2026/6/8
金森長近が築いた越前大野、水と共にある城下町の記憶

福井の大野について詳しく知りたい。
キュリオす
福井県大野市は、金森長近による城下町整備と、白山麓の豊富な伏流水が特徴。碁盤目状の町割りに水路が張り巡らされ、湧水が生活や産業を支えてきた。他の「小京都」とは異なる、水と共生する独自の文化と歴史を持つ。
大野の町が現在の姿の基礎を築いたのは、戦国時代の武将、金森長近の手によるものだ。天正3年(1575年)、織田信長は越前の一向一揆を鎮圧した後、大野郡の大部分を長近に与えた。翌天正4年(1576年)頃から、長近は標高約249mの亀山に越前大野城の築城を開始し、同時にその東麓に城下町の建設を進めたのである。
長近は、織田信長の側近として各地で戦功を重ねた人物であり、後に飛騨高山の城下町も整備した経験を持つ。越前大野の町割には、京都の町並みを模したとされる碁盤目状の区画が採用された。南北に6筋、東西に6筋の通りが短冊形に区割りされ、中心部を東西に貫く道幅5間(約9m)の大通りは「七間通り」と呼ばれたという。この町割は、明治維新後の2度の大火で市街地が焼失した後も、一部の拡張を除けば、長近時代とほぼ同じ道筋と道幅で今日まで受け継がれている。
城の築城においては、土台となる石垣に自然石をそのまま積み上げた「野面積み(のづらづみ)」という工法が用いられた。現在の天守は昭和43年(1968年)に再建されたものだが、その石垣からは戦国期の堅固な築城技術を窺い知ることができる。亀山という地名は、山の形が亀に似ているためとも言われるが、長近が京都の小倉山にある亀山にちなんで名付けたという説も存在する。長近は縁起の良い亀や金色の龍を好み、陣羽織に亀の文様を入れたり、京都に「金龍院」という寺院を建立したりしていることからも、その嗜好が伺える。
金森長近の後、大野城主は豊臣秀吉の一族や織田信長の孫などが務めた時期を経て、江戸時代には福井藩の一部となり、その後、土井利勝の子である土井利房が城主となってからは幕末まで約180年間、土井家が治めることとなる。土井家は8代にわたり大野藩を統治し、特に幕末期の藩主である土井利忠は、財政難に苦しむ藩を「更始の令」によって再建し、洋学の導入や蝦夷地探検など、時代の先を行く政策を推進したことでも知られている。このように、越前大野は、金森長近による初期の町づくりから、江戸時代の安定した藩政、そして幕末の改革に至るまで、それぞれの時代の為政者によってその骨格が形作られてきたのである。
大野が「名水のまち」と呼ばれる所以は、その地理的条件と気候に深く根ざしている。市は福井県の東部に位置し、日本百名山の一つである荒島岳をはじめ、1000m級の両白山地の山々に囲まれた盆地である。冬には日本海側気候特有の豪雪に見舞われ、市街地で平均50cmから1m50cm、山間部では1mから3mもの積雪がある。この豊富な雪解け水が、大野の水源の根幹をなしているのだ。
大野盆地は、九頭竜川とその支流である真名川や清滝川などが形成した扇状地の上に位置する。この扇状地の地形が、水を蓄える天然のダムの役割を果たしている。地下50mから200mには水を通さない岩盤があり、その上に広がる小石や砂の砂礫層が、山や川から浸透した水をたっぷりと蓄えているのである。雨や雪が地下に浸透し、30年から50年の時間をかけてゆっくりと濾過され、市内の至る所で「清水(しょうず)」と呼ばれる湧き水として地上に現れる。大野市内には「御清水(おしょうず)」や「本願清水(ほんがんしょうず)」など、20箇所以上の湧水地が存在し、これらは環境省の「名水百選」や「平成の名水百選」にも選定されている。
金森長近による城下町づくりにおいて、この豊富な湧水は巧みに利用された。越前大野城の内堀や外堀には湧水がたたえられ、城下には上下水路が整備されたのである。上水路には主に本願清水の湧水が導かれ、飲料水や生活用水、防火用水、さらには冬の消雪用水として使われた。一方、生活雑排水を流す下水路は各屋敷の背中合わせの境に設けられ、「背割り水路」と呼ばれた。現在でも市街地の多くの家庭では井戸から地下水を汲み上げて生活用水としており、水道代がほとんどかからない家庭もあるという。
この清らかな水は、大野の食文化や産業にも深く関わってきた。酒や味噌、醤油、豆腐といった伝統的な食品製造業が盛んであり、香り高い越前おろしそばや、冬の風物詩であるでっち羊かんも、この豊かな水があってこそ生まれる特産品である。また、本願清水には、国の天然記念物に指定されている陸封型のイトヨが生息している。イトヨは清澄な水環境の指標生物であり、その生息地の保全活動は、市民と行政が一体となって水の文化を守り、次世代に引き継ぐ意識の表れでもある。
「小京都」という呼称は、日本各地に点在する、京都に似た風情を持つ町に与えられることが多い。しかし、越前大野が「北陸の小京都」と呼ばれるのには、他の小京都とは異なる明確な理由がある。多くの小京都が、歴史的な町並みや伝統文化の継承に重きを置く中で、大野は「水」という要素が町の骨格そのものに深く組み込まれている点が特異だと言える。
例えば、金沢もかつて「北陸の小京都」と称された時期があったが、金沢が多様な文化や加賀百万石の絢爛豪華な歴史を背景に持つ一方、大野はより直接的に「水」が生活と産業の基盤となっている。大野の碁盤目状の町割は、単なる京都への模倣に留まらず、金森長近が意図的に水路を張り巡らせるための合理的な設計であった。城下町の整備と同時に上水道・下水道の機能を持つ水路が設けられ、湧き水を生活用水として活用するシステムが構築されたのだ。これは、水利の便を追求した結果であり、単に景観を模しただけではない、実用性と機能性に裏打ちされた「水の城下町」としての性格を強く持つ。
また、大野が位置する奥越前地域は、冬には豪雪に見舞われる。この雪が、地下水を涵養する重要な源となる一方で、厳しい生活環境ももたらす。他の温暖な地域の小京都では見られない、雪国ならではの暮らしの知恵や文化が育まれてきた点は、大野の独自性を際立たせる。例えば、冬にこたつで食される「でっち羊かん」は、雪深い冬の保存食として根付いたものであり、その製法には清らかな水が不可欠である。
さらに、大野の繊維産業の歴史も特筆に値する。明治時代には、近江塩津から琵琶湖を渡り京都から新しい織機を買い付け、技術者を招聘して輸出向けの羽二重(はぶたえ)製織が盛んになった。福井県全体で絹織物輸出額の60%を占める時代もあったという。この発展の背景には、絹の精練に不可欠な清らかな水が豊富に存在したことが挙げられる。水質が製品の品質を左右するため、大野の豊かな地下水は、この産業を支える重要な基盤となったのだ。このように、大野は単に風情があるだけでなく、その地理と気候から得られる「水」という資源を最大限に活用し、独自の産業と文化を築き上げてきた点で、他の小京都とは一線を画していると言えるだろう。
現代の越前大野の町を歩くと、その歴史と水とのつながりが今も息づいていることを実感できる。町中のいたるところに「清水(しょうず)」と呼ばれる湧水地があり、住民が日常的に利用している風景を目にする。環境庁の「名水百選」に選ばれた「御清水」は、かつて城主の用水として使われたことから「殿様清水」とも呼ばれ、今も共同の洗い場として、地域住民のコミュニケーションの場となっている。ここでは、野菜は上手で洗濯物は下手という不文律が守られてきたという。
町の中心部を東西に走る七間通りでは、400年以上の歴史を持つ「七間朝市」が、春分の日から大晦日まで毎朝開かれている。地面に直接、旬の野菜や山菜、手作りの惣菜や加工品が並べられ、生産者と客が直接対話しながら買い物をするのが特徴だ。観光客も多いが、地元の人々が新鮮な食材を求め、大野弁での会話が飛び交う光景は、この町の活気と人々のつながりを感じさせる。朝市が始まったのは城下町が整備された頃とされ、金森長近自身も市のにぎわいを城から眺めていたかもしれないという。
大野市は、豊かな水環境と歴史的な町並みを未来に引き継ぐため、様々な取り組みを進めている。「結の故郷(ゆいのくに)」という言葉は、昔から今日までお互いに助け合う習慣や、様々な地域との絆を大切に育んできた大野市を「結」がたくさん詰まった一つの「故郷」と位置付けて表現したものだ。この「結」の精神は、田植えや稲刈り、山仕事、道路の修繕といった共同作業だけでなく、地域と地域を結ぶ役割や、各地域の活性化に結びつく役割にも込められている。
また、近年では、地下水保全のための「Carrying Water Project」のような取り組みも展開されている。これは、単に水を守るだけでなく、水を通じて地域の本質を見つめ直し、人口減少対策や地方創生に繋げようとする試みである。湧き水巡りを楽しむためのボトルサービス「ミタス(Me+asu)」は、その収益の一部が地下水保全活動に充てられるという。
越前大野城は、特定の気象条件が揃うと雲海に浮かぶ「天空の城」として知られ、多くの観光客を惹きつけている。城下町には武家屋敷や寺院が建ち並ぶ寺町通りもあり、歴史的な風情を味わいながら散策できる。このように、大野は歴史的な遺産を観光資源として活用しつつ、湧き水という自然の恵みを生活と文化の中心に据え、地域全体でその価値を守り育てようとしている。
越前大野の町を巡り、その歴史と風土に触れると、この地が「水」によって生かされ、形作られてきたことが明らかになる。金森長近が京都を模して町割りを進めた際、単なる美意識だけでなく、豊富な湧水を効率的に利用するための実用性が重視された。碁盤の目状の区画は、城下町の防御機能と同時に、水路を張り巡らせ、生活用水を確保するための合理的な選択であったのだ。
大野の「小京都」たる所以は、単に古い町並みが残るという受動的な側面だけではない。雪深い山々に囲まれた盆地という地理的条件がもたらす豊富な地下水という恵みを、人々が積極的に生活に取り入れ、産業を興し、文化を育んできた能動的な営みにこそ、その本質がある。湧き水を「清水(しょうず)」と呼び、日々の暮らしに活かし、朝市で地域の恵みを分かち合う姿は、水と人との間に築かれた深い関係性を物語っている。
明治期の大火や、現代の人口減少といった変化に直面しながらも、大野がその町並みや水文化を保ち続けてこられたのは、先人たちの築いた堅固な基盤と、それを守り、活用しようとする現代の人々の「結(ゆい)」の精神があったからだろう。湧き水は単なる天然資源ではなく、この町の歴史、文化、そして人々の暮らしそのものを映し出す鏡なのだ。越前大野は、水の恵みを最大限に生かし、それを未来へ繋ぐ知恵と努力を続ける、生きた城下町なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。