2026/5/28
久能山東照宮の1159段、家康が「神」となるために選んだ理由

久能山東照宮について詳しく教えて欲しい。階段をのぼるのが大変だった。
キュリオす
徳川家康が自らの終焉の地として駿河湾を見下ろす久能山を選んだ理由を、1159段の石段と権現造りの社殿から辿る。家康の神格化と徳川幕府の正統性確立という政治的意図、そして最初の聖地としての久能山の意義を探る。
久能山東照宮を訪れる者は、まずその圧倒的な階段に直面するだろう。駿河湾に面した海岸線から、標高216メートルの久能山山頂付近まで、1159段もの石段が続く。一歩一歩踏みしめるたびに息が上がり、振り返れば眼下に広がる海と町の景色の広大さに、この場所が持つ何か特別な意味を直感させる。なぜ徳川家康は、この見晴らしの良い、しかし人里離れた急峻な地に、自らの終焉の地を選び、そしてその後の祭祀の場としたのか。その問いは、日本の歴史における一つの大きな転換点と深く結びついている。
久能山東照宮の創建は、徳川家康の死と密接に関わる。元和2年(1616年)4月17日、75歳で駿府城(現在の静岡市)にて生涯を終えた家康は、生前、自らの遺体を久能山に埋葬し、一年後に日光へ移すよう遺言したとされている。この遺言を受け、その日のうちに久能山への埋葬が執り行われた。そして、二代将軍秀忠の命により、当代随一の建築家である中井正清が普請奉行を務め、わずか1年7ヶ月という短期間で社殿が造営されたのである。これが久能山東照宮の始まりだ。
家康の遺言には、単なる埋葬地以上の意図があったと考えられている。彼は自らを「東照大権現」として祀り、国家鎮護の神となることを望んだ。この神格化は、豊臣秀吉が豊国大明神として祀られた前例を踏まえつつ、さらに強固な徳川幕府の正統性を確立する狙いがあったとされる。久能山に最初に祀られた後、元和3年(1617年)に家康の神霊は日光へと分祀されたが、久能山はその最初の聖地として、重要な意味を持ち続けた。
久能山東照宮の社殿は、本殿、石の間、拝殿を連結させた「権現造り」の様式を採っている。これは、家康を祀るために考案された様式であり、後に日光東照宮をはじめとする全国の東照宮建築の規範となった。漆塗りの柱や壁に極彩色が施され、精緻な彫刻が随所にちりばめられたその姿は、当時の最高の技術と財力を結集したものであり、徳川家の絶対的な権威を内外に示す役割を担っていた。
この地の選定には、単なる景観の美しさ以上の戦略的な意図があった。久能山は駿河湾に突き出た要害の地であり、古くから久能城が置かれるなど、軍事的な重要性が認識されていた場所である。家康は晩年を駿府で過ごし、この地から天下を治める体制を固めた。駿河湾を望む高台に自らを祀ることで、かつては今川氏、武田氏、そして織田信長といった強敵と争ったこの地を、徳川の聖地へと転換させ、その支配の永続性を象徴しようとしたのではないか。海からの侵入を防ぐ自然の要塞であり、同時に海上交通の要衝を見下ろす立地は、家康の死後もなお、徳川の世が盤石であることを示す強力なメッセージであったと言える。
徳川家康を祀る東照宮と聞けば、多くの人が栃木県の日光東照宮を思い浮かべるだろう。しかし、家康の遺骸が最初に埋葬され、最初に神として祀られたのは久能山東照宮である。日光東照宮が現在の絢爛豪華な姿に改築されたのは、家康の没後20年近く経った寛永13年(1636年)、三代将軍家光の時代である。一方、久能山東照宮の社殿は、家康の死後すぐに二代将軍秀忠の命によって造営され、その後の大規模な改築をほとんど受けていない。
この違いは、それぞれの東照宮が持つ性格の違いを浮き彫りにする。日光東照宮が、全国の大名に普請を命じ、莫大な費用と労力をかけて築かれた「天下普請」の象徴であり、徳川幕府の絶大な権力と富を誇示するための装置であったのに対し、久能山東照宮は、家康の遺志を忠実に受け継ぎ、彼の神格化を速やかに実現するための最初の「聖地」としての役割を担っていた。華美な装飾は日光に譲るものの、久能山には家康の「始まりの地」としての、より直接的な重みが宿っていると言えるだろう。
現在、久能山東照宮の社殿群は国宝に指定されている。これは、江戸時代初期の権現造りの様式をほぼ完全に伝える貴重な遺構として評価されたためである。創建当時の姿を色濃く残す社殿の内部には、家康が愛用したとされる品々や、歴代将軍の武具などが展示された博物館も併設されている。
かつては石段を登るしかなかった参拝路も、現在では日本平からロープウェイが運行されており、より多くの人々が訪れることができるようになった。しかし、駿河湾沿いの国道から続く1159段の石段は今も健在であり、この道を登り切ることでしか得られない特別な感覚がある。それは、家康がこの地に自らの魂を留めようとした意図、そしてその意図を汲んでわずか1年7ヶ月で社殿を築き上げた人々の熱意が、物理的な高低差として今に伝えられているからではないだろうか。
久能山東照宮は、徳川家康が「神」となることを望んだ場所であり、その遺志を具体化した最初の聖地である。海を見下ろす急峻な山に築かれた社殿は、単なる墓所ではなく、新しい時代の幕開けを告げる徳川の権威を象徴するものであった。1159段の石段を登りきった先に広がる社殿と駿河湾の眺めは、家康がこの地を選んだ理由、そして彼がこの国に遺したものの大きさを、言葉ではなく、その場の空気そのものが語りかけてくるかのようだ。そこには、400年以上前の政治的な意図と、それを実現した人々の営みが、変わらぬ形で存在し続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
大相撲の本場所はいつから両国国技館?仮設から常設へ至る歴史
新しい記事は江戸時代の徳川家康と権現造りの社殿に触れており、この記事は江戸時代の大相撲の本場所と両国国技館の歴史を扱っているため、時代背景と建築様式という点で関連があります。
横綱誕生の背景とは?大関から最高位へ至る相撲道の変遷
新しい記事は徳川家康の神格化と権現造りの社殿に触れており、この記事は相撲における「横綱」という称号の確立と神事としての役割を扱っているため、神格化や権威の確立というテーマで関連があります。
ニニギノミコトの墓「可愛山陵」はなぜ新田神社裏にあるのか
新しい記事は徳川家康が「神」となるために久能山を選んだ理由を探っており、この記事はニニギノミコトの墓とされる場所の歴史的・文化的意味を解説しているため、神話や聖地という点で関連があります。