられていた。 特に、強い恨みを抱いて亡くなった個人の魂がこの世に災いをもたらすという御霊信仰(ごりょうしんこう)は、平安時代を通じて広く浸透し、疫病の発生と結びつけて考えられることが多かった。
祈りと儀礼が紡ぐ集団の鎮魂
科学的な医療が未発達であった平安時代において、疫病への対処は主に呪術的・宗教的なものに頼らざるを得なかった。朝廷や貴族は、疫病を鎮めるために様々な祈祷や儀礼を執り行った。その代表的なものが御霊会(ごりょうえ)である。
記録上、最初の国家公認の御霊会は貞観5年(863年)に神泉苑(しんせんえん)で執り行われた。これは、政争で不遇の死を遂げた早良親王をはじめとする六柱の怨霊を鎮めるための大規模な祭祀であった。 この神泉苑での御霊会が、現在の京都を代表する祭りの一つである祇園祭の起源になったとも言われている。祇園祭は、貞観11年(869年)に京都で疫病が大流行した際、災厄の除去を祈願して、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、神泉苑に祇園の神を迎えて祀ったことに始まると伝えられる。 祭りの期間中に販売される「粽(ちまき)」は、厄病・災難除けの効果があるとされ、今も京都の民家で飾られる風習が残る。
また、非業の死を遂げた菅原道真の怨霊を鎮めるために始まったとされるのが、天神信仰である。道真が政略によって大宰府に左遷された後、都では落雷や疫病が頻発し、人々はこれを道真の怨霊の祟りと考えた。 947年には北野天満宮が創建され、道真は「天満大自在天神」として祀られることになった。 大阪天満宮の天神祭も、道真の霊を鎮めるための祭りが起源とされている。
他にも、宮中では旧暦12月30日に疫鬼や疫神を祓うための追儺(ついな)の儀式が行われた。これは悪鬼を追い払う役の者が弓矢を持ち、内裏を回って鬼を追い出すというもので、民間の節分の原型になったとも言われる。 仏教的な対応としては、僧侶による読経や祈祷、薬師悔過(やくしけか)といった法会が盛んに行われた。 天皇の病気や疫病流行の際には、加持祈祷が最も重要な治療法と見なされ、医師と共に僧侶が派遣されることもあった。 薬物療法や公衆衛生的な施策は限定的であり、神仏に頼ることが中心であったのだ。
奈良時代の大仏と平安の怨霊
平安時代の疫病対策を考えるとき、その前の奈良時代、特に天平年間(735年〜737年)の大疫病との比較は欠かせない。天平の大疫病は、天然痘の流行であったとされ、当時の日本の総人口の25〜35パーセントにあたる100万人から150万人が死亡したと推定されている。 この壊滅的な被害に対し、聖武天皇は仏教の力に頼り、国力を傾けて東大寺盧舎那仏像、いわゆる奈良の大仏を建立した。 これは、国家規模で仏教による鎮護国家を目指した、壮大な疫病対策であったと言える。
一方、平安時代になると、同様に仏教的な祈祷や法会は行われたものの、大仏建立のような「見える形」での国家プロジェクトは影を潜め、むしろ「怨霊」という特定の個人に由来する祟りへの対処が前面に出てくる。奈良時代以前にも疫病は存在したが、平安京が成立して以降、異常気象と都市生活の衛生環境悪化が重なり、疫病流行と植物の異常開花・結実の関連性が指摘されるようになる。 この変化は、都市化の進展と、それによって生じる社会の歪みが、人々の疫病観に影響を与えた可能性を示唆している。
奈良時代が「仏教による国家鎮護」を掲げたのに対し、平安時代、特に中期以降の貴族社会では、政争に敗れた者たちの怨念が疫病や災害を引き起こすという御霊信仰が色濃くなった。これは、藤原氏による摂関政治が確立し、多くの非藤原氏が不遇の死を遂げた政治状況と無縁ではないだろう。例えば、菅原道真の祟りという形で、政治的な対立が疫病の原因と結びつけられ、その鎮魂が国家的な課題となった。
また、奈良時代の疫病対策では、中国の医学書からの引用も見られたが、平安時代には加持祈祷が治療法の中心となり、漢方薬などの使用記録はほとんど見られない。 これは、科学的な知見よりも、精神的・呪術的な解決を求める傾向が強まったことを示しているのかもしれない。奈良時代が律令国家としての制度的な対応を模索したのに対し、平安時代はより「見えない力」に焦点を当てた、日本独自の信仰体系を発展させていったと言えるだろう。
今に残る千年前の祈りの形
平安時代の疫病との闘いは、現代の日本文化にも色濃くその痕跡を残している。京都の夏の風物詩である祇園祭は、1100年以上の歴史を持ち、疫病退散を起源とする祭りの代表例である。 毎年7月に行われるこの祭りは、単なる観光イベントではなく、千年前の都人が疫病の恐怖に抗うために捧げた祈りの形を今に伝えている。博多祇園山笠や鎌倉大町まつりなど、日本各地に広がる祇園信仰の祭りも、同様に疫病退散を願う心がその根底にある。
菅原道真を祀る天満宮の祭り、天神祭もまた、平安時代の疫病と怨霊信仰から生まれた文化である。 学問の神様として親しまれる道真だが、その信仰の始まりには、疫病や災害をもたらす怨霊を鎮めるという切実な願いがあったのだ。これらの祭りは、疫病という具体的な脅威への対処が、やがて地域社会を結束させ、世代を超えて受け継がれる文化として定着していったことを示している。
現代の神社で見られる手水舎(ちょうずや)での作法も、平安時代から続く衛生観念や清めの思想が形を変えて残ったものと解釈できる。 疫病が穢れと結びつけられた時代において、心身を清める行為は、病から身を守るための重要な習慣であった。また、京都の町家で今も行われる打ち水も、延喜式(927年)でルール化されていたという説もあり、1100年前の衛生意識が現代にまで繋がっている可能性を示唆する。
しかし、平安時代の疫病対策は、現代的な視点で見れば非科学的な部分も多かった。泥水を飲んで病気除けを願うといった逸話も残されており、人々の混乱と藁にもすがる思いが垣間見える。 それでも、当時の人々は、医学的知識が乏しい中で、集団として、あるいは個人として、それぞれの方法で疫病に立ち向かおうとした。その営みは、単なる迷信として片付けられるものではなく、当時の社会や信仰体系を深く理解する上で不可欠な要素である。
畏れと共生が織りなす歴史の層
平安時代の疫病を巡る歴史を辿ると、当時の人々が抱いた畏れと、それに対する独特の対処法が浮かび上がる。現代の私たちは、感染症の原因を特定し、治療法を開発することで病を克服しようとする。しかし、平安の人々は、原因不明の病に対し、怨霊や疫神といった「見えない存在」にその根源を求め、祈祷や祭祀を通じて対話しようとした。この視点の違いは、単なる科学的知識の有無に留まらない。
平安京という都市の成立が、それ以前の時代には見られなかった規模での疫病流行を招き、人々の生活様式や精神世界に大きな影響を与えた。都市化による衛生環境の悪化と、それに伴う疫病の頻発は、天皇や貴族にまで影響を及ぼし、政治や社会の混乱を深めた。それゆえ、疫病への対処は、個人の問題を超え、国家の安寧を左右する重大な課題であった。
奈良時代が仏教の力で国家を鎮護しようとしたのに対し、平安時代は、政争の犠牲となった個人の怨念を鎮める御霊信仰へと重心を移した。これは、当時の政治的状況が、疫病という形で人々の意識に投影された結果とも解釈できる。怨霊を神として祀り上げることで、祟りを鎮め、逆に守護神へと転じさせようとする発想は、日本独自の柔軟な宗教観を示すものだろう。
平安時代の人々が疫病に直面した際の心理は、現代のパンデミックにおける人々の反応と重なる部分も多い。未知の脅威に対する不安、情報が錯綜する中でのデマの拡散、そして心の拠り所を求める姿は、時代を超えた人間の普遍的な側面である。しかし、彼らが築き上げた祈りの文化や儀礼は、単なる精神的な慰めにとどまらず、社会秩序を維持し、共同体の結束を促す役割も果たした。疫病という避けがたい現実の中で、見えない力との共生を模索した平安の人々の姿は、現代の私たちに、科学だけでは測れない「生きる知恵」の層の厚さを改めて考えさせる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。