2026/7/2
神戸・南京町はなぜ「中華街」ではなく「南京町」と呼ばれるのか

神戸の元町の中華街について詳しく知りたい。どのようにできたのか?なぜここにチャイナタウンが形成されたのか?
キュリオす
神戸の南京町は、幕末の開港後、条約未締結だった清国人が居留地の外に形成した雑居地が起源。欧米人の生活を支える「バックヤード」として発展し、震災を経て食べ歩きの文化が根付いた。他の中華街と異なり「南京町」の名を守り続ける背景には、日本人と共に街を築いてきた歴史がある。
境界線が引かれた場所の匂い
神戸の元町を歩いていると、ある地点で不意に風景の密度が変わることに気づく。大丸百貨店を背にして西へ進むと、それまで整然としていた「旧居留地」の重厚な石造りの街並みが途切れ、急に原色の装飾と湯気が立ち込める一画が現れる。南京町。東西約270メートル、南北約110メートルという、横浜に比べれば驚くほどこじんまりとしたこの空間は、なぜこの場所に、この密度で存在しているのだろうか。
観光客が手に持つ豚まんの香りと、呼び込みの声に包まれながら、ふと足元を見る。そこにはかつて、明確な「線」が引かれていた。一方は欧米人が住むことを許された特権的な居留地であり、もう一方はそこから漏れ出た人々が身を寄せた場所だ。この街の成り立ちを紐解くと、それは単なる異国趣味の集積ではなく、幕末から明治にかけての国際政治の「空白」が生み出した、切実な自生の結果であることが見えてくる。
無条約時代の空白に生まれた街
南京町の起源は、1868年(明治元年)の神戸開港にまで遡る。当時の日本は、アメリカやイギリスなどの欧米諸国とはすでに修好通商条約を締結し、彼らの居住区として「外国人居留地」を整備していた。しかし、隣国である清国(中国)との間には、まだ正式な条約が存在していなかったのだ。この「無条約」という宙ぶらりんな状態が、神戸の中華街を特異な形に作り上げることになる。
開港と同時に、長崎などから十数人の華僑が神戸へ移り住んできた。彼らの多くは、欧米人の通訳や使用人、あるいは貿易の仲介者としての役割を期待されていた。しかし、条約を結んでいない清国人は、欧米人のための聖域である居留地内に住むことを許されない。そこで彼らが目をつけたのが、居留地のすぐ西側に隣接する、当時はまだ畑や空き地が広がっていた「雑居地」だった。
1871年に日清修好条規が締結されるまでの約3年間、彼らは法的な居住権が曖昧なまま、居留地の「壁の外」に独自のコミュニティを形成し始めた。当時の記録によれば、道は泥だらけで排水も悪く、人家の周りに溝を掘っただけの劣悪な環境だったという。しかし、そこは港に近く、かつ欧米人が住む居留地にも隣接しているという、商売の上ではこの上ない一等地であった。
明治10年頃には、この狭い路地に雑貨商や飲食店、豚肉商、漢方薬店などが軒を連ね、すでに「南京町」という呼び名が定着していた。当時の日本人にとって、中国から来た人々や物は親しみを込めて「南京さん」と呼ばれており、それがそのまま地名となったのだ。横浜や長崎でもかつては同様の呼称が使われていたが、現在も公式な愛称として「南京町」を掲げ続けているのは、神戸だけである。
この街を支えたのは、単なる移住者としての逞しさだけではない。華僑たちが大切にしてきた「落地生根(らくちせいこん)」という言葉がある。一粒の種が異国の地に落ち、芽を出し、その地の土となるまで深く根を張るという意味だ。彼らは居留地の欧米人と地元の日本人の間に入り、言葉の壁や商習慣の違いを埋める「触媒」として、神戸の街に不可欠な存在となっていった。
居留地のバックヤードとしての発展
南京町が急速に発展したのは、そこが居留地に住む欧米人たちの「生活のバックヤード」としての機能を担ったからである。19世紀後半、神戸の居留地は「東洋で最も美しく設計された街」と評されるほどの近代都市へと変貌を遂げていたが、その華やかな生活を支える物資やサービスの多くは、隣接する南京町から供給されていた。
例えば、当時の日本にはまだ肉食の習慣が乏しかったが、欧米人の食卓には豚肉が欠かせない。南京町には早い段階から豚肉商が集まり、居留地へ新鮮な食材を卸していた。また、洋服の仕立てや塗装、印刷といった、開港都市に必要とされる新しい技術を持つ職人たちも、この街に拠点を置いた。彼らは単に中華料理を提供するだけでなく、西洋の文化を日本風に翻訳し、あるいは日本の物資を西洋へ繋ぐ、物流と情報のハブとなっていたのだ。
南京町が「関西の台所」と呼ばれるようになったのは、昭和初期のことだ。この頃には店舗数は100軒を超え、ここに来れば世界中の珍しい食材が手に入ると評判になった。しかし、その繁栄は1945年(昭和20年)の神戸大空襲によって一度は灰燼に帰す。戦後、街はバラックが立ち並ぶ闇市となり、さらには外国人兵士を相手にするバーが林立する、治安の不安定な裏通りへと変貌してしまった。
現在のような観光地としての南京町が形作られ始めたのは、1970年代に入ってからのことだ。街の衰退を危惧した商店主たちが「南京町商店街振興組合」を設立し、再び「中華街」としてのアイデンティティを取り戻そうと動き出した。1981年には神戸市の支援を受けて環境整備事業がスタートし、東の「長安門」、西の「西安門」、南の「海栄門」といった華やかな楼門が次々と建設された。
興味深いのは、この再開発にあたって、単に古い街を再現するのではなく、あえて「中国的なイメージ」を強調したテーマパーク的な空間作りが行われたことだ。これは、かつての「生活の場」としての南京町が、戦後の混乱を経て一度分断されたからこその選択だった。居住機能の多くはすでに山手へ移転しており、南京町は「商売と観光の象徴」としての純度を高めていくことになる。
居留地の外側に自生した神戸の特殊性
日本三大中華街と称される横浜、長崎、神戸を比較すると、南京町がいかに特殊な成り立ちをしているかが浮き彫りになる。まず、最も歴史が古い長崎の新地中華街は、江戸時代の「唐人屋敷」という隔離政策に端を発している。幕府の管理下で厳格に囲い込まれていた歴史が、現在のコンパクトな街の構造に影響を与えている。
対して、東アジア最大規模を誇る横浜中華街は、神戸と同じく幕末の開港から始まったが、その居住実態は大きく異なる。横浜では、初期の段階から華僑が外国人居留地(現在の山下町一帯)の中に住むことが許されていた。これは、横浜が神戸よりも9年早く開港し、当時の土地利用に余裕があったことや、条約運用の解釈が異なっていたことが要因として挙げられる。そのため、横浜中華街は居留地の区画そのものを飲み込むように巨大化し、居住区と商業地が混然一体となった「街の中の街」として発展した。
これらと比較した時、神戸・南京町の特徴は「居留地の外側に自生した」という点に集約される。神戸の華僑は、居留地という特権的な枠組みから排除された結果、その境界線のすぐ外側で、日本人と雑居しながら独自の経済圏を築かざるを得なかった。この「雑居」というプロセスが、神戸の華僑と日本人社会との間に、他の中華街には見られない独特の共生関係を生んだ。
また、都市構造の面で見れば、横浜が「面」で広がる中華街であるのに対し、神戸は「線」のイメージが強い。南京町は元町商店街という日本人の商業軸と並行して存在しており、地元の買い物客が日常的に通り抜ける「通り」としての性格を色濃く残している。横浜のように区域内に関帝廟や中華学校といったコミュニティの中核施設を持たず(それらは南京町から離れた山手に点在している)、あくまで「商業の最前線」として特化してきたのが神戸のスタイルだ。
サンフランシスコやロンドンのチャイナタウンが、しばしば「ゲットー(隔離居住区)」としての歴史から出発しているのに対し、南京町は最初から外部(居留地と日本社会)との取引を前提とした「マーケット」として成立した。この開放性が、後に震災という未曾有の危機において、驚異的な復興エネルギーへと繋がっていくことになる。
炊き出しから生まれた食べ歩きの文化
南京町の風景を決定的に変えたのは、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災だった。街は甚大な被害を受け、多くの店舗が倒壊した。しかし、震災からわずか数日後、まだライフラインも復旧していない中で、店主たちは店先に机を並べ、ガスボンベを持ち込んで炊き出しを始めた。温かい水餃子や豚まんが、傷ついた市民たちに振る舞われた。
現在、南京町の名物となっている「店頭販売(食べ歩き)」のスタイルは、実はこの震災時の炊き出しがルーツだと言われている。店舗の中に入ってゆっくり食事をする余裕がない状況下で、手軽に食べられる点心を外で売る。それが復興の象徴となり、やがて観光客を惹きつける現在の活気へと繋がっていった。南京町の中心にある「あづまや」の広場で、人々が思い思いに豚まんを頬張る光景は、この街が震災という断絶を乗り越えて獲得した新しい日常の姿だ。
例えば、南京町で行列が絶えない「老祥記」の豚まんは、1915年(大正4年)の創業以来、この街の変遷を見守り続けてきた。初代店主が中国の「天津包子(テンチンパオツー)」を日本人の口に合うようにアレンジして売り出したのが始まりとされる。この小さな饅頭一つにも、異国の文化を咀嚼し、この土地の味として定着させてきた「落地生根」の精神が宿っている。
現在の南京町は、店主の約半数が日本人であるという。中国系の人々と日本人が手を取り合い、春節祭や中秋節といったイベントを「自分たちの祭り」として運営している。そこには、単なるビジネスパートナー以上の、150年にわたる雑居の歴史が育んだ連帯感がある。少子高齢化や後継者不足といった課題は他の商店街と同様に存在するが、南京町は常に「外」からの風を取り入れ、変化し続けることでその鮮度を保ってきた。
かつて居留地の裏通りだったこの場所は、今や神戸を代表する観光の顔となった。しかし、その華やかさの底には、泥だらけの路地を自分たちで切り拓き、空襲や震災の灰の中から立ち上がってきた人々の、乾いた執念が流れている。観光客が去った夜、牌楼の灯りに照らされた静かな路地を歩くと、かつての境界線が持っていた緊張感の残滓が、かすかに感じられるような気がする。
境界が生んだ「南京町」という名の矜持
南京町を歩き終え、再び旧居留地の整然としたグリッドに戻ると、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返る。この鮮やかなコントラストこそが、神戸という街が抱える多層的な歴史の正体なのだろう。欧米人が築いた「理想の近代都市」のすぐ隣に、条約の枠から外れた人々が泥臭く築き上げた「実利の街」があった。この二つの空間が、互いを補完し合いながら開港都市・神戸のエンジンを回してきたのだ。
ここで一つの発見がある。横浜や長崎がその名を「中華街」へと改めた中で、なぜ神戸だけが「南京町」という、かつての日本人が付けた愛称を頑なに守り続けているのか。それは、この街が華僑だけの隔離されたコミュニティではなく、日本人と共に作り上げてきた「元町の、神戸の一部」であるという自負の表れではないか。
差別用語として使われた時代もあった「南京」という言葉を、あえて誇り高い固有名詞へと昇華させたのは、この土地で共に生き、共に震災を乗り越えてきた人々だ。境界線が生み出した「外側」というハンディキャップを、彼らは商才と連帯によって、他にはない熱量を持つ空間へと反転させた。
南京町は、異国情緒を売るだけの装置ではない。それは、政治の空白や災害の絶望を、食と商売という最も根源的な人間の営みで埋めてきた、たくましい生存の記録である。東西の門を結ぶメインストリートを歩くとき、その足元にあるのは単なる舗装道路ではなく、150年かけてこの土地に深く、強く張り巡らされた「根」そのものなのだ。大丸百貨店の角を曲がれば、また次の湯気が立ち上り、一日の商いが続いていく。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 亜細亜中華街紀行 ―第3回 神戸編― 戦火と震災乗り越えた「南京町」と孫文ゆかりの「移情閣」 - 公益社団法人 日本中国友好協会(日中友好協会)j-cfa.com
- 教員コラム - 関東学院大学人間共生学部kyousei.kanto-gakuin.ac.jp
- 町の歴史も解説!神戸が誇る日本三大中華街『南京町』の楽しみ方 神戸市 - Yahoo! JAPANarticle.yahoo.co.jp
- 南京町について | 神戸の中華街・南京町へようこそ!nankinmachi.or.jp
- 南京町hyogo.mytabi.net
- 旧居留地の歴史 | 神戸旧居留地オフィシャルサイトkobe-kyoryuchi.com
- 【コラム】日本の中華街はなぜ生まれたのか――近代日本の黎明を支えた華僑たち | WEB第三文明d3b.jp
- clair.or.jp