2026/6/8
主計町茶屋街はなぜ静かで奥ゆかしいのか?浅野川沿いの歴史を辿る

金沢の主計町茶屋街はどういう場所だったのか?
キュリオす
金沢の主計町茶屋街は、他の茶屋街と異なり、明治期に成立し、浅野川沿いの静かな佇まいを保ってきた。富田主計の屋敷跡から発展し、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたこの町は、旧町名復活の歴史も持つ。その静けさの理由と、川辺に息づく独自の文化を探る。
金沢を訪れると、浅野川の穏やかな流れが町の表情を和らげていることに気づく。その川沿いを少し歩くと、出格子のある古い家々が軒を連ねる一画が現れる。主計町茶屋街だ。ひがし茶屋街やにし茶屋街と並び、金沢の「三茶屋街」に数えられるこの場所は、観光客で賑わうひがし茶屋街とは異なる、どこか控えめな趣をたたえている。路地に入ると、昼間でも薄暗い空間が広がり、時折、どこからか三味線の音が漏れ聞こえることもある。なぜこの茶屋街は、他の華やかな場所と一線を画す静けさを保ち続けているのだろうか。そして、「伝統的建造物群保存地区」として指定された背景には、どのような歴史が息づいているのか。その問いは、浅野川のせせらぎに耳を傾けるように、静かに、しかし深く、この町の過去へと誘う。
主計町という地名は、加賀藩の重臣であった富田主計重家の屋敷がこの一帯にあったことに由来する。慶長期(1596〜1615年)にはすでにその名が確認でき、近世の早い時期から町人地の町並みが形成されていたことが当時の絵図からも見て取れる。この地は、金沢城下から北国街道下口が浅野川を渡る浅野川大橋のたもとに位置し、浅野川の水運と共に人や物資が行き交う、かつては大変な賑わいを見せた場所であった。西に隣接する母衣町には芸妓衆が住まい、宿屋が立地していたとの記録もあり、茶屋町に近い性格を帯びた地域として発展していったと考えられている。
金沢に茶屋街が公認されたのは、江戸時代後期の文政3年(1820年)のことだ。それまで城下に点在していた茶屋を、藩の政策によって浅野川の東と犀川の西に集め、新たな町割りがなされた。これが現在のひがし茶屋街と、にし茶屋街の始まりである。しかし、主計町茶屋街の成立はこれより遅く、明治2年(1869年)に入ってからだと言われている。
明治期以降の資料によれば、主計町は公式の免許地としての茶屋町ではなかったものの、東・西・北の茶屋町と並んでその茶屋や芸妓が紹介されており、実質的には茶屋町として成立していたことがうかがえる。 この明治期の界隈の様子は、隣接する下新町に生まれ育った文豪、泉鏡花の多くの作品にも描かれることとなった。 泉鏡花は幼少期、久保市乙剣宮から主計町へ下る薄暗い石段「暗がり坂」を学校へ通う際によく通ったと伝えられている。
主計町がその最盛期を迎えたのは、昭和初期の頃である。幕末まで武士の居住地であった西内惣構掘西側にも料理屋や演舞場、そして茶屋が立地し、主計町全体が茶屋町として機能していたことが確認できる。その総数は48軒にも上り、地区内のほとんどの建物が茶屋として利用されていたという。 この頃までに、それまでの二階建てから三階建てへの増築や、石置板ぶき屋根から瓦ぶきへの改装が多く行われ、今日に伝わる特徴ある街並みが形成されたのである。
しかし、時代と共に町名は変遷を辿る。昭和45年(1970年)には住居表示に関する法律によって、由緒ある「主計町」の町名が「尾張町2丁目」へと変更されたのだ。だが、地元住民らの強い要望により、平成11年(1999年)に全国で初めて旧町名の復活を果たし、「主計町」の町名を取り戻した。 この出来事は、全国に広がる旧町名復活運動のモデルケースとなり、主計町の歴史に新たな一ページを刻んだ。
主計町茶屋街の街並みを歩くと、浅野川に沿って連なる出格子が美しい茶屋建築が目を引く。 細い路地と石畳が続き、金沢らしい情緒が色濃く残るこの一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 茶屋建築の特徴である一階の出格子と、二階の建ちが高い構造は、ひがし茶屋街と共通する部分も多いが、明治後期から昭和初期にかけて三階建てに増築された建物が並ぶ点は、それぞれの時代を反映した主計町ならではの景観を形成している。
格子戸の奥には、かつて大人の社交場として栄えた茶屋の空間が広がっていた。芸妓の舞や三味線の音色が響き、旦那衆が粋な遊びに興じる場所であった。 昼間でも薄暗い路地は、外の世界とは切り離されたような独特の非日常感を醸し出し、時折漏れ聞こえる三味線の音色がその雰囲気を一層深める。
主計町のまち歩きの面白さは、「明」と「暗」のコントラストにあると言われる。 陽光に照らされた浅野川沿いの開放的な景色から、一歩路地裏へと足を踏み入れると、雰囲気は一変する。入り組んだ小路に格子戸の町家がひっそりと軒を連ねる界隈は、昼間でもほの暗く、その狭さゆえに「人がやっとすれ違えるほど」と表現されることもある。 この路地には、久保市乙剣宮の境内から主計町茶屋街へと続く「暗がり坂」と、それに平行して細い小路から下新町へと通じる「あかり坂」という二つの石段が存在する。 「暗がり坂」は日中でも薄暗いことからそう呼ばれ、文豪泉鏡花も幼少の頃によく通ったとされる。 一方、「あかり坂」は作家の五木寛之が命名したと言われている。 これら二つの坂は、主計町が持つ光と影、表と裏の顔を象徴しているかのようだ。
茶屋建築の窓に用いられる「木虫籠(きむすこ)」と呼ばれる細格子も、主計町の重要な意匠の一つである。 これは、外部からの視線を遮りつつ、内部からは外の様子をうかがえるように工夫されたもので、茶屋という閉じた空間の特性をよく表している。鮮やかなベンガラ色の千本格子が続く路地は、琴の音と共に、かつての華やかな時代を偲ばせる。 このように、主計町茶屋街は、その建築様式や路地の造り、そして浅野川という自然の要素が一体となって、独自の歴史と文化を形作ってきたのである。
金沢には、ひがし茶屋街、にし茶屋街、そして主計町茶屋街という三つの茶屋街が存在し、それぞれが異なる表情を見せる。これらはすべて江戸時代からの歓楽街であり、芸妓遊びなど大人の社交場として栄え、艶やかな風情と共に金沢の茶屋文化を今に伝えている点では共通している。 しかし、その成立時期や規模、そして醸し出す雰囲気には明確な違いがある。
最も広く知られ、観光客で賑わうのはひがし茶屋街だろう。文政3年(1820年)に藩の公認を得て成立したこの茶屋街は、三茶屋街の中で最も規模が大きく、典型的な茶屋様式を持つ建造物が数多く残されている。 その賑やかさは、日中には真っ直ぐ歩くことも難しいほどだと言われることもある。 ひがし茶屋街は平成13年(2001年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、金沢の代表的な観光地として発展してきた。
一方、にし茶屋街は三茶屋街の中で最も小規模ではあるが、芸妓の数が最も多く、今も華やかな芸妓文化が息づく場所として知られる。 こちらも文政3年(1820年)にひがし茶屋街と同時に藩の公認を得て成立した。 金沢駅からは他の二つの茶屋街からやや離れた場所に位置し、静かな趣を保っている。
そして主計町茶屋街は、明治2年(1869年)に成立したとされ、他の二つに比べて歴史は新しい。 規模はにし茶屋街と同様に小規模だが、ひがし茶屋街のすぐ近く、浅野川を挟んだ対岸に位置するという立地が特徴的だ。 しかし、ひがし茶屋街のような観光地の賑やかさはなく、より落ち着いた雰囲気が漂う。 これは、主計町が観光地化よりも「現役の茶屋街」としての雰囲気を色濃く残しているためだと言えるだろう。
三茶屋街を比較すると、金沢の茶屋文化が単一のものではなく、多様な形態で発展してきたことが見えてくる。ひがし茶屋街が「見せる」文化としての側面を強く持つとすれば、主計町は浅野川という自然の要素と一体となり、より「ひっそりと存在する」文化を育んできたと言える。明治期に成立したことで、江戸時代の茶屋建築に加えて、明治後期から昭和初期にかけて三階建てに増築された建物が多く見られる点も、他の茶屋街との違いとして挙げられる。 また、全国初の旧町名復活を果たしたという歴史は、この町が自らのアイデンティティを積極的に守り、未来へと繋ごうとする強い意志の表れである。
今日の主計町茶屋街は、その歴史と風情が評価され、平成20年(2008年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 この指定は、単に古い建物を保存するだけでなく、町並み全体の景観を維持し、そこに息づく文化を次世代に継承していくための取り組みを意味する。金沢市も地元と「まちづくり協定」を締結し、住民と協働で町並みや景観の保存に努めているという。
浅野川沿いには、昔ながらの料亭や茶屋が軒を連ね、その中には今も現役で営業を続ける茶屋も数軒ある。 夜になると、軒先に灯る明かりが川面に揺らめき、幻想的な雰囲気を醸し出す。 昼間は比較的静かで人通りも少ないが、近年は北陸新幹線開業以降、観光客、特に欧米やオセアニアからの観光客が増加傾向にあるという。 彼らは、日本人が見過ごしがちな街角の風景にもカメラを向け、主計町が金沢有数の撮影スポットとして認識されつつあるようだ。
また、古い茶屋建築をリノベーションして、カフェやギャラリーとして活用する動きも見られる。例えば、大正2年(1913年)建築で金沢市の指定文化財となっている茶屋建築を改装したカフェ「土家」では、木虫籠やベンガラ色の壁など、かつてのお茶屋の面影を残しつつ、現代の訪れる人々がくつろげる空間を提供している。 2階の座敷からは浅野川の眺望も楽しめるという。
主計町は、ひがし茶屋街のような土産物店や金箔製品の店が並ぶ賑やかさとは異なる。 そのため、金箔ソフトクリームのような「金沢ならでは」の体験を求める観光客にとっては、物足りなさを感じるかもしれない。しかし、この静けさこそが主計町の魅力であり、喧騒から離れてゆっくりと時間を過ごしたいと考える人々にとっては、最適な場所となる。 観光地化が進む中でも、この町は「お金儲けにギスギスしない心の余裕」を感じさせる、と評する声もある。
金沢の主計町茶屋街は、単なる古い建物が並ぶ観光地ではない。そこには、浅野川という自然の恵みを受け、明治期という変革の時代に誕生し、そして一度は失われた町名を住民たちの手で取り戻したという、固有の歴史が刻まれている。ひがし茶屋街の華やかさや、にし茶屋街の芸妓文化の濃密さとは異なる、静かで奥ゆかしい魅力がこの町にはある。
「茶屋町」という空間が、金沢の歴史の中でどのように多様な顔を持ち得たのか。主計町は、公認の茶屋街としての始まりではなかったが、浅野川大橋のたもとという地の利と、人々の往来の中で自然発生的に「茶屋町に近い性格」を帯びていった。そして、明治以降に本格的な茶屋街として発展し、昭和初期には三階建ての建物が並ぶ独自の景観を形成した。
さらに特筆すべきは、全国で初めて旧町名を復活させたという事実である。これは、過去の歴史を単に保存するだけでなく、現代を生きる人々が自らのアイデンティティをどのように継承していくかという問いに対する、具体的な一つの答えだ。行政主導ではない、住民の強い思いが、町の名前という目に見える形で歴史を呼び戻したのである。
主計町茶屋街は、今日も浅野川のほとりで、その静かな佇まいを保っている。夕暮れ時、格子戸の隙間から漏れる灯りが川面に映る光景は、この町がこれまで歩んできた道のりと、これからも続くであろう時間の流れを象徴しているかのようだ。賑やかさの裏側に、もう一つの金沢の茶屋文化の姿が、ここ主計町には息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。