天下の銅山とマタギの発祥地という二つの営みは、どのようにして同じ谷あいに根を下ろしたのか?

阿仁川の濁りと深い森のあいだで
秋田県北東部、米代川の支流である阿仁川を遡ると、山々はしだいに深さを増していく。秋田内陸縦貫鉄道の車窓からは、急流とブナの原生林が交互に現れ、一見すると人の暮らしから遠く離れた山奥のように映る。秋田市や能代市といった沿岸部の都市部から見れば、奥羽山脈の懐に抱かれた静穏な山村に過ぎない。しかし、この阿仁と呼ばれる地域には、全国から集まった職人と商人、そして独自の山岳信仰を抱える狩人たちが交錯してきた重厚な積み重ねがある。
この地を有名にしている要素は主にふたつ存在する。ひとつは、江戸時代に日本最大級の産出量を誇った阿仁鉱山をはじめとする鉱床の存在だ。もうひとつは、厳格な掟と独自の山言葉を守り伝えてきた狩猟集団「マタギ」の発祥地としての顔である。
一方は地球の深部を掘り進む近代的な金属産業であり、他方は山林の自然と呼応しながら獲物を追う伝統的な狩猟文化である。一見すると正反対に見えるふたつの営みが、なぜ北東北の同じ狭小な谷あいに根を下ろし、数百年間にわたって並行して栄えることができたのだろうか。過酷な気候と豪雪に閉ざされた山深い土地であるからこそ、どちらか一方へ収斂していくのが自然な流れであるように思える。だとすれば、阿仁という土地の構造はどこで二つの巨大な要素を引き寄せ、結びつけたのだろうか。
久保田藩を支えた黒い土と銅の閃き
阿仁における鉱脈の歴史は、関ヶ原の戦いを契機として大きく動き始めた。慶長7年(1602年)、常陸国から出羽国秋田へ移封された佐竹義宣は、藩の財政基盤を確立するために鉱山開発を最優先課題に据えた。当時、秋田藩内では院内銀山などの開発が進みつつあったが、阿仁周辺の沢々で銅や金の鉱脈が次々と発見されたのは17世紀前半のことである。寛永年間から正保年間にかけ、小沢(おざわ)、向小沢(むかいおざわ)、水無(みずなし)、萱草(かやくさ)といった著名な坑口が開かれ、阿仁鉱山としての体裁が整っていった。
当時の出羽国は、豊かな森林資源と同時に、内陸の山間部に豊かな熱水鉱床を抱えていた。火山活動によってもたらされた緑色凝灰岩(グリーンタフ)層の中に、銅や鉛、亜鉛、金、銀などが脈状に濃縮されていたのである。阿仁の銅脈は特に質が高く、品位の優れた黄銅鉱が大量に産出した。
元禄年間(1688〜1704年)に入ると、阿仁鉱山の産銅量は絶頂期を迎える。年間で約1500トンから2000トンにおよぶ極めて高い水準の銅が採掘・製錬された。この数値は当時の国内産銅量の過半を占める勢いであり、阿仁は文字通り「天下の銅山」として全国にその名をとどろかせたのである。
佐竹氏率いる久保田藩にとって、阿仁鉱山は藩財政の柱そのものだった。採掘された銅は、阿仁川から米代川を下る舟運によって能代港へと運ばれ、そこから西回り航路で下関を経由し、大坂や長崎へと送られた。当時、江戸幕府は長崎貿易におけるオランダや清(清朝)への支払手段として、金の輸出を制限し、代わりに「棒銅」や「俵銅」と呼ばれる製錬済みの銅を大量に輸出していた。阿仁の山奥から削り出された黒ずんだ銅塊は、長崎の出島を経て世界市場へと流れていったのである。
阿仁鉱山の繁栄は、莫大な人口の流入を引き起こした。全国から金掘り(山師)、坑夫、冶金技術者、薪炭の供給者、そして彼らの生活を支える商人や遊女までもが谷底に集まった。当時の阿仁合(あにあい)を中心とする地域は、久保田藩の城下町である久保田(現在の秋田市)に次ぐ人口規模を誇る都市空間へと変貌したとされる。
山間に突如として立ち現れたこの鉱山都市は、周辺の山林資源を大量に消費した。銅を製錬するためには、膨大な量の木炭が必要となるからだ。山肌のブナやナラは次々と伐採され、炭窯の煙が谷を埋めた。一方で、この大規模な山林開発と人の出入りは、それまで静かに連なっていただんまりの森を切り拓き、土地の生態系と経済構造を大きく塗り替えていくことになった。
幕末から明治維新にかけて、鉱山の所有形態や技術は大きく転換した。明治12年(1879年)、明治政府は阿仁鉱山を官営化し、近代的な鉱山技術を導入するために外国人技師を招いた。ドイツ人技師のアドルフ・メツゲルらが着任し、西洋式の採掘技術、通気・排水設備、機械製錬が導入された。山中に建造された煉瓦造りの西洋館や、最先端の蒸気機関の音は、伝統的な手掘りの時代からの劇的な脱皮を象徴していた。その後、明治23年(1890年)に古河市兵衛率いる古河鉱業へ払い下げられ、民間企業の手によってさらなる合理化が進められた。
天下の銅山と山刀を抱く人々
なぜ阿仁という土地において、広大な鉱山都市の形成と、マタギという極めて自立性の高い狩猟集団の文化が衝突することなく、ともに深化していったのか。その背景には、地形的な閉塞性と、山林がもたらす多様な経済的価値の構造的な分業が存在していた。
地理的に見ると、阿仁は北を阿仁川、南を鳥形山や打当(うっとう)の峻嶺に囲まれた三方を山で閉ざされた盆地状の地形をなしている。奥羽山脈の最も懐深い部分にあたり、冬になれば数メートルの積雪が下界との交通を断絶する。こうした環境において、外部から流入する金属採掘のシステムと、古くからその山域に精通していた先住民的な生活様式は、互いを排除するのではなく、依存し合う関係を構築していった。
第一の要因は、鉱業と狩猟業の季節的な相補性である。阿仁鉱山での仕事は、坑内での採掘作業や製錬作業を中心に一年を通じて行われたが、冬場の過酷な気候下では、炭の運搬や木材の切り出しといった屋外作業が著しく制限された。これに対し、マタギの主たる狩猟であるツキノワグマの追跡は、雪が山を覆い尽くし、クマが冬眠から覚める春先の残雪期(3月〜5月上旬)に最も活発化する。
マタギたちの多くは、平時は農業や林業、さらには鉱山に関連する雑役に従事していた。根子(ねっこ)や打当といったマタギの集落は、鉱山から一定の距離を保ちつつ、山奥へ入るための拠点として機能した。彼らは単なる狩人にとどまらず、山中の地理、気象、雪崩の危険箇所を熟知した「道の案内人」でもあった。鉱山の地質調査や山林の境界画定、さらには遭難者の捜索において、マタギたちの持つ知識と経験は久保田藩や鉱山側にとっても不可欠なものであった。
第二の要因は、山林権益の重層的な管理体制である。久保田藩は、阿仁の山々を鉱山用木材や炭を得るための「御林(おばやし)」として強力に統制した。しかし、すべての山林を均一に管理することは不可能であり、急峻な奥山や保全区域においては、マタギ集団に対して「山立根本巻物(やまだちねんぽんまきもの)」のような免状を与えることで、一定の狩猟権と通行の自由を認めた。
マタギ集団は、頭領である「シカリ」を中心とする厳格な階級組織を持っていた。山に入るときは「マタギ言葉」と呼ばれる独自の隠語を使い、女性の立ち入りを禁じ、山の神(一般に般若や容姿の醜い女神とされる)を奉る特殊な信仰体系を保持していた。これは単なる迷信ではなく、遭難のリスクが極めて高い過酷な奥山において、集団の統制を極限まで高め、無用な混乱を防ぐための合理的な規律でもあった。
彼らが獲物としたツキノワグマから得られる熊胆(ゆうたん・クマののうのう)は、当時、極めて高価な万能薬として全国で取引された。また、熊皮や胆のうは藩への献上品や重要な貿易品としても珍重された。阿仁のマタギは、地元の山々にとどまらず、遠くは越後や出羽三山、さらには岩手や青森の山々にまで遠征する「旅マタギ」としても知られていた。彼らが広範囲を移動できたのは、久保田藩や各地の社寺から与えられた通行の特権と、各地の鉱山や山村とのネットワークが存在していたからにほかならない。
つまり、阿仁という地域は、地下の鉱物資源を採掘する「鉱山社会」と、地上から奥山にかけての生物資源を活用する「マタギ社会」という、層の異なるふたつの空間利用が重なり合って成立していた。両者は資源を巡って激しく争うのではなく、それぞれの専門領域を守りながら、山という巨大な空間の恩恵を分け合っていたのである。
佐渡の孤島、足尾の煙、そして阿仁の森
阿仁という土地の持つ性格をより明確にするためには、同時代に存在した他の主要な鉱山地域や山岳狩猟地域と比較することが有効である。
たとえば、新潟県の佐渡金銀山と比較してみよう。佐渡は幕府の直轄地(天領)であり、日本海に浮かぶ離島という地理条件から、極めて厳重な管理下におかれた。佐渡では、過酷な水抜き作業などに江戸から送られた無宿人が投入されるなど、国家権力による強力な集権的統制と人口流入が際立っていた。そこには、周辺の山々と不可分に結びついた広大な狩猟文化や自律的な山民社会が介在する余地はほとんどなかった。佐渡の鉱山都市は、島の中に孤立して作られた純粋な巨大金属工場であったと言える。
一方、明治期に日本最大の銅山となった栃木県の足尾銅山はどうだろうか。足尾は、古河市兵衛による開発以降、急速な近代化と大量生産を推し進めた。その結果、製錬所から排出される亜硫酸ガスによって周囲の山々の森林が枯死し、甚大な銅毒被害(足尾銅山鉱毒事件)を引き起こした。足尾においては、産業の発展と自然環境、そしてそこに暮らす人々の生活基盤が壊滅的な対立関係に陥ったのである。
これらに対し、阿仁のケースは対照的である。阿仁でも江戸時代から大規模な製錬が行われ、山林の伐採が進んだことは事実である。しかし、阿仁川の豊かな水量と、奥羽山脈の圧倒的な森林再生力、そして何より鉱山集落とマタギ集団に代表される先住的な山民のコミュニティが一定のバランスを保ち続けた。阿仁鉱山もまた明治期に古河鉱業の所有となったが、足尾のような全面的な生態系の破壊には至らず、山深くにマタギの集落と伝統文化が生き残った。
また、同じく狩猟伝承を持つ岐阜県の白川郷や奈良県の吉野、あるいは宮崎県の椎葉(しいば)などの山村と比較してみる。これらの地域も急峻な地形に囲まれ、独自の山岳文化や焼畑、狩猟の伝統を保持してきた。しかし、これらの地域には阿仁ほど大規模かつ継続的に日本列島全体の経済を動かすような莫大な鉱物資源の集積は存在しなかった。そのため、外部からの大規模な資本や技術の流入、あるいは人口の激しい流動という波に揉まれる機会は限定的であった。
阿仁の特異性は、「佐渡や足尾に匹敵する国家レベルの巨大産業拠点」であったと同時に、「椎葉や吉野のような、古来の奥山信仰と狩猟秩序を保つ山民社会」が、まったく同じ地理的枠組みの中に同居していた点にある。阿仁は単なる「秘境」ではなく、グローバルな交易網(長崎貿易)に繋がる産業の最前線でありながら、日本の原始的な山岳文化が最も純粋な形で保存された器でもあったのだ。
赤い鉄橋と異人館の残影
現在の阿仁を訪れると、かつての熱気と、それを呑み込んだ静寂が同居していることに気づかされる。北秋田市の南部に位置する阿仁地区の中心駅・阿仁合駅の周辺には、かつての鉱山町の残り香が漂う。
駅のすぐ近くには、明治15年(1882年)に建設された「阿仁異人館(旧阿仁鉱山外国人館)」が佇んでいる。煉瓦造りゴシック風の洋館で、国の重要文化財に指定されている。白塗りの窓枠と赤レンガの壁面は、かつてこの山奥にドイツ人技師たちが滞在し、最先端の鉱山技術を指揮していた時代の証人である。館内に足を踏み入れると、採掘に使われた道具類や当時の製錬図解、外国人技師たちが使用した家具などが展示されており、北東北の山中に突如として出現した異国情緒の名残を今に伝えている。
しかし、阿仁鉱山は昭和45年(1970年)に閉山した。鉱脈の枯渇と安価な海外産金属の輸入増加という、時代の波には逆らえなかった。かつて数万人を数えたとされる人口は激減し、採掘場や製錬所の多くは解体され、ブナの原生林へと戻りつつある。現在、阿仁の山々を歩けば、草木に埋もれた坑口の跡や、石垣の崩れかけた平坦地がひっそりと残されているのを目にするだけだ。
一方、マタギの文化は形を変えながらも現在に引き継がれている。かつて旅マタギの拠点であった打当集落には「マタギの湯」などの施設があり、隣接する「マタギ資料館」では、実際に使用された狩猟道具や熊槍、山立根本巻物の写し、熊胆の精製器具などが展示されている。阿仁マタギの精神的基盤であった根子集落には、独自の「根子番楽(ねっこばんがく)」という神楽風の伝統芸能が伝わり、重要無形民俗文化財として今も集落の人々によって受け継がれている。
集落を支える産業は、鉱業から林業や観光、そしてジビエ文化へと移行した。秋田内陸縦貫鉄道は、鷹ノ巣駅から角館駅までを結ぶローカル線として、阿仁の山々を貫いている。阿仁川の渓流をまたぐ赤い鉄橋を潜り抜ける一両編成の気動車は、いまや観光客や地元の乗客を運ぶ唯一の幹線であり、車窓からはかつて鉱夫やマタギたちが眺めたのと同じ、季節ごとに色を変える深い山並みが広がる。
過疎化と高齢化が進む現在の阿仁において、マタギの技術をそのまま日常の生業として成り立たせることは容易ではない。熊の捕獲頭数は厳しく制限され、害獣駆除としての役割が主となっている。しかし、山の神を敬い、自然から必要な分だけを授かるという彼らの哲学は、単なるノスタルジーとしてではなく、持続可能な自然との関わり方として見直されつつある。
長崎へ繋がった谷間の静寂
阿仁という土地の歴史を振り返るとき、私たちが抱きがちな「山奥の秘境」という固定観念は心地よく裏切られる。出羽の奥深く、雪に閉ざされた谷あいの地は、けっして文明から遮断された隔離された空間ではなかった。
そこは、地球の割れ目から湧き出た銅脈を追い求める国家の欲望と、江戸の幕府財政、果ては長崎から世界へと伸びる交易網が直接突き刺さっていた場所である。それと同時に、その圧倒的な開発の圧力を受け止めながら、山林の懐で生きるための規律と信仰を守り続けた狩人たちの生活圏でもあった。
地下深くへ掘り進む近代の「縦のベクトル」と、奥山から奥山へと尾根を渡り歩くマタギたちの「横のベクトル」。この二つの異なる方向性が、阿仁川という一本の流路に沿って奇跡的に擦り合い、互いの領域を侵すことなく並立していたことこそが、阿仁という地域の真の姿と言える。
鉱山の灯が消え、山々が再びかつての静寂を取り戻した今、阿仁は単なる過疎の町に見えるかもしれない。しかし、森の中に埋もれた赤レンガの廃墟や、今も神棚に山刀を祀る集落のたたずまいに触れるとき、そこがかつて日本列島の経済と文化の深部を力強く駆動させていた現場であったことを、動かしがたい事実として知ることになる。
山奥の静寂は、何もないから静かなのではない。あまりにも過密で重厚な歴史が駆け抜けたあとに残された、満ち足りた静けさなのだ。阿仁合の駅に降り立ち、阿仁川の水音を聞くとき、その深い水底に沈んでいるのは、かつて長崎まで運ばれていった銅の響きであり、雪の尾根に消えていったマタギたちの足音にほかならない。
旅と食が好き。どこにでもいます。