2026/6/8
勝山の越前大仏はなぜ新しく巨大なのか?実業家の夢とバブルの熱量

勝山の越前大仏について詳しく知りたい。実は最近できたものだと聞いた。
キュリオす
福井県勝山市に立つ越前大仏は、1987年に実業家・多田清が私財を投じて建立した。故郷への恩返しとバブル景気の熱量が結実したこの巨大仏は、伝統的な大仏とは異なる成り立ちを持つ。その建立の背景と、現代における新たな展開を探る。
福井県勝山市の山間を訪れると、突如として視界に飛び込んでくる巨大な伽藍群に驚かされる。特に、奈良や鎌倉の大仏に匹敵する、いやそれ以上の大きさを誇る「越前大仏」の姿は、多くの旅人の抱く仏像への固定観念を揺さぶるだろう。古刹の趣とは異なる、どこか現代的な、しかし圧倒的なスケール感を持つこの大仏は、実は昭和の終わり、1987年(昭和62年)に完成したものだと聞けば、その意外性に立ち止まらずにはいられない。なぜこの地に、これほど新しい巨大な仏が建立されたのか。その問いの先に、一人の実業家の壮大な夢と、時代が持つ熱量が見えてくる。
越前大仏を語る上で欠かせないのが、その建立者である多田清(ただ きよし、1905-1991)という人物だ。福井県勝山市に生まれた多田は、幼くして実家が没落するという経験をしている。その逆境を乗り越え、大阪で「相互タクシー」を創業し、一代で関西を代表するタクシー会社へと育て上げた実業家である。
多田は晩年、「人生借金返済論」を唱え、社会への恩返しとして数多くの慈善事業や寄付を行ったという。その集大成として彼が構想したのが、自身の故郷である勝山に大仏を建立することだった。多田は自ら大仏殿の設計や付属品の試作にも関わり、工事が始まってからも週に一度は現場を訪れ、細部に至るまで自身の目で確認し、職人たちに厳しい注文を出したとされる。
1987年5月28日、総工費380億円ともいわれる巨額の私財が投じられ、大師山清大寺の越前大仏は開眼供養を迎えた。当初は観光施設としての性格が強く、勝山市に固定資産税を納めるために宗教法人とはしなかったとも言われている。広大な敷地には、大仏殿、五重塔、そして中国の九龍壁を再現した装飾壁などが配置され、一つの壮大な仏教テーマパークとも呼べる景観が生まれた。
越前大仏が勝山の地に建てられた背景には、創業者・多田清の故郷への強い思いと、彼が成功を収めた昭和の経済状況が深く関係している。多田は少年期の貧困から這い上がり、先見の明と経営手腕で「タクシー王」と称されるほどの財を築き上げた。その成功の証として、また故郷への「借金返済」という彼なりの哲学に基づき、故郷に一大事業を成し遂げようとしたのである。
大仏のモデルは、仏教伝来のルーツである中国河南省洛陽市の龍門石窟にある奉先寺坐像とされている。像高は17メートルに及び、奈良の大仏(実測14.98メートル)を上回る大きさだ。光背を含めた総高は28メートルに達し、座像としては日本一の規模を誇る。大仏殿の壁面には1,281体もの小仏が安置され、その空間は圧倒的な密度を持つ。さらに、高さ75メートルの五重塔は、鉄筋コンクリート造りとしては日本一の高さを持つという。
この巨大な伽藍群の建設は、多田個人の執念だけでなく、1980年代後半の「バブル景気」という時代背景を抜きには語れないだろう。景気が過熱する中で、個人の財力によってこれほどの規模の建造物が実現したことは、当時の社会が持つ熱量と、その時代ならではの価値観を色濃く反映している。多田は、故郷への貢献と観光事業としての発展を期待したが、その壮大な計画は、やがて来る経済の転換期とともに数奇な運命を辿ることになる。
日本には、古くから信仰の対象として建立されてきた大仏が複数存在する。たとえば、奈良の東大寺大仏は、聖武天皇の発願により8世紀に建立され、国家鎮護の象徴として多くの人々の信仰を集めてきた。また、鎌倉大仏は、13世紀半ばに造立が始まり、幾度かの災禍を乗り越え、今もなお露座の仏として静かに時を見守っている。これらは、千年近い歴史の中で、人々の祈りや社会の変遷をその身に刻んできたと言えるだろう。
一方、越前大仏は、昭和の終わりという比較的近年に、一人の実業家の私財によって建立された。その目的は、当初観光振興の色合いが強く、宗教的な背景や歴史的な連続性とは異なる側面を持っていた。奈良や鎌倉の大仏が、時代ごとの再建や修復を経て、その形を保ってきたのに対し、越前大仏は、現代の技術と資材を用いて一気に築き上げられた。その規模は、多くの点で伝統的な大仏を凌駕し、「日本一」の称号をいくつも持つ。
この違いは、大仏という存在に対する見方を問い直す。伝統的な大仏が持つ「歴史の重み」や「信仰の積み重ね」とは異なる形で、越前大仏は「個人の情熱」や「時代のエネルギー」を具現化したものだと言える。古くからの信仰の対象としての大仏と、近代的な観光施設としての側面を持つ大仏。どちらも同じ「大仏」と称されるが、その成立過程や背景にある思想は大きく異なっているのである。
1987年の開眼供養後、越前大仏を擁する大師山清大寺は、観光客の伸び悩みという課題に直面した。当初3,000円だった拝観料は段階的に引き下げられ、現在では500円となっている。門前町として整備された土産物店街は、シャッターが下りたままの店舗が目立ち、かつての賑わいを想像させる静けさに包まれている。
運営面でも苦境が続き、1996年からは税金の滞納が始まり、土地や建物が勝山市に差し押さえられる事態となった。公売にかけられても買い手がつかず、最終的に2018年には勝山市が約40億円の滞納市税を「不納欠損処理」として回収不能と判断した経緯がある。
こうした厳しい状況を経て、2002年からは臨済宗妙心寺派の寺院として宗教法人化し、その性格を強めている。近年では、勝山市のDMO(観光地域づくり法人)による海外向けのマーケティングが奏功し、2024年には前年比24倍もの外国人観光客が訪れるなど、新たな活路を見出しつつあるようだ。今、大仏殿に足を踏み入れれば、静かに流れるお経と、壁一面に並ぶ千体仏、そして荘厳な大仏の姿が、訪れる者を迎えている。
越前大仏が持つ独特の存在感は、単にその規模の大きさだけではない。それは、日本における大仏の歴史が、必ずしも古代や中世に限定されるものではないという事実を突きつける。多くの人が抱く「大仏=古くからあるもの」という通念に対し、越前大仏は「現代にも、個人の情熱と時代の熱によって、これほどのものが築かれうる」という可能性を提示している。
この大仏を訪れることは、単なる観光に留まらない。それは、一人の実業家が故郷へ向けた執念、そしてバブル経済という一時代のエネルギーが、形となって結晶化した姿を目の当たりにする体験だ。伝統的な大仏が数百年、千年をかけて築き上げられた「時間の積み重ね」であるなら、越前大仏は、特定の時代における「熱量の凝縮」とでも言うべき存在なのかもしれない。門前町の静けさや、運営を巡る経緯を知ることで、この巨大な仏像が持つもう一つの物語、すなわち、現代社会と経済の動きに翻弄されながらも、今なお勝山の山間に鎮座し続ける姿が見えてくるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。