2026/6/12
なぜ久美浜の稲葉本家は、糀と廻船で巨万の富を築けたのか

京丹後の豪商稲葉本家について詳しく教えてほしい。
キュリオす
京都府久美浜の豪商・稲葉本家は、糀製造で得た資金を元手に廻船業と金融業を展開し、巨万の富を築いた。その成功の背景には、久美浜の地理的優位性と、地域への貢献によって培われた信用があった。
久美浜の静けさに佇む、豪壮な屋敷の問い
京都府の北西端、日本海に面した久美浜湾のほとり。穏やかな水面を望むこの町に、ひときわ目を引く重厚な建築群がある。豪商稲葉本家。その瓦屋根の連なりと、周囲の静かな町並みとの対比は、訪れる者に一つの問いを投げかける。なぜ、この丹後の片隅で、これほどまでの財と権力を築き上げた一家が存在し得たのか。その答えは、単なる商才のみならず、この土地が持つ歴史と、時流を読み解く確かな眼差しの中にあった。
糀と廻船が織りなした久美浜の基盤
稲葉家の歴史は、織田信長の家臣であった稲葉一鉄の一族にルーツを持つとされている。初代喜兵衛が久美浜に移り住み、当初は糀屋として生業を始めたのが、その端緒であった。糀製造で得た資金を元手に、稲葉家は次第に廻船業へと手を広げていく。江戸時代中期、久美浜が幕府の直轄地となり、享保20年(1735年)には代官所が設置されると、この地は年貢米の搬出港、そして商品経済の拠点として重要性を増した。
稲葉家は、その久美浜の地理的優位性を最大限に活用する。日本海を往来する北前船の寄港地として栄えた久美浜は、物資の集散地となり、稲葉家は廻船問屋として巨万の富を築き上げた。宝暦6年(1756年)には幕府の公金預かり所となり、その信用力を背景に、7代目以降は近隣諸藩の金融を一手に引き受ける掛屋へと発展する。 両替商としての機能も担い、その財力は丹後だけでなく但馬地方にも及んだという。 明治維新後も、稲葉家は久美浜銀行の頭取を務めるなど、時代の変化に適応しながら地域の経済を牽引し続けた。
現在見られる稲葉本家の主屋は、明治18年(1885年)から5年の歳月をかけて、第12代当主の稲葉市郎右衛門(英裕)によって建設されたものだ。 彼は衆議院議員や熊野郡会議長も務めた政治家でもあった。 さらに、13代当主の稲葉市郎右衛門(景介)は、私財を投じて旧国鉄宮津線(現在の京都丹後鉄道宮豊線)の豊岡・久美浜間の開通に貢献し、地域のインフラ整備にも尽力したという。 この豪壮な屋敷は、単なる個人の邸宅ではなく、稲葉家が久美浜という土地で築き上げた信用と影響力の具体的な証左として、今に残る。
三つの事業と地域の要衝
稲葉家が豪商として栄えた背景には、主に三つの事業の連動と、久美浜という土地の特性が深く関わっている。第一に、創業の事業である糀製造が、初期の堅実な基盤を築いた。糀は味噌や醤油、酒の製造に不可欠であり、安定した需要が見込める事業であった。この地道な営みで蓄積された資本が、後の大規模な商売への足がかりとなったことは想像に難くない。
第二に、廻船業である。久美浜湾は日本海に開かれていながらも穏やかな内海を持ち、古くから交通の要衝であった。 江戸時代に西回り航路が整備されると、日本海沿岸の物資が北前船によって運ばれ、久美浜は重要な寄港地の一つとなった。 稲葉家は、この海運の利を最大限に活かし、広範な沿岸交易によって巨富を得る。 物資の流通を掌握することは、地域経済における発言力を高めることに直結した。
そして第三に、金融業への進出である。糀と廻船業で得た潤沢な資金を背景に、稲葉家は幕府や藩の公金を取り扱う掛屋・両替商へと転身する。 これは単に利益を追求するだけでなく、公的な役割を担うことで、その信用と地位を不動のものにしたことを意味する。久美浜が江戸時代を通じて幕府の直轄地であり、代官所が置かれたことは、稲葉家が公的な立場と連携しやすい環境を提供したと言える。 こうした三つの事業が相互に補完し、強化し合うことで、稲葉家は単なる一商人から、地域経済を動かす「豪商」へと成長を遂げたのである。
港町の豪商と内陸の豪農が示す対比
稲葉本家のような豪商の存在は、日本各地の港町や商業都市で見られたが、その成り立ちにはそれぞれの地域の特性が色濃く反映されている。例えば、近江商人のように、全国を行商し、各地に支店を設けて財を成した例とは対照的である。稲葉家は、久美浜という特定の港町を拠点とし、その地の利を活かした廻船業と金融業を深く根付かせた点が特徴的だ。
また、丹後地方に目を向ければ、内陸部には丹後ちりめんの生産に携わった豪農・豪商も存在した。彼らは絹織物という特定産業の生産と流通を担い、地域経済を支えたが、稲葉家のように多角的な事業展開と公的な金融機関としての役割を兼ね備えた例は、久美浜の特異性を示すものだろう。 稲葉家の事業は、単なる物資の売買に留まらず、地域の物流と金融の中枢を担うことで、強固な経済的基盤を築いた。これは、同じく港町を拠点としながらも、特定の品目(例: 昆布、米)の取引に特化した北前船の商人たちとも一線を画す。多様な事業が、久美浜という要衝の地で有機的に結びつき、さらに公的機関との関係を深めることで、稲葉家は単なる富裕な商人ではなく、地域の社会基盤に深く関わる存在となっていった。
その屋敷の建築にも、豪商としての矜持が表れている。明治期に建てられた主屋は、欅や松といった上質な木材を多用し、太い梁を井桁状に組むなど、堅牢かつ豪壮な構造を持つ。 これは、単に住まうためだけでなく、商談の場や客をもてなす迎賓の場としての役割も果たしていたことを示唆する。また、畳の下に防音仕様の床板を3段に張るなど、細部にまで工夫が凝らされており、当主の書斎の間には「商売繁盛」にかけた6.5畳の部屋が設けられるなど、見えない部分にも商売への思いが込められていたという。 こうした建築の細部からも、稲葉家が単なる富の蓄積に終わらず、その富を背景に築き上げた「信用」と「文化」を大切にしていたことが読み取れる。
時を経た屋敷が語る、久美浜の現在
豪商稲葉本家は、現在、京丹後市が所有し、「NPO法人わくわくする久美浜をつくる会」が運営する観光施設として一般に公開されている。 明治18年(1885年)に建設された主屋は、平成15年(2003年)に国の登録有形文化財に指定され、その歴史的価値が認められている。
館内では、往時の帳場や広間、奥座敷などを見学できるほか、江戸時代に迎賓館として使われた離れ「吟松舎」では、美しい庭園を眺めながら、名物のぼたもちや丹後ばらずしを味わうことができる。 また、米蔵を改修した工房では、お香作りや陶芸体験といった文化体験も提供されており、歴史的な空間が現代の観光資源として活用されている姿がある。
一方で、築100年を超える歴史的建造物の維持管理は容易ではない。建物の老朽化や資材の高騰、運営費の確保といった課題に直面しており、NPOは保存維持活動への協力を呼びかけている。 しかし、こうした努力によって、稲葉本家は単なる過去の遺産としてではなく、久美浜の歴史と文化を伝える拠点として、今も訪れる人々にその存在感を示し続けている。京丹後鉄道の久美浜駅から徒歩圏内に位置し、気軽に立ち寄れる立地も、その役割を後押ししていると言えるだろう。
信用が織りなす、土地の記憶
京丹後の豪商稲葉本家を巡ると、単に「富を築いた家」という以上の像が浮かび上がってくる。彼らの成功は、久美浜という地理的な要衝性と、糀製造、廻船業、そして金融業という多角的な事業展開が巧みに組み合わされた結果であった。しかし、その根底には、幕府や藩の公金を預かるほどの「信用」が不可欠だったことが見て取れる。 この信用は、単なる経済活動に留まらず、鉄道敷設に私財を投じるなど、公共性をも帯びた地域の発展への貢献によって培われてきたのだ。
現代において、稲葉本家が地域に開かれた文化施設として存在しているのは、その歴史的価値が認められ、NPOによって維持されているからである。 しかし、その建物自体が持つ堅牢さや細部の工夫、例えば「商売繁盛」を願う6.5畳の書斎や、新婚夫婦への配慮が込められた防音の床板といったディテールは、富を築いた個人の営みと、その富が地域社会に与えた影響を静かに物語っている。 稲葉本家は、久美浜という土地に刻まれた、信用と貢献の歴史が、形となって残り続けている場所なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- デジタルミュージアムK9稲葉家住宅/京丹後市city.kyotango.lg.jp
- 久美浜と豪商稲葉本家 | 京丹後歴史文化めぐりマップkyotango-rekishibunka.jp
- 豪商 稲葉本家は、糀屋を生業として、栄えてきました。享保20(1735)年、幕府の公金預かり所となりました。 久美浜訪問記(8) | 松葉博雄の社長研究室mazba.com
- 豪商稲葉本家庭園 ― 佐野藤右衛門作庭…京都府京丹後市の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】oniwa.garden
- 丹後だけでなく但馬でも広く商売を行った豪商の家を見学しました ~豪商 稲葉本家 京丹後市久美浜町 | それゆけ但馬屋惣兵衛tajimalibe.blog73.fc2.com
- 豪商稲葉本家 | 京都 京丹後 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベルtravel.yahoo.co.jp
- 豪商 稲葉本家 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 豪商稲葉本家 | 旅サラダPLUS 観光・お出かけSPOTtsplus.asahi.co.jp