2026/6/26
武家屋敷に現れた明治の書斎、原田二郎旧宅の和洋折衷

松阪の原田二郎旧宅について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
松阪の武家屋敷に残る原田二郎旧宅。質実な武家屋敷に、明治期に増築された二階の書斎には丸窓など洋風の意匠が見られる。実業家・原田二郎の知的好奇心と故郷への思いが交錯する空間を辿る。
松阪の武家屋敷に残る、明治の書斎
松阪市殿町に足を踏み入れると、生垣が続く静かな通りに、江戸時代からの武家屋敷の面影が色濃く残っていることに気づく。その一角に、明治から大正にかけての実業家、原田二郎の旧宅がある。一見すると、質実とした武家屋敷でありながら、内部にはどこか異質な空間が潜んでいる。それは、明治の時代に増築された二階の書斎だ。この書斎は、単なる読書のための部屋にとどまらず、原田二郎という人物の、そして明治という時代の知的な探求と、故郷への思いが交錯する場所として、静かに存在している。なぜ、この武家屋敷に、このような特徴的な書斎が設けられたのだろうか。その問いは、原田二郎の生涯と、彼が生きた時代の精神を紐解く鍵となる。
貧しい武家から実業家へ
原田二郎は嘉永2年(1849年)、伊勢国松阪城下の同心町、現在の松阪市殿町で生まれた。原田家は紀州藩松阪領の町奉行所に仕える下級武士の家系で、決して経済的に豊かな家ではなかったという。しかし、幼少期から文武両道に秀で、14歳で松阪学問所から褒章を受けるほどであった。この頃の松阪は、蒲生氏郷が築いた城下町として発展し、伊勢街道の要衝として多くの豪商を輩出してきた土地でありながら、同時に武士の町としての側面も持ち合わせていた。原田二郎の生家が位置する同心町は、他でもない紀州藩同心の居住地であった。
明治維新後の1869年(明治2年)、原田は同郷の京都府判事である世古延世に従って京都へ出た後、1871年(明治4年)には東京、さらに横浜へと移り、洋学や医術、英語を学んだ。これは、新しい時代が求める知識を貪欲に吸収しようとする、彼の強い向学心の表れだろう。1875年(明治8年)には大蔵省に入省し、銀行課に勤務。その後、異例の抜擢で1879年(明治12年)には横浜の第七十四国立銀行(現在の横浜銀行の前身)の頭取に就任する。下級武士の出でありながら、わずか31歳で国立銀行のトップに立つという経歴は、彼の才覚と努力が並外れたものであったことを物語っている。
しかし、1881年(明治14年)に高島町遊廓の移転問題で損失を計上し、頭取を辞任して松阪に帰郷することになる。この一時的な挫折が、彼が生まれ育った武家屋敷に、新たな空間を生み出すきっかけとなったのだ。翌明治15年(1882年)、原田二郎は療養のため松阪に戻った際、この旧宅に二階建ての書斎を増築した。その後、彼は再び上京し、総武鉄道の設立に関与するほか、元老・井上馨の依頼を受けて大阪の鴻池銀行(現在の三菱UFJ銀行の前身の一つ)の再建に尽力し、“鴻池財閥”の実質的な最高責任者として活躍する。晩年の1920年(大正9年)には、私財1020万円(現在の約150億円に相当)を投じて公益財団法人原田積善会を設立し、社会福祉の発展に貢献した。彼の旧宅は、このような波乱に満ちた生涯の中で、故郷とつながる確かな拠点であったと言える。
武家屋敷に宿る知の空間
原田二郎旧宅は、19世紀中期に建てられた木造平屋建ての武家屋敷を基盤としている。江戸時代末期の松阪の武家屋敷の典型的な構成をよく維持しており、玄関を入ると庭まで続く通り土間があり、右手には脇間、左手には居室が4室配置されていたとされる。武家としての格式を示す式台が玄関の左側に設けられ、その先には床を備えた客間がある。このような間取りは、当時の同心町の武士の暮らしを今に伝える貴重な遺構である。
しかし、この質実な武家屋敷の中に、明治15年(1882年)に増築された二階建ての書斎は、異彩を放つ存在だ。一階部分に六畳と三畳の二室、そして二階部分に八畳一室の書斎が設けられた。この書斎は、単に部屋数が増えたというだけでなく、その意匠にも原田二郎の知的な好奇心と、新しい時代への眼差しが反映されている。
特に注目すべきは、二階の書斎に設けられた丸窓だろう。これは伝統的な日本建築には見られない、洋風の要素を取り入れたものとされている。また、お城側に開けた眺望は、書斎からの景色を「数寄」の対象とした、原田の美意識の表れとも解釈できる。当時の松阪城は、すでに廃城となっていたが、城下町の歴史を見渡せる高台に書斎を設けたことは、彼が故郷の歴史を常に意識していたことを示唆している。
また、旧宅には急な階段箪笥が残されており、それが屋根裏部屋へと続いていたという証言もある。これは、限られた空間を最大限に活用しようとする工夫であり、実用性と機能性を重んじる原田二郎の実業家としての側面を垣間見せる。鴻池財閥の最高責任者という立場を考えると、その旧宅は質素な印象を受けるかもしれないが、それは堅実な経営で財閥を立て直した彼の性格を反映しているとも考えられる。この書斎は、原田二郎が西洋の知識を取り入れつつも、故郷の歴史と文化に根ざした生活を送ろうとした、その精神的な拠り所であったと言えるだろう。
近代和風建築の多様な表現
原田二郎旧宅の二階書斎に見られる和洋折衷の要素は、明治から大正期にかけての日本の住宅建築において、決して珍しいものではなかった。この時代、西洋文化の流入は建築様式にも大きな影響を与え、多くの邸宅で伝統的な日本家屋に洋間が取り入れられたり、あるいは洋風の外観を持つ建物に和室が組み込まれたりする現象が見られた。
例えば、神戸の異人館街に残る多くの住宅は、西洋人が住むために建てられた純洋風建築が多いが、その中には、日本人の生活様式に合わせて一部に和の要素が取り入れられたものも存在する。また、横浜の山手地区に残る洋館群も同様に、開国後の国際交流の中で生まれた多様な建築様式を示している。これらは、西洋の技術やデザインを取り入れつつも、日本の風土や生活習慣に合わせた独自の進化を遂げた例と言えるだろう。
一方、和風建築を基調としながらも、意匠や機能の一部に西洋の要素を取り入れる例も少なくない。京都の近代和風建築には、茶室や書院造りを踏まえつつ、ガラス窓や暖炉、洋風の家具を配した部屋が見られることがある。これは、伝統を重んじながらも、新しい素材や技術、そして生活様式の一部を柔軟に受け入れようとした、当時の日本人の姿勢を反映している。
原田二郎旧宅の書斎は、純粋な洋館ではない点で、神戸や横浜の異人館とは異なる。むしろ、江戸時代末期の武家屋敷という日本の伝統的な住居に、明治期の実業家が自らの知的な活動のために「書斎」という西洋的な概念の空間を、和風の意匠の中に巧みに組み込んだ点に特徴がある。丸窓という意匠は、西洋の建築要素を日本の美意識に昇華させた事例とも見ることができる。これは、単に流行を追うのではなく、自身のライフスタイルや思想に合わせて建築をカスタマイズした、原田二郎個人の強い意志が反映された結果だろう。他の地域の近代建築が、国際的な交流や商業的成功の象徴として洋風建築を取り入れた側面が強いのに対し、原田二郎旧宅の書斎は、一人の知識人が故郷で求めた、内省的な空間の表現として際立っているのだ。
松阪の歴史文化を伝える拠点として
原田二郎旧宅は、長らく原田家が所有していたが、2009年(平成21年)に公益財団法人原田積善会から松阪市に寄贈された。その後、松阪市によって復元整備が行われ、2012年(平成24年)10月10日から一般公開が始まった。この際、江戸時代から続く武士の住まいとしての姿を表現しつつ、明治15年(1882年)に増築された二階部分については、原田二郎が松阪に帰郷していた頃の間取りが再現されたという。
旧宅は、松阪市指定有形文化財に指定されており、現在は松阪歴史文化舎によって管理・運営されている。一般公開されているため、来訪者は原田二郎が生きた空間を直接体験できる。入館料は一般100円と手頃で、水曜日と年末年始を除いて開館している。
松阪市では、原田二郎旧宅を「豪商のまち」松阪を象徴する旧長谷川治郎兵衛家や旧小津清左衛門家とは対照的に、「武士のまち」松阪の名残を残す施設と位置づけている。松坂城跡や国指定重要文化財の御城番屋敷に近い武家屋敷街「同心町」に位置することからも、その歴史的意義は大きい。定期的に企画展も開催されており、松坂城下の武家の暮らしや、原田二郎の学びの軌跡に焦点を当てた展示が行われることもある。
このような歴史的建造物の保存と活用は、単に過去の遺産を守るだけでなく、地域固有の歴史や文化を現代に伝え、未来へと繋ぐ役割を果たす。原田二郎旧宅は、松阪という土地が育んだ、質実剛健な武士の精神と、明治という激動の時代を生き抜いた実業家の知性とが融合した空間として、訪れる人々に静かに語りかけている。その存在は、松阪の歴史や文化を形作る上で欠かせない要素となっているのだ。
故郷の風景に重ねた知の軌跡
松阪の原田二郎旧宅を巡ることは、単に一人の実業家の生家を訪れる以上の意味を持つ。この武家屋敷は、江戸時代末期の質素な武士の暮らしを今に伝える一方で、明治期に増築された二階の書斎が、その後の日本の近代化を牽引した知性と教養の痕跡を刻んでいる。
一般的に、明治以降に西洋の知識や技術を取り入れた住宅は、華美な洋館や、完全に洋風に刷新された空間を想像しがちだ。しかし、原田二郎旧宅の場合、基盤はあくまで故郷の武家屋敷であり、その中に、彼が横浜や東京で学んだ洋学や医術、英語といった新しい知識を咀嚼し、思索を深めるための「書斎」が設けられた。この書斎の丸窓は、西洋的な要素を日本の伝統的な空間に溶け込ませただけでなく、彼が故郷の松阪を、単なる生まれ育った場所としてではなく、自らの知的な活動の中心地の一つと捉えていたことを示唆している。
「鴻池財閥の実質的な最高責任者」という肩書きを持つ人物の旧宅としては、その質素さが意外に映るかもしれない。しかし、それは彼の堅実な性格と、私財を投じて社会福祉に貢献した篤志家としての生き方を反映していると言える。書斎の窓から松阪城跡を望む彼の視線は、過去の歴史と、自らが築き上げてきた未来へのビジョンを重ねていたのではないだろうか。
原田二郎旧宅は、伝統と革新、故郷と世界、そして個人の思索と社会貢献という、一見すると対立するような要素が、一つの建築空間の中で見事に調和している稀有な例である。この場所は、明治という時代が、西洋文化の受容を単なる模倣に終わらせず、日本の土壌でいかに独自の文化として昇華させていったかを示す、具体的な証拠として、今も松阪の地に佇んでいる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 原田二郎 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 三重県|旧長谷川治郎兵衛家・原田二郎旧宅(松阪市)体験レポートpref.mie.lg.jp
- 原田二郎旧宅 – 松阪歴史文化舎matsusaka-rekibun.com
- 原田二郎旧宅 ― 松阪市指定有形文化財…三重県松阪市の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】oniwa.garden
- 原田二郎旧宅 - 文化情報 - お肉のまち 松阪市公式ホームページcity.matsusaka.mie.jp
- 原田二郎旧宅 | 観光スポット | 観光三重(かんこうみえ)kankomie.or.jp
- youtube.com
- 原田二郎邸 一般公開 松阪市殿町1290番地 松阪駅 | Pochiの 食べるために生きるpochi12345.blog.fc2.com