2026/6/8
金沢城の白さはなぜ?鉛瓦と漆喰が織りなす加賀百万石の美学

金沢上について詳しく知りたい。なぜ白いのか。
キュリオす
金沢城の白く美しい城壁は、度重なる火災からの教訓と加賀藩の財力・技術力の象徴です。本記事では、白漆喰、鉛瓦、海鼠壁という三つの素材と工法に着目し、金沢城の「白」が生まれた背景と、他の城との比較からその独自性を探ります。
金沢城公園の広大な敷地を歩くと、ひときわ目を引くのが、その城壁や櫓がまとう「白」である。青空の下では眩しいほどに輝き、曇天の日には周囲の緑や石垣の灰色との対比で、いっそうその存在感を際立たせる。多くの日本の城が、黒い下見板や瓦で重厚な印象を与える中で、金沢城のこの清冽な白さは、見る者に強い記憶を残す。なぜ金沢城はこれほどまでに白いのか。それは単なる美意識の表れなのか、それとも、この土地固有の歴史や技術に根ざした必然だったのだろうか。
金沢城の歴史は、天正11年(1583年)に前田利家が金沢に入城し、それまであった金沢御堂の跡地に築城を始めたことに始まる。利家は織田信長、豊臣秀吉に仕えた武将であり、その子孫は加賀百万石と称される大大名として、江戸時代を通じてこの地を治めた。城はたび重なる火災に見舞われ、そのたびに再建されてきた。特に大きな被害は寛永8年(1631年)の大火、宝暦9年(1759年)の大火、そして明治14年(1881年)の火災である。これらの火災は、城の構造や使用される材料に大きな影響を与えたと考えられている。
江戸時代を通じて城郭の拡張と整備が進められ、現在の姿の基礎が築かれたのは、主に3代藩主前田利常の時代からと言われている。この時期に、現在の石川門や三十間長屋、鶴丸倉庫など、現存する重要な建造物の多くが整備された。特に、現在の金沢城公園の象徴ともいえる石川門は、天明8年(1788年)に再建されたもので、その白漆喰と鉛瓦の組み合わせは、まさに金沢城の「白」を代表する建築物である。明治以降、城は陸軍の施設として利用された後、金沢大学のキャンパスとなり、平成7年(1995年)に大学が移転してからは、本格的な城郭の復元整備が進められている。特に、平成13年(2001年)に復元された菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓は、古写真や絵図、発掘調査に基づき、江戸時代後期の姿が忠実に再現されたものだ。これらの復元建築物もまた、その「白さ」が際立っている。
金沢城の「白」は、複数の建材と工法が組み合わさることで生まれている。その主要な要素は、白い漆喰、鉛瓦、そして海鼠壁である。まず、城壁や櫓の壁面に塗られた白漆喰は、石灰を主成分とする伝統的な塗壁材だ。これは単に美観を追求しただけでなく、木材を風雨や火災から守るための重要な保護材としての役割も担っていた。漆喰は防火性、防水性に優れ、耐久性も高い。特に、金沢の気候は多湿であり、漆喰はその調湿作用も期待されたことだろう。
次に、屋根に葺かれた鉛瓦(なまりがわら)は、金沢城の白さを決定づける大きな要素である。一般的な城郭で用いられる黒い瓦とは異なり、鉛瓦は銀白色の光沢を持つ。鉛は融点が低く加工しやすい特性があり、また、耐火性にも優れていたため、火災の多かった城には適した材料だった。さらに、非常時には溶かして弾丸に転用できるという実用的な側面も持ち合わせていたという説もある。この鉛瓦は、現在の金沢城公園で見られる菱櫓や五十間長屋、橋爪門続櫓の屋根にも忠実に再現され、独特の光沢を放っている。
そして、石川門や三十間長屋などで見られる海鼠壁(なまこかべ)も、金沢城の「白」の印象に寄与している。これは、壁面に瓦を貼り付け、その目地を盛り上がった漆喰で仕上げる工法である。瓦の黒と漆喰の白が織りなす独特の幾何学模様は、装飾的な美しさだけでなく、壁の強度を高め、防水性を向上させる機能も持っていた。これらの素材と工法は、加賀藩が持つ高い技術力と経済力を背景に採用されたものであり、単なる装飾に留まらない、実用性と機能性を兼ね備えた選択だったと言えるだろう。
日本の城郭における「白」を語る上で、金沢城と比較されることが多いのが、兵庫県の姫路城だろう。白漆喰総塗籠造りの姫路城は「白鷺城」とも称され、その優美な姿は世界遺産にも登録されている。姫路城の白さもまた、防火性や耐久性を高めるための漆喰塗りが徹底された結果だが、金沢城との違いは、屋根瓦に一般的な黒い本瓦が用いられている点にある。姫路城の白は壁面が主役であり、屋根とのコントラストが特徴的だ。
一方で、熊本城や松本城のように、黒を基調とした「黒い城」も存在する。熊本城は、黒い下見板張りを多用し、武骨で堅固な印象を与える。松本城もまた「烏城(からすじょう)」の異名を持ち、黒漆塗りの下見板と黒瓦が特徴的である。これらの黒い城は、戦国時代の武将が好んだ威厳や質実剛健さを表現しているとも言われ、また、黒い塗料には防虫・防腐効果があるなど、実用的な側面も持ち合わせていた。
金沢城の鉛瓦がもたらす銀白色の輝きは、姫路城の白漆喰の壁面とは異なる趣を持つ。金沢城の白さは、壁面と屋根の両方が白系統の色で統一されている点が特徴であり、これは鉛瓦という特殊な材料を積極的に採用した加賀藩の独自の選択だと言える。他の城の例と比較することで、金沢城の「白」が単なる流行や偶然ではなく、加賀藩の財力、技術力、そして火災への対策という、複数の要因が絡み合った結果であることが浮き彫りになる。
現在の金沢城公園は、市民の憩いの場であるとともに、加賀百万石の歴史と文化を伝える重要な施設となっている。明治以降、大学のキャンパスとして利用されていた期間が長かったため、城郭としての本来の姿は一部失われていたが、平成7年の金沢大学移転を機に、本格的な復元整備事業が始まった。この復元事業では、単に建物を建て直すだけでなく、江戸時代の絵図や古文書、発掘調査の成果を綿密に検証し、当時の工法や材料をできる限り忠実に再現することに力が注がれている。
その象徴が、平成13年(2001年)に完成した菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓である。これらの建物では、鉛瓦や白漆喰といった伝統的な材料が用いられ、往時の「白い城」の姿が現代に蘇った。復元工事には、熟練の職人の技術と、現代の最新技術が融合している。例えば、鉛瓦の製造や漆喰の調合には、現代の品質管理が導入されつつも、その仕上がりは江戸時代の雰囲気を色濃く残している。また、木材の調達から加工に至るまで、伝統的な手法が随所で採用されている。これらの取り組みは、単に観光資源を創出するだけでなく、失われつつある伝統技術の継承にも貢献していると言えるだろう。来場者は、復元されたばかりの真新しい白さの中に、数百年の時を超えて受け継がれる技術と歴史の息吹を感じ取ることができる。
金沢城の「白」は、単なる色以上の意味を持つ。それは、度重なる火災からの教訓、そして加賀藩の経済力と技術力の象徴であった。鉛瓦の採用は、火災対策としての実用性と、他の城にはない独自の美意識を両立させる、戦略的な選択だったのではないか。鉛は貴重な金属であり、それを屋根材として大量に用いることは、並大抵の財力ではなし得ない。また、白漆喰の壁面は、その美しさとともに、城の構造を守るという堅実な役割を果たしていた。
全国の城郭を眺めると、それぞれの土地の気候、支配者の思想、そして時代背景が、城の姿形、ひいては色にまで影響を与えていることがわかる。金沢城の白さは、加賀藩が太平の世において、単なる防御拠点としてだけでなく、文化の中心地としての「顔」を意識し、その威容を内外に示そうとした結果だとも考えられる。この「白い城」は、武家社会の質実剛健さと、洗練された文化が交錯する加賀百万石の姿を、静かに現代に伝えているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。