本居宣長に一度も会っていない平田篤胤は、どのようにして死後「門人」を名乗ったのか?

没後の門人と刻まれた異形の図版
東京都渋谷区代々木の路地を抜けると、平田神社という小さな社が佇んでいる。祀られているのは、江戸時代後期の国学者・平田篤胤だ。境内には、渡辺清が描き本居春庭が賛を添えた『夢中対面図』の写しや、篤胤の遺品が伝わる。
その絵には妙な違和感がある。篤胤は生涯で一度も、師と仰ぐ本居宣長に会ったことがない。宣長が伊勢松阪で没した1801年(享和元年)、篤胤はまだ国学の存在すらろくに知らなかった。それにもかかわらず、篤胤は宣長が死んだ2年後に「夢の中で宣長と対面し、入門を許された」と主張し、「宣長没後の門人」を自称し始めた。
本居宣長といえば、漢意(からごころ)という外来の先入観を徹底的に削ぎ落とし、古代の文献をどこまでも緻密に解読する考証学の権威だ。しかし、その正統な継承者を自負した篤胤が展開した学問は、師の緻密な文献学とは似ても似つかないものだった。
篤胤は『古事記』の解釈にとどまらず、天狗に連れ去られたという少年の証言を集め、死後の魂がどこへ向かうのかを地動説や西洋医学の知識まで交えて真面目に論じた。さらにはキリスト教の教典を密かに翻訳して自作の神学に組み込み、富永仲基の説を借りて仏教を痛烈に批判してみせた。
文献学の精密な世界から、なぜこれほど怪しげで、しかし強烈な宗教的システムが立ち現れたのだろうか。国学という学問の枠をはみ出し、幕末の村々へ爆発的に広がっていった思想の仕掛けはどこにあったのか。
二十歳の出奔と不眠不休の筆
平田篤胤の出発点は、学者の家柄でもなければ恵まれた環境でもなかった。安永5年8月24日(1776年10月6日)、出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)の大番組頭だった大和田清兵衛祚胤の四男として生まれた。幼名を正吉といった。生家の大和田家は朱子学を奉じる家柄で、国学や神道とは無縁の環境だったとされる。
後年の手紙や記述によれば、少年時代の篤胤は家庭環境に恵まれず、捨て子同然の苦難を味わった。寛政7年(1795年)1月8日、20歳になったばかりの篤胤は、わずか500文の銭を懐に懐紙への書き置きを残して久保田城下を出奔した。「1月8日に家を出る者は二度と故郷へ帰らない」という現地の言い伝えをあえて選んだ決死の脱藩だった。
江戸へ出た篤胤を待っていたのは極貧の生活だった。大八車を引く労働から、5代目市川團十郎の飯炊きや三助、火消しに至るまで、泥くさい雑用をこなしながら苦学を重ねた。旗本屋敷の奉公人として働く傍ら、最新の西洋医学や天文学、地理学の知識を貪欲に吸収していったという。
転機は寛政12年(1800年)、25歳のときに訪れた。勤め先でその才覚を見抜いた備中松山藩士で山鹿流兵学者・平田藤兵衛篤穏の養子となり、平田姓を継ぐことになった。享和元年(1801年)には、旗本屋敷で奥勤めをしていた駿河沼津藩士の娘・織瀬と結婚する。
篤胤が国学の存在を知ったのは、享和3年(1803年)、28歳のときだった。妻の織瀬が求めてきた宣長の著作を読んだことがきっかけとされる。宣長が提示した古代日本の姿に深い衝撃を受けた篤胤は、翌文化元年(1804年)に「真菅乃屋」の号を掲げて独立。文化2年(1805年)には宣長の実子である本居春庭に入門書簡を送り、例の「夢中入門」を語って正式に本居派の一員となった。
文化3年(1806年)から自宅で私塾(のちに気吹舎と改称)を開き、門人の教授を始める。篤胤の執筆スタイルは凄絶を極めた。何日間も不眠不休で机に向かい、限界が来るとそのまま倒れ込むように寝て、目が覚めると再び筆を走らせたという。
文化8年(1811年)、駿河国府中の門人を訪ねた篤胤は、記紀をはじめとする古伝の記述に矛盾が多いことに異議を唱えた。門人柴崎直古の寓居に25日間籠もりきりになり、古典の神話を独自の判断で再構成した『古史成文』と、その編纂根拠を示した『古史徴』を一気に書き上げた。文献学的な正確さよりも、一貫した神学としての体系を作り上げる道へと足を踏み出していた。
だが、篤胤の生涯と思想を根底から変えた決定的な出来事は、文化9年(1812年)に起きた。愛する妻・織瀬の死である。
顕界と幽冥を繋ぐ宇宙神学
妻を失った深い喪失感のなかで、篤胤は「天地の神はなきかもおはすかも」と歌を詠み、死者の魂がどこへ向かうのかという問いに執着し始めた。同年に書き上げた『霊能真柱』こそ、平田神学の骨格を決定づけた著作である。
本居宣長は古典の記述に忠実に、人は死ねば誰しも「夜見(黄泉)」という汚く悲しい他界へ行くのだと説いた。死は逃れられない悲劇であり、それをそのまま受け入れることこそが古代人の心情だと考えた。
これに対し、篤胤は真っ向から反論した。人は死後、遠い黄泉の国へ行くのではない。私たちが生きている目に見える世界(顕界)と同じ空間に重なり合って存在する目に見えない世界(幽冥界)へ赴くのだと主張した。幽冥界を主宰するのは、天照大神に国土を譲って退いた大国主命である。
死者の魂は身近な墓や神社、山森に留まり、顕界の様子を見守りながら生者と交流を続ける。顕界からは幽冥が見えないが、幽冥からは顕界が克明に見えている。生きては天皇の「御民(みたみ)」として仕え、死しては大国主命の統治のもとで神となって郷土を見守る。死は恐怖すべき滅びではなく、安心すべき移行であるという「死後安心論」を提示したのだ。
この一見すると独創的な世界観を構築するため、篤胤はあらゆる知識を動員した。服部中庸の図解『三大考』をベースにしつつ、長崎経由で入ってきたコペルニクスの地動説(志筑忠雄『暦象新書』)や西洋地理学の概念を応用して宇宙の構造を描き直した。
さらに、文化3年(1806年)に完成させていた『本教外篇』では、マテオ・リッチやディエゴ・デ・パントーハら宣教師が著した中国語のキリスト教書を密かに翻案していた。旧約聖書の天地創造や創造主の概念を「天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」にあてはめ、日本こそが世界の中心たる「本つ御柱」であるという首尾一貫した一神教的・神学的な宇宙論を作り上げたのだ。
篤胤の知的な偏執は、目に見えない世界の裏付け調査へと向かった。文政3年(1820年)、天狗の住む異界へ往来したと噂された少年・寅吉を自宅に引き取り、異界の衣食住や呪術について細かく問いただして『仙境異聞』としてまとめた。前世の記憶を持つ少年・勝五郎からは『勝五郎再生記聞』を聴き取り、霊魂の実在を客観的(と彼が信じる方法)に証明しようとした。
また、富永仲基の「大乗非仏説」を巧みに利用した『出定笑語』を著し、仏教の教義は後世の捏造であると痛烈に批判した。漢意や仏教を排撃しながら、その批判の武器として西洋科学やキリスト教、他宗のロジックを貪欲に取り込むという、歪だが強靭な思想体系がここに完成した。
政治的には、全日本人を身分を超えて「神の末流」「御民」と位置づける「御国の御民」論を展開した。同時に、将軍や村役人の支配権は天皇から委任されたものであるとする「みよさし(委任)」の論理を提示した。これにより、地方の村役人や農民たちは、被支配層でありながら自らの仕事に神聖な倫理的責任を見出し、荒廃する村落の再建へ向かう強い実践力を手に入れたのだった。
考証の「鈴屋」と救済の「気吹舎」
篤胤の組み上げた復古神道は、同時代の他の国学者や宗教運動と並べて比較したとき、その異質な立ち位置がよりはっきりと浮かび上がる。
まず、本居宣長を中心とする伊勢松阪の「鈴屋(すずのや)」学派との対比である。宣長らの学問は、徹底した文献の解釈と歌学、古典の考証を主軸とするフィロロジー(文献学)であった。彼らは現実の政治運動や過度な宗教的ドグマからは適度な距離を保ち、古典の言葉を正確に復元することを目指した。
そのため、文献学的厳密さを無視して古典を勝手に編纂し直し(『古史成文』)、異国の説まで混ぜ合わせて霊魂論を展開する篤胤のやり方は、鈴屋の正統な門人たちから激しい反発を受けた。文政6年(1823年)、篤胤が関西を訪れた際、京都の城戸千楯や大坂の村田春門ら宣長の弟子たちは篤胤を露骨に排斥し、「山師」「邪道」と非難した。宣長の後継者である本居大平とは対立を回避して面会を果たしたものの、鈴屋の本流から見れば篤胤は明らかな逸脱者であった。
一方で、江戸時代後期という時代は、庶民の間で新しい民俗宗教が次々と誕生していた時期でもある。文化11年(1814年)に黒住宗忠が開いた黒住教、天保9年(1838年)に中山みきが集落で始めた天理教、安政6年(1859年)に金光大神が開いた金光教、さらには富士講や御岳講といった山岳信仰の結社が庶民の日常に深く浸透しつつあった。
これら庶民宗教の多くは、教祖の「神がかり(シャーマニズム)」や直感的な体験を契機とし、病気平癒や家業繁栄といった現世利益の救済を第一に掲げていた。組織の基盤は主に無学な農民や町人層であった。
篤胤の気吹舎(いぶきのや)が提示したものは、これら双方の要素を併せ持ちながら、どちらとも異なる第三の領域だった。
篤胤は、宣長のような「文献学者の精密さ」は持たなかったが、「学問の形をとった理論的体系」を提示してみせた。そして民俗宗教のような直感的な祈祷にとどまらず、西洋天文学や地動説、世界地理といった最新の知知識を「神道の正当性を補強するデータ」として惜しみなく組み込んだ。
その結果、平田国学が直撃したのは、単なる下層農民でも、京都や江戸の象牙の塔にこもる学者でもなかった。地方の豪農、村役人、宿場町の名主、地方神官といった「現場のリーダー層」である。
彼らは、村落共同体の崩壊や商品経済の波に晒され、新しい実用的な知識と、自らの立場を裏付ける精神的な拠り所を同時に求めていた。篤胤の講談風で分かりやすい著作(大意もの)や「御民」としてのプライドを与える教えは、地方の有力者たちの知的欲求と救済願望を同時に満たす絶妙なパッケージとなったのである。
越谷の草庵から伊那谷の幕末へ
江戸の真菅乃屋・気吹舎にとどまっていては学問は広がらないと考えた篤胤は、文化13年(1816年)から千葉の下総・上総地方へ、次いで武蔵国の越谷などへ積極的に足を運んだ。地方の有力者を訪ねて講釈を行い、出版資金の援助を得ながら門人を増やしていった。越谷の油商人・山崎篤利らの支援を受けて久伊豆神社の境内に草庵「松声庵」を結んだのもこの時期のことだ。
気吹舎の門人数は、篤胤の生前だけで553人に達した。さらに没後の門人を合わせると、その数は4,200人を超えたとされる。特に信州の伊那谷や越後、関東、奥羽の農村部において、平田学派は強固なネットワークを形成した。
島崎藤村の長編小説『夜明け前』は、木曽福島や馬籠宿の名主たちが平田国学に傾倒していく様を詳細に描いている。主人公・青山半蔵のモデルとなった藤村の父・島崎正樹もまた、平田派の熱狂的な信奉者だった。黑船来航以降の激動の時代において、地方の草莽(そうもう)の志士たちを動かしたのは、鈴屋の文献学ではなく、篤胤が打ち立てた尊王攘夷の実践的エネルギーであった。
しかし、その強烈な主張は幕府の警戒を呼び寄せることにもなった。天保12年(1841年)1月1日、西洋のグレゴリオ暦を評価しつつ幕府の改暦や中国由来の暦制を痛烈に批判した『天朝無窮暦』を刊行したことが引き金となり、篤胤は幕府から著述差し止めと江戸追放(国許帰還)を命じられた。
故郷の秋田へ戻った篤胤は久保田藩士として迎えられ、邸宅を与えられて地元の門人に教授を続けた。江戸への復帰を望みながらも叶わず、天保14年閏9月11日(1843年11月2日)、未完の『古史伝』などの草稿を残したまま、久保田城下亀ノ丁の邸宅で病没した。享年68。「思ふこと一つも神につとめ終へず今日やまかるにあたらこの世を」が辞世の句であった。
明治維新の成立直後、神祇官の復活とともに平田派の神道家たちは一時期政府の中枢で強大な影響力を持った。しかし、欧米化を進める近代政府が国家神道の体制を整えていくプロセスの中で、教条的すぎた平田派は次第に中央の政治機構から排除されていった。
だが、篤胤の遺産が潰えたわけではない。彼の膨大な著作『古史伝』全37巻は、養子の平田銕胤(てつたね)や門人の矢野玄道らの手によって引き継がれ、明治44年(1911年)に至ってようやく全巻の刊行が完了した。
また、死者の魂が日常の風景のすぐ隣に留まり、生者を見守っているという篤胤の幽冥観は、近代以降に柳田國男や折口信夫が打ち立てる日本民俗学のベースカラーへと深く溶け込んでいった。
雑種的知が組み上げた「もう一つの近代」
平田篤胤という人物を振り返るとき、私たちは彼を「江戸後期の過激な国学者」あるいは「奇行の目立つ復古神道家」という型にはめて解釈しがちだ。
しかし、彼がやった仕事の本質は、まったく別の場所にあったのではないか。それは、鎖国という閉じられた世界の末期において、外から押し寄せる西洋の科学知(地動説・天文学・医学)と、伝統的な神話世界との間を強引に架橋する「思想のエンジニアリング」であった。
本居宣長は外来の知識を「漢意」として排斥することで古代の純粋さを守ろうとした。だが篤胤は違った。彼は洋学の最新データも、キリスト教の神学構造も、仏教批判のための富永仲基の論理も、利用できるものはすべて丸飲みして分解し、自らの神学のパーツとして組み替えてしまった。
純粋な日本古来の伝統を守ろうとしたはずの復古神道が、その実、極めてハイブリッドで「雑種的」な世界知の集積によって成り立っていたという逆説。これこそが、平田篤胤という思想家が持つ独特の強さである。
秋田の久保田藩を500文で飛び出した青年は、不眠不休の執筆の果てに、目に見える現実(顕界)と目に見えない世界(幽冥)を繋ぐ巨大な見取り図を描き上げた。その見取り図は、近代という激流に呑み込まれようとしていた幕末の日本人に、「自分たちは何者であり、どこへ行くのか」という強い内面的な足場を提供した。
秋田市千秋公園の彌高神社や代々木の平田神社には、彼が遺した烏帽子や文机、そして『古史成文』の板木が静かに保管されている。
文献学の正統からは「山師」と蔑まれながらも、時代が必要とした知的救済を作り上げた男の痕跡は、今も具体的なモノの質感として、各地の社に淡々と残されている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 平田篤胤 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 平田篤胤とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書weblio.jp
- universal-mind : 国学者平田篤胤の生涯universai-mind.blog.jp
- iyataka-jinja.jp
- 縣居通信|賀茂真淵記念館【浜松生まれの国学者、賀茂真淵】mabuchi-kinenkan.jp
- Web書画ミュージアム 平田篤胤nagaragawagarou.com
- こよみの学校 第250回 平田篤胤と天朝無窮暦①ー真暦考を継いだ「没後の門人」|暦生活 | 日本の季節を楽しむ暮らし543life.com
- ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典 P 5 ー入門篇、ne.jp