2026/6/26
松阪撫子はなぜ「糸垂れ」の姿に?武士の庭から広まった花弁の系譜

松阪の松阪撫子 発祥の地について詳しく教えて欲しい。松阪撫子とは?
キュリオす
松阪市で偶然発見された、長く縮れて垂れ下がる花弁を持つ松阪撫子。一人の武士の発見から、多くの人々の手仕事を経て、地域を代表する花へと発展した経緯と、その独特な美意識に迫ります。
殿町の庭に咲いた偶然の姿
三重県松阪市を歩くと、歴史の重みがそこかしこに感じられる。江戸時代には遠く江戸や大坂にまで商圏を広げた豪商たちの町であり、国学者・本居宣長の生誕地でもある。しかし、この地にはもう一つ、町の歴史を彩る繊細な存在がある。それが「松阪撫子」だ。撫子といえば、日本の女性の美しさを象徴する「大和撫子」を連想するが、松阪撫子は一般的な撫子とは一線を画す特異な花姿を持つ。長く、深く裂け、糸のように縮れて垂れ下がる花弁は、一見すると乱れているようにも見える。なぜ、これほどまでに個性的な撫子が、この松阪の地で生まれ、そして連綿と受け継がれてきたのだろうか。その背景には、一人の藩士の偶然の発見と、それを育み広げた人々の手仕事の歴史が横たわっている。
武士の庭から広がる花弁の系譜
松阪撫子の起源は、江戸時代後期の文化文政年間、およそ1830年頃に遡る。松坂城下の殿町に住んでいた紀州藩士、継松栄二(つぐまつえいじ、1803-1866)が、自邸の庭で河原撫子(カワラナデシコ)を栽培していた際、偶然にも花弁が深く切れ込み、細く長く縮れて垂れ下がる変異種を発見したのが始まりだと伝えられている。この類を見ない花姿に魅せられた栄二は、その後、実生による選抜と改良を重ね、現在の松阪撫子の原型を作り出したとされる。
栄二が創始した松阪撫子は、その後、養子の継松静、そして殿町出身の熱心な花き栽培家であった野口才吉(のぐちさいきち、1829-1910)へと受け継がれた。才吉は特に松阪撫子の優良種の育成と保存に尽力し、一時期は門外不出としたともいう。しかし、花岡村の中瀬常吉(なかせつねきち、1866-1947)の代になると、少数の者で秘匿するのではなく、より多くの人々と花を分かち合いたいという考えから、種子や苗が希望者に譲られるようになった。
明治時代の中頃には、津市の百華園主によって種子や苗の販売が取り次がれ、大正時代には遠くアメリカ合衆国まで輸出された記録も残っている。 このように、松阪撫子は当初、一人の武士の私的な趣味から生まれ、一部の愛好家によってひっそりと育まれていたものが、時代とともに広がりを見せたのだ。昭和初期には、松阪花卉園芸組合の組合長であった服部栄次郎、県立飯南農学校教諭の岡村金蔵、そして園芸家の長林堅三郎といった人々が、松阪撫子を含む「松阪三珍花」の再興運動に尽力したことが、1932年(昭和7年)の大阪毎日新聞にも報じられている。
戦後も、三重大学の冨野耕治博士らによる研究と紹介が続けられ、1952年(昭和27年)には、松阪撫子は松阪花菖蒲、松阪菊とともに三重県の天然記念物に指定された。 また、歴史を遡れば、第119代光格天皇(1771-1840)がこの撫子をことのほか愛で、「御所撫子」と名付けられたという記録もあり、現在も京都市内の宝鏡寺で栽培・保存されている。 松阪撫子は、単なる植物の品種改良に留まらず、時の権力者から庶民、そして現代へと、人々の心を捉え、繋いできた歴史を持つのである。
偶然と手仕事が紡ぐ松阪の美学
松阪撫子がこの地で生まれ、独自の発展を遂げた背景には、いくつかの要因が重なり合っている。まず第一に、創始者である継松栄二の「偶然の発見」が挙げられる。河原撫子を栽培する中で、たまたま花弁が長く垂れる変異種を見出したことが、全ての始まりだった。自然界における突然変異は各地で起こりうるが、それを「美」として認識し、さらに改良を加えようとする個人の眼差しと情熱がなければ、松阪撫子という品種は生まれなかっただろう。
次に、その後の育成と保存に尽力した人々の存在が大きい。野口才吉のように、優れた品種を「門外不出」とするほど大切に育み、その特性を固定化しようとする熱意があった。その一方で、中瀬常吉のように、その美をより多くの人々と共有しようとする開かれた考えもまた、松阪撫子が単なる個人の趣味の域を超えて広がる原動力となった。 個人の愛好から始まり、やがて地域全体で共有される文化へと昇華していく過程には、多くの人々の手間と時間が費やされている。
さらに、松阪という土地の文化的な土壌も無関係ではない。松阪は江戸時代から「豪商のまち」として栄え、経済的な豊かさがあった。 豪商たちは質素な暮らしを旨としながらも、茶の湯や書道、学問といった文化的な素養を重んじた。このような環境は、単なる実用的な植物ではなく、鑑賞を目的とした園芸文化が花開く土壌となり得た。松阪には撫子の他に、やはり花弁が縮れて垂れる特徴を持つ松阪花菖蒲、松阪菊といった「松阪三珍花」が存在する。 これらが同時期に松阪で育成されたことは、この地域に、花弁が「縮れて垂れる」という特定の美意識や、それを追求する園芸技術が集積していた可能性を示唆している。花が自力では整った姿に咲きにくいため、爪楊枝などで花弁を丁寧にほぐすという独特の「手入れ」が必要となる松阪撫子の特性も、こうした繊細な美意識と、それを支える手間を惜しまない文化があったからこそ、受け入れられ、継承されてきたと言えるだろう。
異種との対比に見る松阪撫子の独自性
日本の古典園芸植物には、地域ごとに独自の発展を遂げたものが少なくない。松阪撫子もその一つだが、その特徴は他の撫子や園芸植物との比較において、より明確になる。
一般的に「大和撫子」として知られるカワラナデシコは、日本各地の河原などに自生し、細く繊細な茎に五弁の優美な花を咲かせる。花弁の先端は細かく切れ込むものの、松阪撫子のように長く垂れ下がることはない。 一方、中国原産のセキチク(石竹)は、平安時代に日本に伝来し、日本の園芸文化に大きな影響を与えた。松阪撫子もセキチクの改良種、あるいはセキチクとカワラナデシコの交雑種から生まれたとする説もある。 しかし、セキチクの花弁も、松阪撫子のような極端な「糸垂れ」の形状を持つものは稀である。この点において、松阪撫子の花弁が最大15cmにも達し、細く縮れて柳のように垂れ下がる姿は、他のナデシコとは一線を画す。
また、松阪撫子はしばしば「伊勢撫子」とも呼ばれるが、その発祥の地はあくまで松阪である。 「伊勢」という広域の名称が用いられたのは、明治時代に松阪発祥の松阪撫子、松阪花菖蒲、松阪菊が「伊勢三珍花」として全国に広まったことに由来するとされている。 この名称の混同は、松阪撫子が伊勢地方を代表する花として認知された証左とも言えるが、その独自の形状と育成の歴史は、松阪の地に根ざしている。
さらに、多くの園芸植物が、より華やかで手のかからない品種へと改良されていく中で、松阪撫子は蕾から自力では整った姿に開花しないため、爪楊枝などを用いて花弁をほぐすという、手間のかかる作業を必要とする。 このような「手入れ」を前提とする古典園芸植物は、現代の効率性や大量生産とは異なる価値観の上に成り立っている。例えば、江戸時代に発展した朝顔の「変化朝顔」や菊の「古典菊」なども、特定の美意識を追求し、繊細な手入れを必要とする点で共通する。松阪撫子の育成と継承は、単に美しい花を咲かせるだけでなく、その花が持つ「手間暇をかけることの美学」をも含んでいるのだ。この手間こそが、松阪撫子を単なる園芸品種に留まらせず、文化財としての価値を高めている側面がある。
今に息づく、松阪の「花」の文化
松阪撫子は、江戸時代に生まれた古典園芸植物でありながら、現代においてもその美しさと文化的な価値が継承されている。その中心的な役割を担っているのが、1971年(昭和46年)に発足した「松阪三珍花保存会」だ。 この保存会は、松阪撫子だけでなく、松阪花菖蒲、松阪菊といった松阪発祥の三つの珍しい花の系統保存、育成、そして栽培技術の向上に努めている。 会員は県内外に及び、毎月の例会で栽培に関する情報交換を行うなど、活発な活動を続けている。
毎年5月には、松阪市内で「松阪撫子展」や「松阪撫子どんな花?祭り」といったイベントが開催され、多くの市民や園芸愛好家が訪れる。 特に「松阪撫子どんな花?祭り」では、松阪市中心市街地の商店街など35箇所に鉢やプランターが飾られ、街全体で松阪撫子の優美な姿を楽しむことができる。 また、撫子献花式といった行事も行われ、松阪撫子を顕彰し、その歴史と文化を次世代に伝える取り組みが続けられている。
松阪撫子は、四季咲き性を持つものの、保存会では9月中旬頃に種を播き、翌年5月に開花させる栽培方法が採られている。 花弁の「肩が張って垂れる」ものや「肩が張らずに垂れる」ものなど、いくつかの性質があるが、いずれも長く垂れ下がるものほど良いとされ、その優雅な姿が追求されている。花色も白、濃淡ピンク、藤、紅と多彩で、ぼかしや絞り模様が出ることもあり、鑑賞者を飽きさせない。
現代において、手のかかる古典園芸植物の維持は容易ではない。しかし、松阪では保存会を中心に、地域住民や行政が一体となって松阪撫子の価値を再認識し、その保存と普及に努めている。観光客向けのイベントも、単に花を見せるだけでなく、松阪の歴史や文化に触れるきっかけを提供している。松阪撫子は、過去から現在へと続く、この町の「花」を愛でる文化の象徴として、今もなお息づいているのだ。
花弁の先に残る問い
松阪撫子を巡る旅は、一輪の花が持つ歴史の深さと、それを育んできた人々の営みの重層性を教えてくれる。一人の藩士の偶然の発見から始まり、幾人もの愛好家の手によって改良され、地域全体で大切にされてきたその過程は、文化がどのようにして形成され、継承されていくのかという問いを投げかける。
松阪撫子の特徴である、長く縮れて垂れ下がる花弁は、一見すると自然の摂理に逆らうかのようにも見える。しかし、その不完全さや、人の手による丁寧な介入を必要とする姿こそが、松阪の人々が追求してきた美意識の核心にあるのかもしれない。自然のままを是とするのではなく、そこに人の手を加え、理想の姿へと導く。この「手仕事の美学」は、松阪撫子だけでなく、松阪木綿や松阪牛といった他の松阪を代表する文化にも通底する、この土地固有の美意識や価値観を示しているようにも思える。
また、松阪撫子が「伊勢撫子」と称されながらも、その発祥の地が松阪であるという事実からは、地域固有の独自性と、より広範な地域名との間で揺れ動く文化の姿が垣間見える。多くの古典園芸植物が、その名を冠した地域に深く根差し、その地の歴史や風土を物語る存在となっている。松阪撫子もまた、その繊細な花弁の先に、松阪という町の誇りと、それを守り伝える人々の静かな情熱を宿しているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。