2026/6/5
群馬・楽山園と甘楽郡、織田氏が築いた歴史の庭

群馬の楽山園について詳しく知りたい。甘楽郡とはどういう歴史の場所なのか?
キュリオす
群馬県甘楽町にある国指定名勝「楽山園」は、織田信雄が築いたとされる江戸初期の大名庭園。周囲の山々を借景に取り込み、複数の茶屋が配置されている。古代からの渡来人文化や養蚕業の歴史を持つ甘楽郡に、戦乱の世を経て築かれた庭園の背景を探る。
群馬県甘楽郡甘楽町、その地名からしてどこか穏やかな響きを持つこの町に立つと、周囲の山々が借景となる、ある庭園の存在が際立つ。それが「楽山園」だ。国指定名勝にも選ばれているこの大名庭園は、一見すると静謐な美しさを湛えているが、その背景には戦国の世を生き抜いた武将の思惑や、この地の歴史が複雑に絡み合っている。なぜ、群馬の山間にこれほど格式高い庭園が築かれたのか。そして「甘楽郡」という地名は、いったいどのような歴史を刻んできたのだろうか。
楽山園は、江戸時代初期に築かれた小幡藩邸の庭園である。その築庭を手がけたのは、織田信長の次男である織田信雄(おだのぶかつ)と伝えられている。信雄は、本能寺の変後も数奇な運命を辿り、関ヶ原の戦いや大坂の陣を経て生き延びた人物だ。元和元年(1615年)、彼は徳川家康から大和国宇陀郡と上野国(現在の群馬県)小幡の合計5万石を与えられ、その後、小幡2万石を四男の信良に相続させ、自身は京都に隠居したとされている。楽山園は、この隠居後に造られたとも言われているのだ。
小幡藩は、信雄以降、8代152年間にわたり織田氏が統治した。当初、藩庁は福島村に置かれたが、17世紀半ば以降に小幡村の小幡陣屋へと移されたという。この小幡陣屋は、東西約600メートル、南北約760メートルにも及ぶ広大な敷地を持ち、藩邸を中心に藩役所や武家屋敷が立ち並んでいた。陣屋の背後を流れる雄川を天然の堀に見立て、約2.3キロメートル上流から取水した雄川堰の用水を分配し、城下町の生活や灌漑に利用していたことが知られている。この雄川堰は、現在も日本の名水百選に選ばれ、歴史的価値のあるかんがい施設遺産にも登録されている。
甘楽郡という地名自体も、古代にまで遡る歴史を持つ。和銅4年(711年)の『続日本紀』には「甘良郡」として登場し、「和名抄」国郡には「加牟良」と訓が付けられている。この地には朝鮮半島からの渡来人が多く住んだとされ、「から」が転じて「かんら」となったという説がある。渡来人は養蚕や機織りといった当時の最新技術をもたらし、5世紀後半の遺跡からは朝鮮半島南部で作られた馬具が出土していることからも、その交流の深さがうかがえる。戦国時代には、国峰城を拠点とする小幡氏がこの地域に大きな影響力を持っていたが、後北条氏の滅亡とともにその勢力を失い、徳川家康の関東入国後に奥平信昌が小幡領を治めることとなる。その後、水野氏や永井氏を経て、織田氏がこの地に封じられ、小幡藩の本格的な歴史が始まったのだ。
楽山園は「池泉回遊式庭園」と呼ばれる様式で造られている。これは、池を中心に据え、その周囲に築山や茶屋を配し、園路を歩きながら景色の変化を楽しむ形式の庭園だ。特に楽山園の大きな特徴は、周囲の熊倉山や紅葉山といった山々を「借景」として取り込んでいる点にある。庭園の空間構成を西や南の山々にまで広げ、自然の景観を巧みに庭の一部として取り入れているのだ。
庭園名は『論語』の一節「智者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」に由来するとされ、その名が示すように、水と山が織りなす風景が中心にある。園内には「昆明池」と呼ばれる広い池があり、その周りには「いろは石」が48個配されているという。複数の茶屋が設けられている点も特徴で、これらは「庭園と茶事」を巧みに演出するために配置されたものだ。特に園内で最も高い場所に位置する「梅の茶屋」からは、座敷に上がって城下を一望できるという。また、南東側には「凌雲亭」という茶屋もあり、庭園を眺めながら抹茶を楽しむことができる。
楽山園は、かつての藩邸御殿に付属する庭園として、その格式を物語る。御殿自体は現存しないが、その跡地には部屋や廊下、板の間などが白色と灰色で色分けされた平面表示で再現されている。また、藩邸の1/50スケールのジオラマが拾九間長屋のガイダンス室に展示されており、当時の建物の様子を具体的に知ることができる。この拾九間長屋は、かつて藩邸の使用人たちが暮らした場所であり、現在は多目的室として町の歴史や庭園の建築経緯を紹介する役割も担っている。
楽山園の整備は、平成12年(2000年)に国の名勝に指定されたことを受け、本格的に進められた。発掘調査に基づき、江戸時代初期の姿への復元が進められ、平成24年(2012年)に工事が完了し、正式に一般公開された。この復元整備では、池の遺構の再出や茶屋などの建造物の復元が行われ、往時の姿を現代に伝えている。
江戸時代初期に築かれた楽山園は、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられている。この時期の庭園は、戦乱の終結と天下泰平の到来を背景に、武将の権威を示すと同時に、平和な世への願いや領民の安心を願う気持ちが込められているとされる。
他の著名な庭園と比較してみると、楽山園の特異性が浮き彫りになる。例えば、京都の桂離宮は、同じく池泉回遊式で借景を取り入れた庭園として知られるが、楽山園もまた桂離宮と同じ特色を有すると評価されている。しかし、桂離宮が洗練された数寄屋建築と一体となった公家文化の粋を集めた庭園であるのに対し、楽山園は、武家が築いた陣屋に付属する庭園としての性格が強い。その広大な敷地と、周囲の自然を大胆に取り込む借景の手法は、まさに武家のスケール感と、新たに得た領地への愛着を示すものと解釈できるだろう。
また、江戸時代の大名庭園には、藩主の隠居所や迎賓館としての機能を持つものが多い。楽山園も、織田信雄が隠居後に築いたという経緯があり、茶事を巧みに演出する複数の茶屋の存在は、当時の大名文化における「茶の湯」の重要性を示している。一方で、小幡藩が2万石という比較的小規模な藩であったことを考えると、これほど広大で本格的な大名庭園を築いたことは、織田宗家の格式と、この地を拠点として文化的な拠点性を高めようとする意志の表れとも考えられる。他の小藩の陣屋跡に残る庭園と比較すれば、楽山園の規模や意匠は際立っていると言えるだろう。
さらに、甘楽郡の歴史を俯瞰すると、古代からの渡来人文化、中世の豪族小幡氏の支配、そして近世の織田氏による藩政と、多層的な歴史が積み重なっていることがわかる。特に養蚕業の発展は、渡来人がもたらした技術に端を発するとされ、江戸時代以降もこの地域の重要な産業として栄えた。楽山園のような文化施設が築かれた背景には、単なる政治的・軍事的な拠点としてだけでなく、地域の経済的基盤と文化的な成熟があったことが推察される。
現在、楽山園は国指定名勝として、一般に公開されている。群馬県内では唯一現存する大名庭園であり、その歴史的・文化的価値は高く評価されているのだ。年間を通して、春には若葉とヤマザクラ、夏には濃い緑と青い空、秋には紅葉、冬には雪景色と、四季折々の借景の美しさを楽しむことができる。
庭園の入り口である中門をくぐると、まず拾九間長屋があり、そこでは小幡藩や楽山園の歴史に関するガイダンス映像やジオラマを見ることができる。庭園散策は約30分ほどで一周できる規模だが、池や築山、茶屋を巡りながら、雄大な自然と一体となった景色をゆっくりと味わうことができるだろう。特に梅の茶屋からは、庭園全体と遠くの山々が織りなすパノラマが広がり、当時の藩主がどのような景色を眺めていたのかを想像させる。
楽山園の復元整備は、2002年から10年計画で進められ、腰掛茶屋や梅の茶屋などの復元に加え、中門の建設や外周の石垣整備も行われた。現代の楽山園は、単に過去の姿を再現するだけでなく、多目的室を備えた拾九間長屋のように、地域の歴史文化を伝える拠点としての役割も担っている。また、近年では、ミュージシャンのミュージックビデオやドラマ、映画のロケ地としても使用されることがあり、新たな視点からその魅力が再発見されている。
甘楽町全体もまた、楽山園を中心とした歴史的な町並みを守り続けている。雄川堰沿いには、かつての城下町の面影を残す武家屋敷や町屋が点在し、歴史散策の楽しみを提供している。富岡製糸場が世界遺産に登録された影響もあり、周辺地域の観光客が増加傾向にある中で、楽山園は甘楽町の歴史文化を象徴する重要な存在となっている。
楽山園と甘楽郡の歴史を辿ると、この庭園が単なる美の追求以上の意味を持っていたことが見えてくる。戦乱の時代を生き抜いた織田信雄が、隠居の地に築いたこの庭園には、ようやく訪れた「天下泰平の世」への安堵と、領民の平穏を願う気持ちが込められていたという。
借景として取り込まれた周囲の山々は、かつては防御のための自然の要害であったかもしれない。しかし、平和な時代においては、それらは雄大な自然の美として庭園の一部となり、人々に安らぎを与える存在へと変わった。庭園に配された複数の茶屋は、茶の湯という文化を通じて、武将たちが戦場とは異なる静かな交流を育む場であったことを示唆する。それは、激動の時代から平穏な時代へと移り変わる中で、武士の精神性もまた変化していったことを象徴しているのではないか。
甘楽郡という土地が、古代からの渡来人文化や養蚕業といった地域固有の産業基盤の上に、織田氏という新たな支配者を受け入れ、独自の城下町文化を育んできた歴史もまた、楽山園の存在を多角的に捉える視点を与える。庭園は、その土地の歴史、文化、そして人々の営みが凝縮された空間であり、楽山園もまた、甘楽郡という場所が持つ多層的な歴史の一端を静かに物語っている。現代において、復元された楽山園を歩くことは、過去の風景を追体験するだけでなく、平穏な時代を築き、その中で文化を育んできた人々の価値観に触れることにつながるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。