国家の呪術から江戸の娯楽へ:荒廃した成田山新勝寺はどのようにして日本一の参詣地へ変貌を遂げたのか?

難波津の船から届いた鎮魂の炎
正月三が日だけで300万人以上の参詣者が押し寄せ、年間では1000万人を超える人々が足を運ぶ。千年以上続く不動明王信仰の中心地、成田山新勝寺。大本堂で打たれる大太鼓の音と、護摩壇から天井へと立ちのぼる激しい炎は、いまや千葉県成田市を代表する風景として定着している。寺院としての初詣参拝者数では全国第1位を誇り、成田国際空港に近いことも手伝って国内外から人が絶えない。
だが、この巨大な参詣地の始まりを遡ると、現在の賑わいとは真逆の張りつめた光景に行き着く。
平安時代中期、天慶3年(940年)。京都から海路を経て下総国へ渡ってきた一人の高僧が、誰もいない野原で21日間にわたり護摩の火を焚き続けていた。そこに集まる群衆や門前町の賑わいは存在しない。行われていたのは、東国を揺るがした平将門の乱を鎮めるための、朝敵調伏の修法であった。
本来であれば、特定の戦乱を鎮圧するためだけに設置された一回限りの出張祈祷所に過ぎなかった場所である。なぜこの地が一時的な呪術の現場で終わらず、千年以上の時を経て日本屈指の巨大参詣地へと変貌を遂げたのだろうか。
公津ヶ原の密勅と戦国の静寂
成田山新勝寺の起源は、939年(天慶2年)に東国で勃発した平将門の乱に直接結びついている。自ら「新皇」を称して朝廷に反旗を翻した将門に対し、朱雀天皇は追討軍を差し向けると同時に、密教の威光による戦乱の平定を命じた。密勅を受けたのは、宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正である。
寛朝は、京の高雄山神護寺護摩堂に安置されていた空海(弘法大師)作と伝わる不動明王像を奉じ、都を旅立った。940年(天慶3年)1月、難波津から海路を経て上総国の尾垂浜(現在の千葉県山武郡横芝光町)に上陸。そこから陸路で下総国の公津ヶ原(現在の成田市公津地区周辺)へと入った。寛朝はこの地に小さな堂を仮設し、乱の平定を祈る不動護摩供を奉修した。
護摩が焚かれて21日目、和暦の2月14日(西暦940年3月25日)に平将門は戦死する。額に当たった一本の流れ矢が命取りになったと伝えられる。乱の平定を見届けた寛朝は不動明王像を携えて帰京しようとしたが、尊像は岩のように重くなり、微動だにしなくなったという。やがて「この地に留まり東国の人々を救わん」という尊像の託宣が寛朝にくだされた。
この報せを受けた朱雀天皇は深く感動し、国司に命じて堂宇を建立させた。「新たに勝つ」という意味を込めて「神護新勝寺」の寺号が下賜され、東国鎮護の霊場として開山したのが新勝寺の始まりとされる。
その後、鎌倉時代にかけて新勝寺は源頼義や源頼朝、千葉常胤といった関東の有力武将たちの崇敬を集めた。1063年(康平6年)には源頼義によって本堂が再建された記録も残る。しかし、南北朝から戦国時代へと至る長い動乱の中で、寺の環境は大きく変容していく。
永禄9年(1566年)頃、成田村の「一七軒党」と呼ばれる名主たちが不動明王像を背負って避難し、現在の成田市並木町にある「不動塚」付近に伽藍を建立して遷座した。だが、たび重なる戦火と治安の悪化によって寺は困窮を極めた。江戸時代初期に至るまで、新勝寺は荒廃した「寂れ寺」として静かに埋もれ、調伏の記憶を保つのみであった。
芝居小屋の熱気と深川の出開帳
荒廃していた地方の寺院が劇的な再興を遂げたのは、17世紀後半から18世紀初頭、いわゆる元禄期のことであった。この飛躍を支えた構造には、大衆娯楽である歌舞伎との結合と、都市江戸に向けた出開帳(でかいちょう)という二つの強力な仕組みが存在した。
転機を作ったのは、江戸歌舞伎の祖である初代市川團十郎である。後継ぎとなる子に恵まれなかった初代團十郎は、自身の本貫に近い成田山新勝寺の薬師堂に通い詰め、熱心な求子祈願を行った。すると元禄元年(1688年)、見事な男児(のちの二代目團十郎)を授かることとなった。
歓喜した初代團十郎は、1695年(元禄8年)に『成田山不動明王』という演目を初演し、自ら不動明王を演じた。これが大評判を呼び、市川家は「成田屋」の屋号を名乗るようになる。歌舞伎の舞台上で圧倒的な存在感を放つ不動明王の姿は、江戸の町人たちの心を捉えた。成田不動の霊験は歌舞伎という最新の大衆メディアに乗って、一気に江戸中に知れ渡ったのである。
しかし、当時の江戸から成田までは片道二日以上を要する長旅であった。誰もが気軽に成田へ赴けるわけではない。そこで新勝寺が打ち出したのが、出開帳という宗教的な移動システムであった。
1703年(元禄16年)、新勝寺は江戸の深川永代寺において、本尊の出開帳を初めて実施した。寺の貴重な仏像や宝物を江戸の境内に移して公開し、参詣と祈祷の場を都市のただ中に創出する試みである。江戸時代を通じて計12回行われた出開帳の多くが深川で開かれ、江戸市民は成田まで行かずともお不動様の御利益を授かることができた。
江戸での出開帳で知名度と資金を得た新勝寺は、現地成田の伽藍を急速に拡張していった。1655年(明暦元年)に建立された本堂は、参詣者の増加に伴い1701年(元禄14年)により大きな本堂(現在の光明堂)へと建て替えられた。さらに1712年(正徳2年)には三重塔が立ち、1858年(安政5年)には新たな本堂(現在の釈迦堂)が完成する。参拝客の増大に合わせて、旧本堂を解体せずに境内奥へと移動させ、手前に新しい本堂を建て増していく独自の手法が取られた。
国家調伏のための「崇高で恐ろしい呪術の場」であった新勝寺は、歌舞伎と出開帳という江戸の都市装置と連動することで、庶民の日常的な願掛けを引き受ける現世利益の聖地へと再定義されたのである。
霊場と都市を結ぶ巡礼の磁場
日本の主要な信仰拠点の歴史と並べたとき、成田山新勝寺が持つ独自の位置付けがより明確になる。
たとえば、長野の善光寺や三重の伊勢神宮は、全国各地に組織された「講」と呼ばれる信徒集団に支えられ、人々が一生に一度の決意で長距離を旅して訪れる聖地であった。本尊や神体は厳重にその地に留まり、参拝者が全国から遥々と集まってくる「遠距離吸引型」の広域霊場である。
これに対し、成田山新勝寺は江戸から約70キロメートルという、徒歩で片道二日ほどの中距離に位置していた。この絶妙な距離感は、厳しい修行や命がけの巡礼ではなく、参道の旅籠での食事や買い物を楽しむ「行楽型参詣」を成立させた。利根川や印旛沼の川魚料理、とりわけ参道で提供されたうなぎ料理は、旅の娯楽として定着していった。
また、同じ関東の都市近郊霊場と比較しても特徴的である。川崎大師や高尾山薬王院もまた、江戸市民の参詣を集めた真言密教の寺院であるが、成田山ほど特定の芸能家系(市川團十郎家)と強固に結びつき、メディア効果を最大化させた例は他にない。
自地で静かに参拝者を待つのではなく、深川永代寺という東京の下町に恒常的なパイプ(のちの深川不動堂)を築き、自ら都市へ出向いて顧客層を開拓する積極的な巡礼構造を作り上げた点に、新勝寺の強みがあった。
鉄砲玉を弾く札から空港の門前へ
時代が近代から現代へと移り変わっても、新勝寺が持っていた「時代のニーズに応じて機能を滑らかに更新する力」は衰えなかった。
明治から昭和初期にかけて、新勝寺は戦争と国家の急変の中で新たな役割を担うことになる。日清戦争から太平洋戦争に至るまで、出征兵士やその家族の間で爆発的に広まったのが「身代わり札」であった。
この札の由来は、天保3年(1832年)に建てられた仁王門の工事現場にさかのぼる。棟上式の直前、大工の辰五郎が高さ17メートルの高所から落下したものの、懐に納めていた新勝寺の守り札が真っ二つに割れ、本人は怪我ひとつなかったという伝承である。これが「弾丸から身を守る身代わりのお札」として軍人らに信仰され、陸軍歩兵第57連隊の兵士らがこぞって授与を受けた。
また、1938年(昭和13年)に行われた開基一千年祭では、本来の1940年(昭和15年)から2年前倒しして挙行された。これは1940年が国家行事である紀元二千六百年記念行事と重なり、寄付金や参詣者が分散するのを避けるための経済的判断であった。この前倒しにより、現在に至るまで成田山の開基周年事業は本来の年号から2年ズレて行われる特異な伝統が残されている。戦時下には陸海軍へ戦闘機「成田山号」「新勝号」を献納するなど、時代の要請に深く適応していった。
戦後の高度経済成長期を迎えると、新勝寺は自家用車の普及に合わせて「交通安全祈願」の先駆けとなった。1968年(昭和43年)には、1655年の薬師堂、1701年の光明堂、1858年の釈迦堂に続く新たな中心施設として、大規模な鉄筋コンクリート造の大本堂が完成した。
現在、成田国際空港から車で十数分という立地も加わり、世界中から観光客が訪れるグローバルな参詣地となっている。境内には国の重要文化財である仁王門や三重塔、釈迦堂、額堂、光明堂の5棟が整然と並び、江戸から令和に至る建造物のレイヤーがひとつの空間に共存している。
千年を駆動させた変容の論理
平将門の調伏という、極めて限定的な政治的呪術として始まった成田山新勝寺。その千年の歩みを振り返るとき、浮かび上がってくるのは「揺るぎない本尊」と「柔軟に変容し続けた機能」という二重の構造である。
もし新勝寺が、将門調伏という最初の由緒だけに固執していたならば、平安の動乱が去り、戦国期に伽藍が荒廃した時点で歴史の表舞台から消え去っていたかもしれない。しかしこの寺は、時代ごとに人々が抱える切実な不安や願望に合わせて、提供する現世利益の性質を果敢に更新し続けた。
朝敵を調伏する国家の呪術装置から、江戸町人の子授けや大当りを祈る娯楽の場へ。戦時下の弾除けのお守りから、モータリゼーション期の交通安全、そして現代の初詣や国際観光へ。中心にある不動明王像そのものは13世紀後半から14世紀頃に作られた鎌倉期の姿のまま動かないが、それを包む意味付けだけが絶えず書き換えられてきたのである。
その変容の歴史は、境内の伽藍の配置そのものに目に見える形で刻まれている。1655年に建った一番古い本堂(現在の薬師堂)は参道の途中に残り、1701年の本堂(光明堂)、1858年の本堂(釈迦堂)が境内の奥へと段階的に残り、一番手前に1968年の大本堂が構える。古いものを壊して消し去るのではなく、過去の本堂を脇へ移しながら新しい本堂を増築してきた境内の景色は、変容を受け入れながら層を重ねてきた千年の時間の厚みをそのまま物語っている。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 成田山新勝寺 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 初詣全国2位!1000年以上の歴史を誇る関東最大のパワースポットの1つ『成田山新勝寺』をご紹介しますclubgets.com
- 成田山新勝寺の歴史と見どころ~平将門調伏の不動明王~yoritomo-japan.com
- 成田山新勝寺の人気の秘密~江戸時代から人気を博した「成田詣で」 - まっぷるウェブarticles.mapple.net
- 成田山新勝寺の創建(成田山新勝寺④) : 気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録wheatbaku.exblog.jp
- 成田山新勝寺とは?歴史・御護摩祈祷・見どころを徹底ガイド【初詣・観光におすすめ】 - 巡縁_観れば開運!読めば運気アップ!お寺神社の情報・通販サイトjyun-en.jp
- 成田山新勝寺|スポット・体験|千葉県公式観光サイト ちば観光ナビmaruchiba.jp
- 成田山新勝寺 |FEEL成田 成田市観光協会公式サイトnrtk.jp