2026/6/6
中山道と見沼の恵み、浦和・大宮の鰻文化の源流

浦和と大宮は鰻が有名だ。どこで鰻が獲れたのか?そんなにたくさん獲れた場所があったのか?
キュリオす
江戸時代、中山道の宿場町として栄えた浦和・大宮周辺は、見沼などの湿地帯で獲れた天然鰻の蒲焼が旅人に愛され名物となった。開発により天然鰻は減ったが、伝統の技術とタレは今も受け継がれている。
埼玉県の浦和や大宮と聞いて、鰻を思い浮かべる人は少なくないだろう。駅前にはマスコットキャラクター「浦和うなこちゃん」の石像が立つほど、この地域と鰻は深く結びついている。しかし、一見すると海から遠く離れたこの内陸の地で、なぜこれほどまでに鰻が名物として知られるようになったのか。そして、一体どこで、そんなに多くの鰻が獲れたのだろうか。この疑問は、単なる食文化の歴史を超え、この土地の地理的条件と人々の営みの重なりを紐解く手がかりとなる。
浦和が鰻の名産地として名を馳せるようになったのは、江戸時代にまで遡る。当時、浦和は江戸と京都を結ぶ主要街道の一つ、中山道の宿場町として栄え、多くの旅人が行き交う場所であった。この宿場町としての賑わいが、鰻文化の発展に大きく寄与したと考えられている。
当時の浦和周辺は、荒川、芝川、綾瀬川といった河川の流域に広がる湿地帯であり、見沼をはじめとする沼が点在する水郷地帯であった。 これらの豊かな水辺環境は、鰻にとって格好の生息地となり、天然の鰻が豊富に獲れたのだ。 旅人たちは、長旅の疲れを癒すために宿場で休息を取り、その際に地元で獲れた新鮮な川魚、特に鰻の蒲焼を食したという。 この鰻の味が評判を呼び、口コミで広まっていったことが、浦和の鰻が名物となるきっかけとなった。
さらに、浦和の鰻は地元での消費に留まらなかった。紀州徳川家の当主らが鷹狩を行う「御鷹場(おたかば)」がさいたま市付近に指定されており、鷹場御用に収穫された鰻が紀州藩主へ献上された記録も残っている。 このように地方で獲れた鰻が江戸に送られることは「旅鰻(たびうなぎ)」と呼ばれ、浦和の鰻が上層階級にも評価されていたことを示している。 『浦和宿絵図』には、弘化年間(1844~1848年)にはすでに「山崎屋平五郎蒲焼商」が記されており、江戸時代後期には蒲焼を供する店が中山道を行き交う大名や旅人に親しまれていたことがわかる。 明治時代に入っても、1886年(明治19年)創業の「うらわのうなぎ萬店」や1888年(明治21年)創業の「満寿家」といった老舗が軒を連ね、その伝統を受け継いでいる。
浦和や大宮周辺で鰻が豊富に獲れた背景には、この地域の地理的条件が大きく影響している。前述の通り、荒川、芝川、綾瀬川といった河川が流れ、見沼などの広大な湿地帯が広がっていたことが、天然鰻の生息に適した環境を作り出していた。 鰻は海で生まれ、稚魚(シラスウナギ)として川を遡上し、淡水域で成長する。利根川水系はかつて、ニホンウナギの一大産地であり、1960年代には全国の漁獲量の約3割を占めるほどであった。 浦和周辺の河川や沼地も、この広大な水系の一部として、多くの鰻を育んでいたと考えられる。
そして、その豊富な漁場と、中山道という主要な消費地が直結していたことが、浦和の鰻文化を決定づけた。 獲れたての鰻をすぐに調理し、提供できる立地条件は、鮮度を重んじる食文化において大きな優位性となっただろう。また、蒲焼の調理に不可欠な濃口醤油の供給ルートも、浦和の鰻文化形成に影響を与えた可能性がある。 江戸時代後期には、千葉県銚子で開発された濃口醤油が普及し、浦和でもこれを用いた蒲焼のタレが作られるようになったという推測もある。
しかし、大正時代に入ると、都市開発や水田耕作のための湿地の埋め立てが進み、地場産の天然鰻は次第に姿を消していった。 それでも、浦和の鰻文化は途絶えることなく、伝統の味と調理法は老舗の店々によって守り継がれてきた。 現在、さいたま市では「岩槻の人形」「大宮の盆栽」とともに「浦和のうなぎ」を伝統産業に指定し、その継承と発展に取り組んでいる。
浦和の鰻文化が、豊かな水資源と宿場町という消費地の組み合わせによって発展した一方で、日本各地には異なる背景を持つ鰻文化が存在する。例えば、静岡県の浜名湖地方や愛知県の一色地方は、明治時代から養鰻業が盛んになり、現在では養殖鰻の主要産地として知られている。 これらの地域は、鰻の稚魚が採捕しやすかったこと、餌となる蚕の蛹が容易に入手できたこと、そして東京・大阪・名古屋といった大消費地への市場に恵まれていたことなどが、養鰻業発展の要因として挙げられる。 浦和が天然鰻の漁獲と消費地としての役割を担っていたのに対し、これらの地域は「生産地」としての道を歩んだと言える。
また、調理法においても東西で明確な違いが見られる。関東風の蒲焼は、鰻を背開きにして白焼きにした後、一度蒸してからタレをつけて焼き上げるのが特徴だ。 この「蒸す」工程により、余分な脂が落ち、身はふっくらと柔らかく仕上がる。 一方、関西風は腹開きにし、蒸さずにそのまま強火で焼き上げる「地焼き」が主流である。 これにより、皮はパリッと香ばしく、身はしっかりとした食感が残る。 この違いは、江戸の武家社会では「切腹」を連想させる腹開きが避けられたのに対し、大阪の商人文化では「腹を割って話す」という心意気から腹開きが好まれた、という歴史的な背景が指摘されている。 浦和の鰻は、江戸の文化圏に属するため、関東風の調理法が主流となった。
さらに、江戸時代には「江戸前鰻」と「旅鰻」という区別があった。 「江戸前」とは、もともと隅田川河口付近で獲れた鰻を指す言葉であり、ブランド品として他と区別された。 浦和の鰻は、江戸に近い場所で獲れ、江戸に献上されることもあったため、「旅鰻」の中でも特別な位置づけにあったと考えられる。 これは、単に地元の食材を消費するだけでなく、大消費地である江戸との関係性の中で、その価値を高めていった例と言えるだろう。
現代において、浦和周辺で天然の鰻が大量に獲れることはほとんどない。 かつての湿地帯は開発され、都市化が進んだ結果、鰻の生息環境は大きく変化した。現在、浦和の鰻料理店で使用される鰻のほとんどは、静岡県や愛知県、鹿児島県など、全国各地の養殖場で育てられた国産鰻である。 鰻の養殖は明治時代から始まり、大正時代には全国的に普及し、現在では日本の鰻のほとんどが養殖によって供給されている。
しかし、浦和の鰻文化は衰えることなく、現在も約20軒の鰻料理店が営業を続けている。 これらの店は、江戸時代から続く「裂き」「串打ち」「焼き」「たれ」といった伝統的な技術と、それぞれの店が長年受け継いできた秘伝のタレを守り続けている。 昭和30年代には50軒ほどの鰻屋があったとされるが、その数は減少しているものの、「浦和のうなぎを育てる会」が1993年(平成5年)に発足し、後継者の育成や伝統の継承、地域活性化に取り組んでいる。 さいたま市浦和区のマスコットキャラクター「浦和うなこちゃん」も、この活動の一環として、浦和の鰻文化の普及に貢献している。
毎年5月には「浦和うなぎまつり」が開催され、伝統的な鰻料理のPRや、鰻の完全養殖に向けた募金活動、ニホンウナギの資源保護活動にも積極的に取り組んでいる。 このように、かつて天然鰻の恵みによって栄えた地は、今、持続可能な食文化として鰻を守り、次世代へと繋ぐための新たな努力を続けているのだ。
浦和や大宮の鰻は、単に豊富な天然資源があったから有名になったという単純な話ではない。江戸時代の中山道という交通の要衝、広大な湿地帯という地理的条件、そして献上品となるほどの品質が重なり合い、食文化として根付いていった経緯がある。
地場の天然鰻が姿を消した後も、この地で鰻料理が継承されてきたのは、単に「おいしい」という評価だけでなく、宿場町としての歴史の中で育まれた「もてなし」の文化と、それを支える職人たちの技術があったからだろう。 鰻を巡る浦和の歴史は、自然の恵みがもたらす一時的な繁栄だけでなく、変化する環境の中で、人々がどのように食文化を守り、発展させてきたかを示す一つの事例である。かつて水辺に溢れた鰻の記憶は、今も老舗の暖簾と、香ばしい蒲焼の煙の中に息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。