2026/6/9
全国で今も続く鵜飼、その場所と独自の魅力

全国で今でも鵜飼をやっている場所を全部教えて欲しい。
キュリオす
日本全国で観光鵜飼が行われている場所は11箇所。長良川、肱川、三隈川の「日本三大鵜飼」をはじめ、石和鵜飼の徒歩鵜や木曽川鵜飼の昼間開催など、各地で独自の鵜飼文化が息づいている。鵜匠と鵜の絆、そして地域社会の支えが伝統を守る。
鵜飼の歴史は、日本の黎明期にまで遡る。最古の記録としては、『日本書紀』や『古事記』にその記述が見られ、鵜を使って魚を獲る「鵜養部」の存在が示されている。また、5世紀から6世紀にかけて造られた群馬県の保渡田八幡塚古墳からは、鵜飼の様子を表す「鵜形埴輪」が出土しており、その営みが古代の人々の生活に深く根ざしていたことを物語る。中国の歴史書『隋書』にも、600年に日本を訪れた隋の使者が、鵜の首に小さな環をかけて魚を捕獲させる日本の漁法に驚いたという記録がある。
平安時代に入ると、鵜飼は漁業としての側面だけでなく、貴族たちの遊興の対象としても見られるようになる。清和天皇の時代には、京都の嵐山・大堰川で宮廷鵜飼が行われていたとされ、藤原道綱の母が『蜻蛉日記』に宇治川の鵜飼を見物した様子を記している。戦国時代には、織田信長が岐阜城に居城を構えた際、長良川の鵜飼を賓客をもてなす手段として活用したことはよく知られた逸話である。江戸時代には、長良川の鵜飼で獲れた鮎が幕府への献上品や贈答品として重宝され、尾張藩によって鵜匠が手厚く保護されたという。俳聖・松尾芭蕉が長良川の鵜飼を見て「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」と詠んだ句は、この漁法の持つ奥深さを今に伝えている。しかし、明治維新以降、近代化の波の中で多くの鵜飼が一時衰退の危機に瀕する。嵐山や宇治川の鵜飼は、江戸時代に一度途絶えた後、大正から昭和にかけて再興された経緯を持つ。
現在、日本全国で観光鵜飼が行われている場所は11箇所に上る。岐阜県の長良川、愛媛県大洲市の肱川、大分県日田市の三隈川は「日本三大鵜飼」として特に知られており、それぞれの土地で独自の発展を遂げてきた。鵜飼を支えるのは、鵜を巧みに操る「鵜匠」と呼ばれる人々である。彼らは「風折烏帽子(かざおれえぼし)」に「腰蓑(こしみの)」という古式ゆかしい装束を身につけ、かがり火を焚いた鵜舟に乗って川を下る。
鵜匠は、野生のウミウを捕獲し、訓練を重ねて鵜飼ができるように育てる。鵜の首には紐が巻かれ、大きな鮎は飲み込めないが、小さな魚は喉を通るように調整される。鵜と鵜匠の間には強い絆が結ばれており、鵜匠は鵜を家族のように大切に扱い、引退後も共同生活を送るという。長良川の鵜匠は、1人で10羽から12羽もの鵜を操るとされ、これは日本でも最も多い数である。また、岐阜市の長良川鵜飼と関市の小瀬鵜飼の鵜匠は、全国で唯一、宮内庁式部職鵜匠に任命されており、皇室御用の鮎を献上する役割も担っている。
鵜飼の存続には、単に技術の継承だけでなく、地域ぐるみでの取り組みが不可欠である。長良川の鵜飼漁の技術は、2015年に国の重要無形民俗文化財に指定され、その保存と継承が図られている。また、広島県三次市の三次鵜飼は広島県無形民俗文化財に、大分県日田市の三隈川鵜飼は大分県の重要無形文化遺産に指定されている。こうした公的な認定は、鵜飼が単なる漁法ではなく、日本の文化遺産として保護されるべき対象であることを示している。
日本各地に現存する鵜飼は、それぞれが異なる川の条件や地域の歴史の中で独自の特色を育んできた。たとえば、山梨県笛吹市の石和鵜飼は、鵜匠が舟に乗らずに直接川に入って鵜を操る「徒歩鵜(かちう)」という珍しい漁法で知られている。かつては和歌山県の有田川でも徒歩鵜が行われていたが、こちらは2013年以降、鵜匠の高齢化や後継者不足により開催が中断している。
多くの鵜飼が夜に行われる中、愛知県犬山市の木曽川鵜飼では昼間にも鵜飼が開催される点も特徴的である。また、近年では女性の鵜匠の活躍も目覚ましく、宇治川鵜飼には2人の女性鵜匠が、木曽川鵜飼や大洲鵜飼にも女性鵜匠が在籍している。京都の嵐山鵜飼では、全国で初めて外国出身の鵜匠が誕生したことも話題となった。
鵜飼の漁法にも地域差が見られる。広島県三次市の三次鵜飼では、鵜の潜水範囲を決める追い綱の長さが日本で最も長く設定されており、鵜が縦横無尽に泳ぎ回る様子を間近で見ることができる。一方で、長良川の鵜飼では、鵜匠が一度に多くの鵜を操るその技術が、鵜飼漁の最も発達した形態として評価されている。
鵜飼の起源は中国大陸にあるとされているが、日本の鵜飼は独自の進化を遂げた。中国の川が比較的ゆったりと流れるのに対し、日本の川は急流が多く、また鮎という魚が豊富に生息していたことが、日本の鵜飼が独自の発展を遂げた大きな要因であるという。特に、篝火を焚く夜の鵜飼は、夜間に餌を摂らずじっとしている鮎を捕獲しやすくするための日本独自の工夫であり、中国には見られない特徴である。これらの多様な形態や背景は、鵜飼が単一の文化ではなく、それぞれの地域で環境に適応し、変化しながら受け継がれてきた証左と言えるだろう。
現代の鵜飼は、多くが観光資源としての役割を担っている。屋形船に乗って篝火に照らされた幻想的な漁を間近で観覧するスタイルは、明治時代以降に確立されたものだ。各地の鵜飼は、それぞれの地域の観光協会や旅館と連携し、観覧船の運航や食事付きのプランを提供するなど、観光客誘致に力を入れている。長良川の鵜飼では、チャールズ・チャップリンが二度も訪れて絶賛したという逸話も観光PRに活用されている。
しかし、その存続には課題も少なくない。鵜匠の高齢化や後継者不足は多くの地域で共通の悩みであり、和歌山県有田川の鵜飼が中断した主要な理由でもある。また、鵜を捕獲し訓練する手間、清流を保つための環境問題、鮎の漁獲量の変動なども、鵜飼の未来に影を落とす要因となりうる。
こうした課題に対し、各地域は様々な取り組みを行っている。岐阜市では、鵜飼の歴史や技術を紹介する「長良川うかいミュージアム」を開設し、オフシーズンでも鵜飼の魅力を発信している。また、鵜匠の育成や、鵜の生態を研究する取り組みも続けられている。観光客にとっては夏の風物詩である鵜飼が、裏側では年間を通じた鵜匠たちの地道な努力と、地域社会の支えによって成り立っているのだ。
日本各地に点在する鵜飼の風景は、一見すると古式ゆかしい伝統が守られているように見える。しかし、その実態は、時代や環境の変化に柔軟に適応し、形を変えながら生き残ってきた営みである。平安貴族の遊興から、戦国武将の接待、そして現代の観光へと、その役割は変遷してきた。
かつては純粋な漁法であった鵜飼が、現代において「見せる」要素を強く持つようになったことは、その存続戦略の変化を示している。鵜匠の装束や漁法は伝統を重んじる一方で、女性鵜匠の誕生や外国出身の鵜匠の登場は、閉鎖的と思われがちな世界にも新しい風が吹いていることを感じさせる。
これらの事実から見えてくるのは、鵜飼が単なる過去の遺物ではないということだ。それは、人々の生活様式や価値観が移り変わる中で、いかにして独自の技術と文化が継承され、新たな意味を見出し続けてきたかを示す具体的な例である。篝火が照らす川面には、千三百年の時を経てなお、変化を受け入れながらも本質を失わない、人間と自然、そして伝統との静かな対話が映し出されている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。