鹿島神宮の山車人形になぜ神々と剣豪が混ざっているのか、どのようにして5台の顔ぶれが定着したのか

門前に並ぶ巨大な人形たち
茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の参道に立つと、9月初旬の風に乗って甲高い笛の音と太鼓の拍子が響いてくる。12年に一度催される式年大祭「御船祭」や毎年の「神幸祭」の時期、門前町を揺らすのは重さ3トンから4トン、高さ7メートルにも及ぶ巨大な山車だ。巨大な車輪がアスファルトを擦る音とともに、山車の最上部に据えられた大木彫の人形がゆっくりと頭上を通過していく。
見上げる人々が目にするのは、実に独特な顔ぶれである。ある山車には鹿島神宮の主祭神である武甕槌大神が座し、別の山車には皇祖神である天照皇大神や、富士の女神として知られる木花咲耶姫が乗っている。ところが、その神々の列に交じって、戦国時代の剣豪である塚原卜伝や、飛鳥時代の政治家である聖徳太子の姿もある。
鹿島神宮のお膝元で曳き回される山車は、全部で5台。神話の神々が3台、歴史上の英傑や聖人が2台という内訳だ。全国の神社仏閣の祭礼を見渡せば、山車に乗せる人形は神話の登場人物で統一されているか、あるいは地域の歴史画巻として一定のテーマで揃えられていることが多い。
なぜ、東国最古の神宮と称されるこの場所で、神と人間が混ざり合った「5台」という特定のチョイスが定着したのだろうか。単に神社側が格式や教理に合わせて指定したと考えるなら、戦国剣豪や聖徳太子が混ざり込む理由は説明しにくい。この不揃いとも言える顔ぶれがいかにして選ばれ、今日まで受け継がれてきたのか。その背景を探ると、門前町の商人たちが繰り広げた歴史のドラマが見えてくる。
厳粛な神事に割り込んだ町衆の熱気
鹿島神宮の式年大祭は、本来はきわめて厳粛で軍事色の濃い水上神事であった。12年に一度の一日、神輿が本殿を出御して北浦の舟溜まりへと向かい、船に乗り移って対岸の香取神宮側の迎い船と水上で交歓する。陣笠に陣羽織を纏った警護役が刀を差し、古式ゆかしい鹿島新当流の演武や渡御行列が粛々と進む。これが古代から中世を経て形作られてきた神社本来の「御事」の姿である。
この神聖な行列の傍らで、民衆による山車の曳き回しが始まったのはそれほど古いことではない。歴史の記録によれば、鹿島の地に初めて山車が登場したのは江戸時代末期の安政4年(1857年)のこととされる。大町区の町衆が山車を仕立てて奉納したのがその皮切りであった。
当時の江戸周辺や北関東では、豪商たちが財を競い合って豪奢な山車を作り、祭礼を盛り上げる文化が隆盛を極めていた。水運の要衝として栄えた利根川流域の佐原(現在の千葉県香取市)などで花開いた山車文化の波が、陸路と水路を通じて鹿島の門前町にも押し寄せてきたのだ。
大町区の動きに刺激を受けた周辺の町区も、相次いで山車の造営に乗り出した。元治元年(1864年)には角内区が山車を製作し、名工として知られる後藤茂右衛門甚五郎の後裔の手による見事な彫刻が施された。さらに幕末の文久3年(1863年)には仲町区、慶応2年(1866年)には神野区の記録が見られ、明治に入ると明治4年(1871年)に櫻町区、明治6年(1873年)に新町区が山車を曳き出したという記録が残されている。
幕末から明治初期という社会の激動期において、鹿島神宮の門前町である「宮中(きゅうちゅう)」の各町内は、競うように自前の山車を所有し始めた。かつては神野区など他の地区の山車が出された時期もあったが、明治7年(1874年)頃までに、宮中地区の中心をなす5つの町区——角内区、大町区、新町区、仲町区、櫻町区による奉納体制へと集約されていった。
神社が主導する水上神事や神輿渡御に対し、門前町の商人や職人たちは「自分たちの祝祭」を接木しようとした。厳粛な神事の緊張感の中で、町衆が己の経済力と意地をかける対象として立ち上がったのが、この5台の山車だったのである。
神々と英雄が同居する五つの枠組み
5つの町区が山車の上に乗せる人形として何を選んだのかを観察すると、当時の門前町が抱いていた価値観のモザイクが浮かび上がってくる。
まず、角内区が掲げたのは「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」である。鹿島神宮の主祭神であり、雷神・武神として崇められてきた神そのものを山車に載せることは、神宮のお膝元である門前町としての誇りと、正統性を象徴する選択であった。角内区の山車は、現在も5台の中で「筆頭」としての重みを持っている。
次に、仲町区が選んだのは「天照皇大神(あまてらすすめらおおかみ)」だ。神話において武甕槌大神に国譲りの命を下した高天原の主宰神であり、皇室の祖神である。主祭神と皇祖神を揃えることで、鹿島神宮が国家的な聖地であることを山車の上で表現していると言える。
さらに、櫻町区が選んだのは「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」という華やかな女神である。富士山の神であり、繁栄や安産、鎮火の神として広く庶民に愛された女神を乗せることで、山車行列全体に華やかさと祝祭の彩りが加わることになった。
一方で、神道の枠組みから飛び出したのが残る2つの町区である。大町区が選んだ「塚原卜伝(つかはらぼくでん)」は、鹿島で生まれ、鹿島新当流を創始した戦国時代の伝説的剣豪である。足利将軍家に兵法を教授し、 生涯無敗を誇った卜伝は、鹿島の人々にとって最大の誇りであり、郷土の英雄であった。武神である武甕槌大神のお膝元で、実在した地元の剣聖を担ぎ上げることは、町衆にとってきわめて自然で情熱的な選択だった。
そして新町区の「聖徳太子(しょうとくたいし)」は、和の精神や国家鎮護の象徴であると同時に、職人や大工たちの守護神として近世以降に強く信仰された存在である。門前町の発展を支える大工や左官、職人たちのコミュニティの結集軸として、聖徳太子の人形が据えられた。
このように整理すると、5台のチョイスは決してランダムなものではないことが分かる。「神宮の主祭神」「国家の皇祖神」「繁栄を祈る女神」「郷土の英傑」「職人と秩序の聖人」という、門前町が必要とした5つの異なる象徴が見事なバランスで揃えられているのだ。
この山車行事を支えるもう一つの重要な要素が、山車の中で奏でられるお囃子である。演奏を担当するのは「下座連(げざれん)」と呼ばれる専門の囃子方で、町内会とは別の有志組織として受け継がれてきた。香取市佐原から伝わった佐原囃子の流れを汲みつつ、地元の里神楽や独自のメロディが融合した「鹿島囃子」が、重厚な山車の巡行を軽快に彩る。
鹿嶋市氏子青年かなめ会が編纂した『鹿嶋山車下座文化誌』の調査によれば、山車の人形は時代によって柔軟に姿を変えてきたという。昭和50年代の記録写真には、当時の子どもたちを喜ばせるために「サザエさん」や「加トちゃん」、「ウルトラセブン」といった人気キャラクターの人形を山車に載せて練り歩く姿が残されている。
この事実はきわめて示唆的だ。山車の上に載せる人形は、けっして硬直した神事の規定ではなく、その時代その時代の町衆が「いま、何を見せれば町が活気付き、みんなが楽しめるか」を追求してきた動的な表現媒体だったのだ。その歴史の試行錯誤を経て磨き抜かれた結果として、現在の5台の演目が歴史の看板として残ったのである。
商業都市佐原と門前町鹿島のあいだで
東国の山車文化を語るうえで避けて通れないのが、近隣の千葉県香取市佐原や、茨城県石岡市で催される大規模な山車祭りとの対比である。これらの地域の祭礼と並べてみることで、鹿島の「5台」という規模の特殊性が際立ってくる。
佐原の山車行事(夏祭り・秋祭り)では、小野川の沿岸や駅周辺の町々から、合計24台もの豪華絢爛な山車が引き出される。関羽や伊弉諾尊、小野道風など、江戸時代から明治時代にかけて名工が手がけた大人形を載せた山車が狭い街路を埋め尽くす。佐原は「江戸優さり」と称された商業都市であり、各町内が自慢の山車を競い合うことで商業的な賑わいを創出してきた。
また、石岡市の常陸國總社宮例大祭(石岡のおまつり)においても、数十台の山車や独特の「幌獅子(ほろじし)」が市内を巡行し、街全体が熱狂に包まれる。
これら周辺地域の祭りと比較したとき、鹿島神宮の山車が「わずか5台」にとどまっている点は興味深い。門前町としての規模や歴史の長さを考えれば、山車の数が10台、20台と増えていっても不思議ではなかったはずだ。
なぜ鹿島では山車が5台以上に膨れ上がらなかったのか。その理由は、鹿島神宮という巨大な権威の存在と、神事における山車の役割の定義づけにある。
佐原のような商業都市では、祭りの主役はどこまでも町衆と山車であった。これに対して鹿島の場合、大祭の絶対的な主役は神社本校が行う「御神輿の渡御」であり、「御船祭」における水上神事である。陣笠姿の警護や宮司、氏子総代たちが進む厳粛な神事の枠組みがあらかじめ厳格に存在しており、山車はあくまで「祝奉(神事を祝って奉納すること)」の立場を崩さなかった。
山車を曳くことが許されたのは、鹿島神宮の参道に直結する宮中地区の主要5町(角内、大町、新町、仲町、櫻町)に限られていた。これらの町区は「五ケ町」と呼ばれ、神社に対する奉仕と門前の統治を担う中核であった。山車の台数が5台に限定されたのは、門前町の秩序を維持し、神社の厳粛な神事と町衆の賑わいを調和させるための必然的な「歯止め」だったのである。
量的な拡大を追求した商業都市佐原に対し、鹿島は5台というコンパクトな枠組みを守ることで、神社主導の神事と町衆の奉納行事という二重構造をみごとに維持し続けたと言える。
車輪を軋ませる角曲がりと鹿島囃子
現在の鹿島神宮の神幸祭や12年に一度の式年大祭において、5台の山車は見逃せない見どころとなっている。毎年9月1日から2日にかけて行われる神幸祭の期間中、5つの町区の山車はそれぞれの町内を乱曳きしたのち、参道や大町通りへと集結する。
山車の運行を取り仕切る仕組みとして「年番(ねんばん)」制度が敷かれている。5つの町区が1年交代で年番を務め、祭礼全体の運営を差配する。興味深いことに、年番に当たった町区の山車は、通常乗せている大人形を取り外し、代わりに鹿島神宮の御神木である榊(さかき)を高く掲げて巡行するルールになっている。年番の山車は「年番山車」として行列の先頭に立ち、神宮の神意を直接体現する役割を担うのだ。
山車の巡行において、観客の息をのませるのが「のの字廻し」や「角曲がり」の技である。重さ3トンを超える巨体を、曳き手たちが掛け声とともに力を合わせ、向かって左前の車輪を軸にして筆で「の」の字を描くように回転させる。山車の上に据えられた大人形が、あたかも能を舞っているかのように静かに回転する様は、曳き手たちの熟練の技と呼吸の合わせどころである。
また、門前町の狭い十字路や呉服屋の角を曲がる瞬間には、巨大な木製の車輪が激しい音を立て、地面と擦れ合う。曲がりきれずに何度もやり直す曳き手たちの緊迫感と、それを固唾をのんで見守る観衆の熱気が参道に満ちる。無事に曲がりきった瞬間に湧き起こる拍手は、現代の祭りにも脈々と息づく町衆の連帯感を物語っている。
こうした山車行事の伝統を未来へ残すための努力も進んでいる。口伝や経験則に頼りがちだった山車や下座連の歴史について、鹿島神宮の氏子青年組織である「かなめ会」が2年がかりの徹底的な調査を行い、2023年に『鹿嶋山車下座文化誌』という大著を刊行した。古文書の解読や高齢者への聞き取りを通じて、失われた伝統や下座連の笛の達人の系譜が記録として残された。
後継者不足や人口減少といった現代特有の課題に直面しながらも、伝統の骨格を文字として記録し、若い世代へ引き継ごうとする動きが、この門前町で静かに熱を帯びている。
門前町が選び取った五つの物語
鹿島神宮の式年大祭や神幸祭で曳き回される山車が「なぜあの5台なのか」という問いを改めて振り返るとき、そこに見えてくるのは単なる歴史の偶然ではない。
それは、古代以来の厳粛な水上神事という神社の「公」の枠組みに対して、江戸末期から明治の門前町を生きた商人や職人たちが、自らの手で立ち上げた「民」の祝祭の結実であった。
武甕槌大神、天照皇大神、木花咲耶姫という神話の体系。そして塚原卜伝、聖徳太子という人間界の英傑と聖人。これら5つの題材は、神宮の教理によって与えられた配役ではなく、門前町を構成する5つの町区が、己の誇りと地域の物語、そして賑わいへの祈りを込めて選び取ったシンボルであった。
大町区が安政4年に初めて山車を曳き出してから170年近く。明治7年に5台の枠組みが定着して以来、鹿島の街は激動の時代をくぐり抜けてきた。時には昭和の街頭で子どもたちを笑顔にするためにサザエさんの形を借り、時には幾度かの修繕と新造を経て、5台の山車は今も9月の風の中に佇んでいる。
12年に一度の式年大祭の日に神輿が北浦の舟溜まりへと渡っていくとき、参道に整列した5台の山車からは鹿島囃子の段物が奉納される。武神と神々、そして剣聖の形相をした巨大な人形たちが、水上へ向かう神の行列を静かに見送っている。厳格な神事の傍らで町衆が築き上げた5つの物語は、今も変わらず、鹿島の土地の底に太い車輪の跡を刻み続けている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 鹿島神宮神幸祭奉納山車(仲町) - 鹿嶋市ホームページcity.kashima.ibaraki.jp
- 『鹿島神宮のお祭り』鹿島(茨城県)の旅行記・ブログ by morino296さん【フォートラベル】4travel.jp
- 鹿島神宮神幸祭奉納山車(角内) - 鹿嶋市ホームページcity.kashima.ibaraki.jp
- youtube.com
- 鹿嶋市観光協会sopia.or.jp
- もっと、茨城マイラブ♪ 鹿嶋のご神幸(鹿島神宮神幸祭)へ行って来ました!<山車巡行>mitoaoi.blog.fc2.com
- sopia.or.jp
- 鹿嶋の山車と下座 徹底調査 鹿島神宮氏子青年かなめ会が「鹿嶋山車下座文化誌」刊行(茨城・鹿嶋市) | よみうりタウンニュースyomiuri-townnews.com