2026/6/8
富山湾の深層水でアワビはなぜ育つ?全国初の陸上養殖に迫る

富山には深層水で育つ鮑がいるらしい。詳しく教えて欲しい。
キュリオす
富山湾の深海から汲み上げる300m以深の深層水。その低温安定性、清浄性、富栄養性を活用し、入善漁業協同組合が全国に先駆けてエゾアワビの陸上養殖に成功した経緯と、その独自の養殖システムについて紹介。
富山湾に面した海岸線に立つと、沖合へ向かって水深が急速に深くなる独特の地形を感じる。この急峻な海底は、時に「天然の生け簀」とも称され、多様な魚介類を育む。しかし、その懐には、想像を超えるような方法で育てられる「海の幸」が存在するという。水深300メートルを超える深海から汲み上げられる冷たい水が、本来であれば富山湾には生息しにくいアワビを育んでいるというのだ。なぜ、これほどまでに手間をかけた養殖が、この地で始まったのだろうか。
富山県における海洋深層水の利用研究は、1986年度に科学技術庁(現在の文部科学省)が開始した「海洋深層資源の有効利用技術の開発に関する研究」に端を発する。富山湾が洋上型海洋深層水有効利用システムの立地場所として選定されたことが契機となり、県は深層水の利活用と陸上揚水の可能性に着目した。特に、冷水性や深海性魚介類の増養殖技術開発において将来性が見込まれると判断されたのである。
その後、1992年から1994年度にかけて、水産庁と(社)マリノフォーラム21の支援のもと、富山県水産試験場(現在の富山県農林水産総合技術センター水産研究所)内に海洋深層水利用研究施設が整備された。この施設により、深層水、表層水、地下水それぞれの特性を活かした深海性・冷水性生物の生理・生態研究や種苗生産試験が可能となったのだ。 こうした研究の蓄積を経て、富山県入善町では2001年に海洋深層水の取水施設が完成する。 そして、入善漁業協同組合が、この清浄な深層水を用いたエゾアワビの陸上養殖に、2002年より本格的に着手した。これは海洋深層水を利用したアワビ養殖としては「全国初」の取り組みだったとされている。 当時、養殖のノウハウがなかった漁協は、大学で水産を学び、アワビの研究をしていた熊谷敬之氏を迎え、ゼロからの挑戦を始めたという。
富山湾の海洋深層水は、その特異な性質によってアワビ養殖に独自の利点をもたらしている。富山湾は最深部が1,000メートルを超える深い湾であり、水深300メートル以深には年間を通じて2℃前後の低温で安定した「日本海固有水」と称される深層水が大量に存在する。 入善町では沖合3キロメートル、水深384メートルからこの深層水を汲み上げており、その特徴は主に三つ挙げられる。
一つは、その低温安定性である。表層水が季節によって8℃から30℃まで大きく変動するのに対し、深層水は年間を通して2℃前後の低温を保ち、水質や海水組成がほとんど変化しない。 アワビの養殖には約16℃が適温とされるため、この低温の深層水を熱交換器で加温し、年間を通じて安定した水温環境を供給している。
二つ目は、その清浄性だ。深層水は太陽光が届かないため光合成が行われず、表層水に比べて一般生菌数が千分の一から一万分の一と極めて少なく、陸や大気からの化学物質による汚染もほとんどない。 この清浄な環境は、アワビが病気にかかりにくいという利点をもたらし、養殖におけるリスクを低減する。
三つ目は、富栄養性である。深層水には、植物プランクトンの栄養源となる窒素やリンなどの栄養塩が表層水よりも豊富に含まれており、ミネラルバランスも優れている。 この豊富な栄養塩を利用し、富山県水産試験場は、富山湾では自生しない冷水性のマコンブを通年で培養するシステムを開発した。 この培養されたマコンブが、エゾアワビの餌として与えられ、自給型の養殖システムを構築しているのだ。 このような深層水の特性を最大限に活かすことで、「入善深層水アワビ」は、小ぶりながらも肉厚でやわらかな歯ごたえ、程よい甘みと豊かな風味を持つ高付加価値な食材として評価されている。
アワビの養殖は、日本各地で行われているが、富山湾の「深層水アワビ」は、その手法と環境においていくつかの点で特徴がある。一般的なアワビ養殖は、沿岸のいけすや陸上水槽で、表層海水や地下海水を用いて行われることが多い。天然のアワビ漁は、海女や漁師が素潜りで採取し、資源保護のため漁獲量や期間が厳しく管理されているのが現状だ。
これに対し、富山県の深層水アワビ養殖は、水深300メートルを超える深海から汲み上げた海洋深層水を基盤としている点が決定的に異なる。 このアプローチは、水温の安定性、清浄性、富栄養性という深層水固有の利点を最大限に活用するものだ。特に、清浄な深層水を用いることで、病気のリスクを大幅に低減できる点は、表層水を用いた養殖では得難いメリットである。 また、富栄養性を活かして、アワビの餌となるマコンブを自家培養する「自給型多段式養殖システム」は、養殖コストの安定化と、餌の品質管理という点で独自の強みを持つ。
海外でも海洋深層水を利用したアワビ養殖の例はある。例えば、ハワイ島では、冷たい海洋深層水を用いて日本の三陸から持ち込まれたエゾアワビの養殖が行われているという。 これは、ハワイの温暖な海水では天然のアワビが生息できないため、深層水の低温性を利用して環境を再現しているケースだ。また、鹿児島県の甑島でも海洋深層水を使ったアワビ養殖の実験が進められており、深層水に含まれる窒素やリンがアワビの餌となる藻の生育を促すことが期待されている。 これらの事例は、深層水の低温性や富栄養性がアワビ養殖の可能性を広げる共通の構造を示している。しかし、富山県の取り組みは、日本海固有の深層水の特性と、マコンブの自家培養を組み合わせた独自のシステムを確立している点で、その地域性と技術的な工夫が際立つ。
富山県入善町の「深層水アワビ」は、現在も入善漁業協同組合が中心となって生産を続けている。稚貝を深層水の水槽で約1年かけて育て、7センチ程度のものを出荷しているという。 かつては製品率を高めるのに10年近くの試行錯誤を要したが、水槽の清掃を徹底するなどの工夫によって、現在では8割程度の製品率を達成しているとされる。
「入善深層水アワビ」は、「明日のとやまブランド」にも認定され、富山湾の新たな名産品として販路拡大が期待されている。 主に高級ホテルや旅館、百貨店などで販売され、生協や郵パックでのギフト販売も進められているようだ。 また、入善海洋深層水パークでは、深層水の取水方法をパネルや映像で解説しており、周辺にはアワビの養殖施設も存在し、「深層水アワビ」として販売されている。
海洋深層水の利用はアワビ養殖にとどまらず、富山県内では滑川市にある「道の駅ウェーブパークなめりかわ」内の「アクアポケット」で、深層水の原水や脱塩水が一般向けに分水されており、健康飲料や食品、化粧品など多岐にわたる商品開発にも活用されている。 さらに、2015年には入善町に海洋深層水で浄化された牡蠣を提供するレストラン「入善牡蠣ノ星」がオープンするなど、その利用は広がりを見せている。
富山湾で深層水アワビの養殖が根付いた背景には、この海域が持つ特異な自然条件と、それを活かそうとする人間のたゆまぬ技術開発の努力がある。水深300メートル以深に広がる日本海固有水という「見えない資源」を、単に汲み上げて利用するだけでなく、アワビの生育に適した水温に調整し、さらにはアワビの餌となる海藻を深層水で培養するという、多角的な循環システムを構築した点は注目に値する。
この取り組みは、アワビの天然資源が減少する中で、安定した供給源を確保するという水産業の課題に対する一つの答えを示している。 また、地域の自然条件を深く理解し、その可能性を最大限に引き出すことで、新たな地域ブランドを創出し、経済的な価値を生み出す具体例でもあるだろう。富山湾の深層水アワビは、単なる養殖技術の成功事例に留まらず、自然の恵みを科学的に解明し、持続可能な形で利用していく未来のあり方を示唆している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。