2026/6/6
宿場町で鰻が名物だったのはなぜ?川と道の関係から紐解く

日本各地いろんな宿場町で鰻が名物とされていたりするが、昔はそこらじゅうで鰻が獲れたのだろうか?
キュリオす
日本各地の宿場町で鰻が名物となった背景には、ニホンウナギの生息地と街道の地理的条件が関係していた。栄養価が高く滋養強壮に良い蒲焼きは、長旅で疲れた旅人に重宝された。現代では天然資源の減少により状況は変化している。
街道を旅する人々が立ち寄る宿場町には、その土地ならではの食がある。蕎麦やとろろ汁、あるいは餅菓子など、様々だが、鰻を名物とする宿場が日本各地に点在しているのは、ひとつの共通した風景と言えるだろう。蒲焼きの甘辛い香りが漂う店先は、旅人の足をしばしば止めてきた。しかし、かつて日本中の川や沼で、これほどまでに鰻が豊富に獲れたものなのだろうか。多くの宿場で鰻が「名物」とされた背景には、単なる偶然では片付けられない、ある種の必然があったのではないか。
日本人が鰻を食してきた歴史は古い。縄文時代の貝塚からは、すでに鰻の骨が出土しているという。 文献として初めて登場するのは奈良時代の『万葉集』だ。大伴家持が夏痩せに苦しむ友人に「むなぎ(鰻)を食せ」と勧める歌を残しており、この時代にはすでに滋養強壮の食べ物として認識されていたことがわかる。
室町時代に入ると、「蒲焼き」という言葉が文献に現れる。応永6年(1399年)の「鈴鹿家記」には、鰻を筒切りにして串に刺し、焼いたものが記されているという。 この姿が植物の「蒲の穂」に似ていたことから、「蒲焼き」と名付けられたとする説が有力だ。 当時の蒲焼きは塩や味噌で味付けされた素朴なものだったとされている。
現代に通じる鰻の蒲焼きの調理法が確立されたのは、江戸時代、特に後期に入ってからである。 醤油とみりんを基調とした甘辛いタレが普及し、江戸庶民の間で人気を博した。 この時代には、東海道をはじめとする五街道の整備が進み、参勤交代や伊勢参りなどで人々の往来が活発になった。 旅籠(はたご)などの宿泊施設が発展し、旅人向けの食事が提供されるようになる中で、鰻料理もその地位を確立していったのだ。
宿場町で鰻が名物となった背景には、ニホンウナギの生態と、街道が通る地理的条件が深く関係している。ニホンウナギは、マリアナ諸島西方沖で産卵し、孵化した稚魚(シラスウナギ)が海流に乗って日本の沿岸に到達した後、河川や湖、汽水域に遡上して成長する降河回遊魚である。
かつての日本では、関東以西の本州太平洋側、瀬戸内海、九州西岸の河川や湿地帯に多くの鰻が生息していたことが、近年の環境DNA調査などから明らかになっている。 一方、日本海側では能登半島以西には生息するものの、北陸や東北地方ではほとんど見られなかったという。 多くの主要な街道、特に東海道や中山道は、鰻が豊富に生息するこれらの地域を縫うように通っていた。
例えば、中山道の宿場町である浦和は、荒川水系に属する沼地が多く、鰻の生息に適した環境であった。 この地では、江戸時代から沼で獲れた鰻を蒲焼きにして旅人に提供し、評判を呼んだとされる。 東海道の新居宿でも鰻の蒲焼きが名物とされていた記録が残る。 こうした宿場町は、鰻の漁場に近く、かつ旅人が集中する「消費地」と直結していたことが、鰻料理が名物として定着する大きな要因となったのだ。
蒲焼きの調理法も、旅の食事に適していた。鰻は栄養価が高く、疲労回復に良いとされていたため、長旅で疲れた旅人にとって貴重な滋養食であった。 また、甘辛いタレでしっかり焼き上げる蒲焼きは、風味も豊かで食欲をそそるだけでなく、他の調理法に比べてある程度の保存性も期待できた。江戸時代後期には、蒲焼きを温かいご飯に乗せる「うなぎ飯」、後の「うな丼」が登場し、手早く食べられる満足感のある食事として旅人に重宝されたのである。
宿場町の食事は、基本的に旅籠で提供される「一汁三菜」が標準的な献立であった。 飯、汁、香の物の他に、焼魚や煮魚、野菜の煮物などが並んだとされる。 例えば、東海道の丸子宿ではとろろ汁が名物として知られ、宿場を訪れる旅人を惹きつけた。 琵琶湖に近い醒井宿では、清流で育つニジマスが提供された例もあるだろう。
こうした他の宿場料理と比べると、鰻の蒲焼きにはいくつかの際立った特徴がある。まず、鰻は他の川魚に比べて脂質やビタミンA、B1、D、Eなどが豊富であり、高い栄養価を持つ。 これは、長距離を徒歩で移動する旅人にとって、単なる空腹を満たす以上の「滋養強壮」という明確な価値を持っていた。多くの川魚が淡白な味わいであるのに対し、鰻の濃厚な旨味と、タレで仕上げる蒲焼きの強い風味は、旅の単調な食事に変化と活力を与えたことだろう。
また、蒲焼きという調理法自体が、他の魚料理とは一線を画していた。鰻を捌き、串を打ち、素焼きした後、醤油とみりんをベースにした濃厚なタレを何度も塗り重ねて焼き上げる手間は、当時の料理としては手の込んだ部類に入る。 一般的な旅籠の焼き魚が塩焼きや煮付けであったことを考えると、蒲焼きは「特別なご馳走」としての位置づけを確立したと言える。多くの宿場町で鰻が名物として謳われたのは、単にそこで獲れたからというだけでなく、その栄養価、調理法、そして旅という非日常の体験に彩りを添える存在であったからではないだろうか。
かつては日本各地の河川や沼で豊富に獲れたとされるニホンウナギだが、現代においては状況が大きく変化している。1970年代以降、天然のニホンウナギの資源量は著しく減少し、2014年には国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで「絶滅危惧ⅠB類」に指定された。
現在、日本で消費される鰻の95%以上は養殖によって供給されている。 しかし、この養殖も、天然の稚魚であるシラスウナギを採捕して育てる「種苗養殖」に依存しているのが実情だ。 シラスウナギの採捕量も長期的に減少傾向にあり、養殖産業の持続可能性が課題となっている。
そのため、現代の鰻料理店では、かつてのように地元の川で獲れた鰻にこだわることは難しくなっている。国内の主要な産地(鹿児島、愛知、宮崎など)や、台湾、中国など海外から養殖鰻を仕入れることが一般的だ。
それでも、かつての宿場町や、鰻を名物としてきた地域では、その伝統を守り続ける老舗が営業を続けている。浦和には、江戸時代から続く鰻屋が現存し、その歴史を今に伝えている。 また、浦和駅西口には、鰻をモチーフにした「浦和うなこちゃん」の石像が設置されるなど、地域と鰻の結びつきは形を変えて維持されているのだ。 資源管理に向けた国際的な協力や、シラスウナギに依存しない完全養殖の研究も進められているが、天然資源の回復には長い時間が必要とされるだろう。
日本各地の宿場町で鰻が名物とされたのは、かつての日本の自然環境がニホンウナギにとって広範な生息地を提供していたこと、そして旅という特殊な状況下で、滋養に富み、美味しく、比較的提供しやすい鰻の蒲焼きが求められた、という複合的な要因が重なった結果である。それは、どこでも獲れたからという単純な話ではなく、川や沼に恵まれた特定の場所が、街道という人の流れと結びつくことで、その地の「名物」としての地位を確立していったと見るべきだろう。
現代において、鰻はかつての「身近な川魚」から「貴重な高級食材」へとその姿を変えた。多くの宿場町で鰻を供する店が残る風景は、かつての豊かな自然と、旅人の胃袋を満たすために工夫を凝らした人々の営みを今に伝える。その香ばしい匂いは、単なる食欲を刺激するだけでなく、土地の歴史と、そこに流れる時間の記憶を呼び覚ますものだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。