2026/6/4
大磯の歴史:古代から「政界の奥座敷」へ、そして現代へ

大磯の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
古代の豪族支配から東海道の宿場町、明治期には海水浴場開設を機に「政界の奥座敷」として発展した大磯の歴史を辿る。震災を経て変化した町の姿と、現代に息づく歴史の残像を紹介する。
大磯の歴史は古く、その名は天平10年(738年)の正倉院御物の中にも見られるという。古代には豪族である磯長(しなが)国造がこの地を支配し、後に相模国が形成されると余綾郡(よろぎぐん)に属した。町内には古墳時代後期の横穴墓が多数確認されており、陸と海の交流が盛んであった可能性が指摘されている。平安時代には相模国府が平塚から移転し、「余綾国府」が置かれたと推定されており、国府本郷の馬場台遺跡からは11世紀から12世紀頃の舶来陶磁器が散布していることから、この地が地方行政の中心地の一つであったと考えられる。
中世に入ると、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』には、文治4年(1188年)に奥州の藤原泰衡から朝廷へ納める品が「大磯駅」に到着したとの記述がある。この時代には歌人の西行法師が鴫立沢(しぎたつさわ)で歌を詠んだとされ、また『曽我物語』に登場する曽我五郎の恋人、虎御前の伝承もこの地に残る。
江戸時代に入ると、徳川家康による五街道整備の一環として、慶長6年(1601年)に大磯宿が東海道五十三次の8番目の宿場として成立した。宿場は江戸方から京都方へ向かって山王町、神明町、北本町、南本町、南茶屋町、南台町の六町で構成され、さらに海側には漁師町として北下町、南下町の二町があった。宿内には3つの本陣(小嶋、尾上、石井)が置かれ、大名や幕府の役人などが宿泊した。 大磯宿は海に面していたため、米や魚介類を積み出す湊としても機能し、海岸に打ち寄せられる砂利は江戸幕府への献上品として珍重されたという。しかし、交通量の増大は宿場の負担を増やし、天保7年(1836年)には飢饉による米価高騰や暴風雨を契機とした打ちこわし騒動、そして大火災に見舞われるなど、その運営は常に平坦ではなかった。
大磯が大きく変貌を遂げるのは明治時代である。その契機は、まず海水浴場の開設にあった。明治18年(1885年)、初代陸軍軍医総監を務めた松本順が、西洋医学における先端医療の一つとして「海水浴」を推奨し、照ヶ崎海岸に海水浴場を開設した。当時の海水浴は、現代のようなレジャー目的ではなく、潮の刺激と清涼な空気による疾病治癒や健康増進を目的とした「潮湯治」に近いものであった。
この海水浴場の開設が、大磯を新たな保養地として位置づける第一歩となった。さらに明治20年(1887年)には、松本順が当時の内閣総理大臣・伊藤博文に働きかけた結果、東海道線の大磯駅が開業する。当初、平塚から国府津までの間に駅は不要という計画もあった中で、この駅の設置は画期的な出来事であった。鉄道によるアクセスが飛躍的に向上したことで、海水浴客は増加し、大磯は全国にその名を知られるようになる。
明治20年代以降、政財界の重鎮たちが大磯に別荘を構え始めた。特に、伊藤博文、山縣有朋、大隈重信、陸奥宗光といった明治政府の要人たちが次々とこの地に居を移し、大磯は「政界の奥座敷」と呼ばれるようになった。8人もの内閣総理大臣経験者が大磯に邸宅を持っていたという事実は、その政治的な重要性を示している。 彼らは温暖な気候と豊かな自然環境を療養や保養の場として評価し、また別荘地で政治的な交流を行うこともあった。伊藤博文は明治30年(1897年)に小田原の別荘「滄浪閣」を移築し本邸とし、本籍も大磯に移している。
また、この時期に「湘南」という呼称が広まるきっかけも大磯にある。江戸時代初期の寛文4年(1664年)、小田原の俳人・崇雪(そうせつ)が、大磯の鴫立沢に西行法師の歌を偲んで草庵を結び、標石の裏に中国湖南省の景勝地になぞらえて「著盡湘南清絶地(しょうなんのせいぜつなるちをつくす)」と刻んだのがその起源とされる。 崇雪が見た「湘南」の風景は、松の木々の合間から見える海岸であり、現在の湘南のイメージとはやや異なるものの、大磯がその発祥の地であることは、その後の地域のブランド形成に大きな影響を与えた。
明治時代、日本各地には新たな交通網の発達や西洋文化の流入を背景に、避暑地や保養地が次々と生まれた。軽井沢や箱根、熱海、葉山などがその代表例である。これらの地はそれぞれ異なる特性を持ちながら、上流階級の生活様式に深く組み込まれていった。大磯もその一つであるが、他の避暑地と比較すると、その成り立ちや集まった人々に独特の傾向が見られる。
例えば、軽井沢が宣教師によって拓かれ、国際的な避暑地として発展したのに対し、大磯は陸軍軍医監の松本順による海水浴場開設という「医療」を起点にしている点が特徴的である。当初の海水浴が潮湯治という「治療行為」であったことは、純粋なリゾート開発とは異なる、実用的な側面をこの地に与えた。
また、葉山が皇族や一部の富豪の別荘地として発展したのに対し、大磯は「政界の奥座敷」と称されるほど、多くの政治家、特に内閣総理大臣経験者が集住した。 これは単なる保養に留まらず、別荘地での政治的交流や情報交換が日常的に行われていたことを意味する。温暖な気候と東京からの適度な距離、そして静謐な環境が、彼らにとって理想的な「もう一つの執務室」の役割を果たしたのかもしれない。地理的には、大磯と葉山は共に北側が山で避寒に適し、砂浜と岩礁が入り混じる複雑な海岸線を持つ点で共通する。しかし、集まった人物層の違いが、それぞれの地の個性を際立たせたと言えるだろう。
さらに、大磯の別荘地としての発展は、関東大震災によって一時的な転換期を迎える。大正12年(1923年)の震災では多くの別荘が倒壊や大きな被害を受け、山手の広大な別荘のほとんどが取り壊された。これは、東京に本邸を持つ所有者たちが、まず本邸の復旧を優先したためである。震災後、大磯の別荘数は一時的に激減し、その後は比較的小規模な別荘や住宅が分譲されるようになり、別荘地の性格も変化していった。 この震災による変容は、他の多くの避暑地にも共通するが、大磯においては、その後の住宅地としての性格形成に大きな影響を与えたと考えられる。
現代の大磯を歩くと、その歴史の多層性が静かに息づいていることに気づく。JR大磯駅を降りて海岸方面へ向かうと、かつての東海道松並木が今も残り、旅人たちの往来を偲ばせる。 海岸に隣接する照ヶ崎海岸は、日本で最初に開設された海水浴場としての歴史を刻み、夏の賑わいを見せる。 ここでは、天然記念物のアオバトが海水を飲みに飛来する姿も観察でき、豊かな自然が町と共存している。
明治時代の「政界の奥座敷」としての面影は、現在「明治記念大磯邸園」として整備され、旧伊藤博文邸、旧大隈重信別邸、旧陸奥宗光別邸跡などが公開されている。 旧吉田茂邸も県立大磯城山公園内に復元され、その広大な敷地は市民の憩いの場となっている。 また、文豪・島崎藤村が晩年を過ごした旧宅も保存され、彼の文学世界に触れることができる。
これらの歴史的建造物群は、かつての華やかな時代を現代に伝える貴重な遺産である。一方で、大磯は現在、都心へのアクセスも良好でありながら、観光地ほどの喧騒がない落ち着いた住宅地として評価されている。 古い別荘が取り壊された跡地には新たな住宅が建ち、かつての名士の邸宅が公園や資料館として生まれ変わるなど、時代の変化とともに町の姿は更新され続けている。大磯港には「OISO CONNECT」のような複合施設が誕生し、地元の新鮮な魚介を提供する「めしや大磯港」や「湘南しらす ふじ丸直売所」が賑わいを見せる。毎月開催される「大磯市」は、地元住民と観光客が交流する場となり、新たな町の活気を生み出している。
大磯の歴史を辿ることで見えてくるのは、この地が常に外部からの新しい価値観や文化を受け入れ、独自の姿を形成してきたという事実である。古代の国府、東海道の宿場、そして明治の避暑地という異なる役割を担いながらも、その根底には相模湾と高麗山に囲まれた恵まれた自然環境があった。
特に明治期における「海水浴」という西洋医学の導入が、この町を保養地として位置づけ、その後の政財界人の集住を促した点は興味深い。単なる景勝地というだけでなく、健康増進という実利的な目的が、結果として「政界の奥座敷」という文化的・政治的な重層性をもたらしたのである。これは、他の多くの避暑地が純粋なレジャーや社交の場として発展したのとは異なる、大磯固有の発展経路を示している。
現代の大磯は、過去の輝かしい歴史を単に保存するだけでなく、それを生活の中に溶け込ませながら、新たな魅力を創造している。古い別荘の再生、歴史的景観の保全、そして港を拠点とした地域活性化の試みは、大磯がその多層的な歴史を未来へと繋げようとする姿勢の表れだろう。この町は、時代ごとの人々の選択と、その基盤となった自然環境との対話の記録を、今も静かに伝え続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。