2026/7/2
平安末期、京都を地獄絵図に変えた「養和の飢饉」とは

養和の飢饉について深掘って詳しく教えて欲しい。
キュリオす
平安時代末期、京都は異常気象と源平争乱が重なり、深刻な飢饉に見舞われた。鴨長明の『方丈記』には、道端に横たわる無数の遺体と腐臭が満ちた惨状が記されている。当時の社会構造と複合的な要因が悲劇を拡大させた。
飢えの都、その無惨な光景
平安時代末期、京都の街を歩く人々は、見慣れたはずの風景の中に異様なものを感じ取っていたかもしれない。それは、単なる人々の疲弊した表情や、日々の暮らしから消え去った活気だけではない。道端に横たわる無数の遺体、そこから立ち込める腐臭が街全体に満ちていたという。鴨長明が『方丈記』に記した「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目も当てられぬ事多かり」という描写は、当時の京都が地獄絵図と化していたことを伝えている。この「養和の飢饉」と呼ばれる災厄は、単なる食糧不足に留まらず、社会の根幹を揺るがすほどの深刻な影響を及ぼしたのだ。人々はなぜ、このような極限状態に追い込まれていったのか。その背景には、天候不順という自然の猛威だけでなく、当時の政治状況や社会構造が複雑に絡み合っていた。
天災と戦乱が重なる時代
養和の飢饉は、養和元年(1181年)から翌年(1182年)にかけて西日本を中心に発生した大飢饉である。この時代は、平安時代末期から鎌倉時代初期にあたり、治承・寿永の乱、いわゆる源平争乱の真っただ中にあった。飢饉の直接的な原因は、前年の1180年からの異常気象に求められる。春から夏にかけて日照りが続き、秋には大風や洪水が頻発するなど、悪天候が重なり、五穀(米・麦・粟・黍・豆)がほとんど実らなかったのだという。これにより、農作物の収穫量は激減し、食糧不足が深刻化した。
京都の都は、地方からの年貢や物資に大きく依存していた。しかし、飢饉によって地方の農業生産が滞ると、都への食糧供給は途絶えた。 『方丈記』には「京のならひ、何わざにつけても、源は、田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ」と記されており、都の住民が食糧難に直面し、大きな打撃を受けた様子がうかがえる。
さらに、飢饉の被害を拡大させたのが、源平争乱という政治的混乱であった。各地で武士団が争い、兵糧の徴発や交通の遮断が行われたことで、食糧の流通が阻害されたのである。特に、平氏の基盤であった西日本が飢饉の中心地域であったため、平氏政権は反乱軍討伐のための兵糧米すら十分に集められない状況に陥ったという。 この飢饉は、平氏の没落を加速させ、源平合戦の行方にも影響を与えたと考えられている。 飢饉の状況は『源平盛衰記』『玉葉』『吉記』『百錬抄』など、当時の複数の史料に記録されている。
飢饉発生の翌年、養和2年(1182年)には、食糧不足に加えて疫病が蔓延し、都の状況はさらに悪化した。 飢餓で抵抗力を失った人々は感染症の格好の餌食となり、街中には遺体が放置され、異臭が満ちた。 仁和寺の隆暁法印という僧が、餓死者の額に梵字の「阿」の字を書いて回ったという逸話も伝わっている。 『方丈記』には、平安京の東半分だけで4万2300体もの死体があったと記されている。 この数字の正確性については諸説あるものの、当時の都の人口から見ても、極めて甚大な被害であったことは間違いない。
複合的な要因が織りなす悲劇の構造
養和の飢饉がこれほどまでに甚大な被害をもたらした背景には、いくつかの複合的な要因が挙げられる。第一に、前述の通り、異常気象による凶作が根本的な原因である。当時の農業技術は未発達であり、わずかな旱魃や洪水でも大規模な不作につながりやすかった。特に養和年間は、春夏の干ばつと秋冬の台風・洪水が立て続けに起こり、五穀が全く実らないという状況が2年にも及んだ。 これは単発的な天候不順ではなく、気候変動期に入った可能性も指摘されている。
第二に、源平争乱による社会の混乱と物流の停滞が挙げられる。全国各地で戦乱が繰り広げられ、地方と都を結ぶ交通網が寸断された。これにより、食糧の輸送が滞り、都は深刻な物資不足に陥った。 農民たちは兵糧米の徴発に苦しみ、あるいは戦乱から逃れるために土地を放棄することもあった。 『方丈記』にある「国々の民、或は地を捨てて境を出で、或は家を忘れて山に住む」という記述は、当時の人々の離散の様子を物語っている。
第三に、当時の都の脆弱な食糧供給体制である。平安京は基本的に消費都市であり、食糧の多くを地方からの年貢に依存していた。 しかし、ひとたび地方で凶作や戦乱が起きれば、その供給は容易に途絶え、都の住民はたちまち飢餓に直面した。現代のような広域的な流通システムや備蓄制度が未整備であったため、一度飢饉が始まると、その被害は急速に拡大したのである。物々交換が行われる際にも、金銭よりも穀物の価値が高く評価されたという。
第四に、疫病の蔓延が飢饉の被害をさらに深刻なものにした。飢餓によって体力が衰えた人々は、疫病に対する抵抗力が著しく低下していた。 放置された大量の遺体は衛生環境を悪化させ、疫病の感染拡大を助長したと考えられる。 当時の医療技術では、こうした疫病の流行を食い止めることは極めて困難であった。当時の日記には、穢れが蔓延し、人々が神社に参詣しない状況が記されている。
これらの要因はそれぞれ独立しているのではなく、相互に影響し合い、飢饉の規模と期間を拡大させた。天災が生産を減らし、戦乱が流通を阻害し、都の脆弱な構造がその影響を増幅させ、最終的に疫病が追い打ちをかけるという、負の連鎖が当時の社会を覆っていたのである。
他の飢饉と比べて見えてくるもの
日本の歴史において、大規模な飢饉は養和の飢饉だけではない。中世には養和の飢饉の他に、寛喜の飢饉(1231年)、正嘉の飢饉(1258年-1259年)が「三大飢饉」として知られる。 近世に入ると、享保の飢饉(1732年)、天明の飢饉(1782年-1788年)、天保の飢饉(1833年-1839年)が「三大飢饉」として語られる。これらの飢饉と比較することで、養和の飢饉の特異性や普遍性が見えてくる。
例えば、鎌倉時代中期の寛喜の飢饉は、極端な寒冷気候による全国的な大凶作が原因とされた。 『吾妻鏡』には「天下の人種三分の一失す」と記されるほど、甚大な被害をもたらした。 この飢饉の際、幕府は出挙米(すいこまい)を拠出して救済に乗り出し、人身売買を一時的に認めるなど、対応に追われたことが記録されている。 養和の飢饉が源平争乱という政治的混乱と重なったのに対し、寛喜の飢饉は鎌倉幕府による統治がある程度確立された時期に発生しており、為政者による対応の試みが見られる点が異なる。しかし、どちらの飢饉も自然災害が根本原因であり、当時の社会が気候変動に対して極めて脆弱であった点は共通している。
また、室町時代後期の長禄・寛正の飢饉(1459年-1461年)では、全国的な旱魃に加えて、享徳の乱や台風が重なり、京都で8万2千人の死者が出たと言われている。 この飢饉に対して、当時の将軍足利義政は有効な対策をとらず、この最中に花の御所の改築を進めていたとされ、為政者の無策が批判されることがある。 養和の飢饉における平氏政権の対応の困難さ、そして木曽義仲の兵糧徴発による都での支持喪失 とも通じる、為政者の行動が飢饉の被害を左右するという側面が見て取れる。
さらに、江戸時代の天明の大飢饉は、近世史上最大の飢饉とされる。 悪天候や冷害に加え、浅間山の噴火による火山灰が農作物に壊滅的な被害を与えた。この飢饉では、8万人から13万人もの死者が出たと伝えられ、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが頻発するなど、社会不安が拡大した。 天明の飢饉は、自然災害の規模の大きさに加えて、幕藩体制下の流通システムや社会構造が、大規模な飢饉に十分に対応しきれなかったことを示している。養和の飢饉も、天明の飢饉も、為政者の支配力が揺らぐ時期に発生し、社会秩序の不安定化を招いたという共通点を持つ。
これらの比較から見えてくるのは、日本の歴史における飢饉が、単なる食糧不足以上の意味を持っていたということだ。それは、自然の猛威に対する社会の脆弱性を露呈させ、政治体制の安定性や為政者の統治能力を試す試金石となった。養和の飢饉は、その後の武家政権の台頭を促す一因ともなり、社会変革の大きな転換点として機能した側面がある。
『方丈記』が伝える生々しい現実
養和の飢饉の様子を現代に伝える最も重要な史料の一つが、鴨長明の『方丈記』である。 鴨長明は、この飢饉を実際に経験し、その惨状を克明に記録した。彼の記述は、単なる事実の羅列ではなく、当時の人々の感情や社会の様相を鮮やかに描き出している点で、歴史資料としての価値が高い。
『方丈記』には、飢饉が2年間続き、春夏の干ばつ、秋冬の台風や洪水によって五穀が実らなかったこと、そして多くの農民が土地を捨てて故郷を離れたことが記されている。 都では、地方からの食糧が途絶え、人々は財宝を捨て値で売ろうとしたが、誰も見向きもせず、金よりも粟(穀物)が重んじられたという。 道端には乞食があふれ、嘆き悲しむ声が満ちていた。
飢饉の翌年には疫病が追い打ちをかけ、都はさらに悲惨な状況に陥った。 鴨長明は、路上に横たわる無数の餓死者の様子を「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目も当てられぬ事多かり」と描写した。 死者のあまりの多さに供養も追いつかず、仁和寺の隆暁法印が死者の額に「阿」の字を書いて回ったというエピソードも、『方丈記』に記されている。 親が子に食物を譲り、結局親が先に死ぬ、あるいは、死んだ母の乳を幼子が吸い続けている、といった痛ましい光景も記録されている。
また、飢餓がもたらした倫理観の崩壊も記されている。飢えに苦しんだ人々は、古寺から仏像を盗み、堂の仏具を砕いて薪として売るような行為に及んだという。 鴨長明はこうした状況を「濁悪の世にしも生まれあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし」と述懐し、末法の世の到来を強く感じていたことがうかがえる。 『方丈記』は、単なる災害の記録を超えて、極限状態における人間の尊厳や社会のあり方を問いかける、一種のルポルタージュとしての性格を持つ。
災害の記憶と現代への問い
養和の飢饉は、800年以上前の出来事であるが、その記憶は現代社会にも問いを投げかけている。鴨長明が『方丈記』に記したような飢饉の惨状は、現代の私たちが直接目にすることはないかもしれない。しかし、気候変動による異常気象が世界各地で頻発し、食糧危機や紛争による人道危機が報じられるたび、養和の飢饉が持つ普遍的な意味が立ち上がってくる。
当時の社会は、現代と比較して情報伝達や物流のインフラが未発達であり、災害に対する脆弱性は高かった。しかし、現代社会においても、複雑化したグローバルな食糧供給システムや、気候変動による予測不能な災害リスクは、新たな脆弱性を生み出している。養和の飢饉が、天災と人災が複合的に絡み合って拡大したように、現代の危機もまた、自然現象と社会構造、政治的判断が複雑に作用し合って生じる可能性をはらんでいる。
『方丈記』が伝えるのは、飢餓が人々の生命を奪うだけでなく、社会秩序を揺るがし、倫理観さえも変容させるという現実である。食糧が不足すれば、金銭の価値は地に落ち、人々は生きるためにあらゆる手段を講じる。それは、災害時における人間の本質的な姿を映し出す鏡とも言えるだろう。仁和寺の隆暁法印が死者の額に「阿」の字を記して回ったという行為は、絶望的な状況の中で、人としての尊厳を保とうとするささやかな試みであったのかもしれない。
養和の飢饉の記憶は、単なる過去の悲劇としてではなく、現代社会が直面する可能性のある危機に対する警鐘として捉えることができる。それは、自然の摂理と向き合い、社会の脆弱性を認識し、そして何よりも人間の尊厳を守るために何ができるのか、という問いを私たちに突きつけている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 「[鴨長明ってどんな人?」「『方丈記』ってどんな本?」「”養和の大飢饉”原文や現代語訳が知りたい!」わかりやすく解説! - 函館在住の元予備校講師のブログ:歴史・古典・政治経済をやさしく解説kiboriguma.hatenadiary.jp
- 養和の飢饉とは? 意味や使い方 - コトバンクkotobank.jp
- 養和の飢饉 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 元祖ノンフィクションライター・鴨長明が記した「大飢饉」の惨状|『超約版 方丈記』(8)|ほんのひとときnote.com
- 養和の飢饉mie-ict.sakura.ne.jp
- 【養和の飢饉・方丈記】歴史の証言として価値の高い章段【鴨長明】 | すい喬Blogsuikyoblog.com
- 都市史10 「方丈記」にみる三つの災害www2.city.kyoto.lg.jp
- 日本古典文学摘集 方丈記 五 養和の飢饉 原文koten.net