わずか5キロの距離に同じ一宮が二つあるのはなぜか、棚倉町の八槻都々古別神社と馬場都々古別神社の間で繰り広げられた格付けの競合はどういったものだったのか

久慈川の谷間に残る二つの一宮
JR水郡線の近津(ちかつ)駅から南へ歩くと、久慈川沿いの静かな集落の中に八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)の杜が現れる。陸奥国一宮を称する古社であり、延喜式神名帳にも名を連ねる名神大社だ。だが、この神社の歴史を紐解こうとすると、すぐにひとつの不可解な事実に突き当たる。ここからわずか5キロメートルほど北上した棚倉町の馬場地区にも、まったく同じ「都々古別神社」という名を持つ陸奥国一宮が存在することだ。二つの神社は同じ味耜高彦根命と日本武尊を祀り、ともに名神大社の後継を主張し、中世から近世にかけて激しい格付けの競合を繰り広げてきた。行政区分でも同じ町内、徒歩でも一時間あまりの距離に、なぜ同じ神を祀る最高格の神社が二つも並び立っているのか。これは単なる本家争いなのだろうか。
箭の着いた地と修験の道
由緒を追うと、二つの社はそれぞれ異なる創建説話を語り継いでいることがわかる。八槻都々古別神社に伝わる縁起によれば、その始まりは第十二代景行天皇の時代、日本武尊の東征にまで遡る。東夷を討つべく八溝山に向かった日本武尊は、立ち塞がる凄まじい勢力に苦戦した。そこで天地の神々に祈りを捧げたところ、味耜高彦根命が現れて加護を与えたとされる。日本武尊は建鉾山(現在の福島県白河市表郷三森)に鉾を立て、東に向けて矢を放った。その矢が落ち着いた地が「箭津幾(やつき)」であり、そこに社殿を建てて味耜高彦根命を祀ったのが神社の起こりとされる。
『陸奥国風土記』の逸文にも似た伝承が残る。日本武尊が放った八本の矢がすべて槻(つき)の木になったことから「八槻」の名が生まれたという。神亀3年(726年)にこの地名が正式に定められたとされるが、ここにはヤマト王権の勢力が東北の在地勢力を服属させていった歴史が、武尊の東征伝承という形に仮託されて残されている。
文献上の初見は、平安初期の『続日本後紀』承和8年(841年)条である。勲十等の「都々古和気神」に従五位下の神階が授けられた記録が残り、延長5年(927年)の『延喜式』神名帳には陸奥国白河郡「都々古和気神社 名神大」として記された。古代の南陸奥において、この神が極めて重要な位置にあったことは疑いようがない。
だが、中世に入ると神社のあり方は大きな変容を遂げる。山岳信仰と結合して修験道の色を濃くした神社は、北と南で別々の修験勢力によって管理されるようになった。馬場社は不動院を別当とする高松家が管掌し、高野郡の「北郷」を支配した。一方、八槻社は大善院を別当とする八槻家が管掌し、「南郷」の十八郷を掌握した。二つの都々古別神社は、それぞれが領主的な影響力を持つ修験の拠点として地域を分割支配し、競い合う関係へと発展していったのだ。
中世末期から近世にかけて、この地域を治めた佐竹氏や白河結城氏、さらには水戸徳川家などの武家権力も、両社に対して寄進を行った。江戸時代の正徳元年(1711年)には火災によって八槻社の社殿群が焼失するが、享保年間(1716年〜1736年)には再建を果たしている。寛政2年(1790年)の資料によれば、当時の境内には本殿や拝殿のほか、神輿殿、鐘楼、観音堂などが立ち並び、神仏習合の濃密な伽藍が形成されていた。
しかし明治維新後の近代社格制度の制定において、二つの社の対立は再び表面化する。明治6年(1873年)、政府は馬場都々古別神社を国幣中社に指定したものの、八槻社を「郷社」と判定した。これに激怒した八槻社側は、自社こそが正しい式内名神大社であり一宮であると強く抗議を重ねた。十数年にわたる論争の末、明治18年(1885年)、太政官は八槻社も国幣中社に昇格させ、両社をまったく同格の陸奥国一宮として認めるという解決策をとったのである。
籾を撒き、矢を放ち、街道を統べる
なぜ二つの社はこれほどまでに地域に根を張り、容易に統合されなかったのか。その答えを探る鍵は、神社が果たしてきた「実用的な機能」にある。八槻都々古別神社は、単に格付けを誇る祈りの場ではなく、南陸奥の農民や旅人の生活に直結した不可欠な仕組みとして存在していた。
主祭神である味耜高彦根命は、「味耜(あじすき)」の名が示す通り、本来は農耕具の鋤(すき)を神格化した農業神・雷神である。八槻神社には、この農業神としての強い性格を物語る独自の神事と風習が現代まで伝えられている。
その代表例が、国の重要無形民俗文化財に指定されている「御田植祭(おたうえさい)」だ。旧暦1月6日に行われるこの神事は、拝殿を舞殿に見立て、社家(神職の家系)の人々が楽人となって一年の稲作工程を模擬的に演じるものである。餅で作った鍬や、松の小枝で表した早苗を用い、堀をさらう場面での「ガリ、ガリ、ガリ」や、畔塗りの「ガンブリベタリ、ドロリベッタリ」といった独特の擬音口上を交えながら、狂言風にコミカルに演じられる。最後には「中飯(ちゅうはん)」と呼ばれる切り餅が境内に蒔かれる。室町時代以前の形態を残すとされるこの芸能は、神前で豊作を前祝いして引き寄せる予祝(よしゅく)の儀礼であり、農民にとって一年の作業を確認する教育的役割も兼ねていた。
もうひとつ見逃せないのが、12月の「霜月大祭(しもつきたいさい)」、別名「八槻市(やつきいち)」における種籾(たねもみ)交換の風習である。かつて参詣者たちは、収穫した稲籾を「ツツコ(ツトコ)」と呼ばれる藁苞(わらづと)に詰めて神社に奉納した。そして、他人が納めたツツコをかわりに持ち帰り、翌年の種籾として蒔いたという。翌年、豊かな収穫を得た農家は、授かったツツコを二倍にして神社へお返しした。社名の「ツツコ」の由来とも囁かれるこの風習は、農家が広域で優れた種籾を交換し、品種改良や病害虫リスクの分散を図るための極めて合理的なネットワークであった。会津や郡山、茨城県の大子あたりから農民が八槻に押し寄せたのは、この実利があったからだ。
さらに重要なのが、地理と交通の要素である。八槻都々古別神社は、太平洋側から久慈川沿いに北上して陸奥の内陸へ至る重要な街道(現在の国道118号沿い)に位置している。この久慈川ルートには、棚倉町馬場の「上宮(上の宮)」、八槻の「中宮(中の宮)」、そして茨城県久慈郡大子町下野宮の近津神社「下宮(下の宮)」という、いわゆる「近津三社(ちかつさんしゃ)」が直線状に並んでいる。源義家が奥州征伐の際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝えられる通り、この三社は陸奥と常陸の国境地帯を結ぶ官道や交易路の守護神として機能してきた。
八槻社の別当を務めた大善院八槻家は、単なる神職ではなく修験者として「小先役(こさきやく)」の地位を持ち、熊野参詣の先達として広大な地域修験ネットワークを統括していた。現存する県指定有形文化財の「八槻家住宅」を見ても、書院造の座敷棟と主屋が一体となった独特の構造をしており、修験僧や参詣者をもてなす接客空間としての機能を持っていたことがわかる。つまり八槻社は、農業技術の交換拠点であり、物流と街道の監視所であり、修験道を通じた広域ネットワークの司令塔でもあったのだ。
一つの名神大社を分け合う構造
一つの延喜式内名神大社、あるいは一宮という最高位の称号を巡って、わずか5キロメートルしか離れていない二つの神社が互いに譲らず、最終的に国家によって「双方ともに同格の一宮」と認められた事例は、全国の神社史を見渡しても極めて珍しい。
たとえば、同じ陸奥国の一宮として有名な宮城県塩竈市の鹽竈神社や、出雲国一宮の出雲大社(並びに熊野大社)などの場合、勢力範囲や役割の分担は明確であり、国家的な社格制度の中でも一宮としての確固たる位置付けが与えられてきた。山城国の上賀茂神社・下鴨神社のように、上社と下社がペアとして機能しながら一体として一宮を構成する例もある。
しかし、棚倉の八槻都々古別神社と馬場都々古別神社は、上宮・中宮という「近津三社」の緩やかな枠組みを持ちながらも、歴史的にはまったく独立した別の神社として存在してきた。両社に共通する神事はひとつもなく、それぞれ独自に宮司を置き、別当寺を持ち(馬場は不動院高松家、八槻は大善院八槻家)、互いに「自社こそが延喜式に記載された本物であり、古来の一宮である」と主張し続けてきたのだ。
この分立の背景には、南陸奥という土地の政治的・地理的な特質がある。棚倉周辺は、常陸(現在の茨城県)から阿武隈川流域や会津へ抜ける交通の要衝であり、常に南北の境界地域であった。南北朝時代から戦国時代にかけて、この地は伊達氏、結城氏、佐竹氏といった武家勢力が複雑に交錯する前線となった。政治的権力が一元化しづらい環境の中で、北郷を掌握する馬場社と、南郷を掌握する八槻社は、それぞれの地域の領主や農民のアイデンティティと固く結びついた。
さらに寛永2年(1625年)、棚倉藩主丹羽長重が棚倉城を築城する際、もともと城の地にあった馬場社を現在地に移転させたことも混乱に拍車をかけた。遷座によって馬場社の位置が変わったことで、古くからの土地の記憶と社格の関係がいっそう複雑化した。
一宮という格付けは、中央の朝廷や幕府、明治新政府が「地域を包括するひとつの頂点」として与えようとした枠組みである。しかし、現地の生活者や地域修験のネットワークにおいては、北郷の拠点と南郷の拠点はどちらも欠かすことのできない「実利の場」であった。中央が与える制度上の「唯一無二の称号」と、現場が求める「二つの領域の対等な機能」が衝突した結果が、明治期に誕生した「双方同格の国幣中社」という妥協の産物だったのである。
随身門の木鼻と旧暦一月の御田植
現在の八槻都々古別神社を訪れると、明治の神仏分離によって仏堂や鐘楼が取り払われたものの、江戸時代中期の見事な建築美を今に留めている境内を目にすることができる。
正徳元年(1711年)の火災後、享保年間(1716年〜1736年)に再建された本殿は、基本的に三間社流造(さんげんしゃながれづくり)を基調としながらも、奥行きが通例より深く取られた独創的な建築である。華やかな彫刻が随所に施され、江戸中期の建築様式を示すものとして福島県の重要文化財に指定されている。
本殿の手前に立つ随身門(ずいしんもん)も味わい深い。八脚門の形式を踏襲しつつ、頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)には獅子や象だけでなく、虎、獏、さらには麒麟といった多彩な霊獣が立体的に彫り込まれている。さらに蟇股(かえるまた)に目を凝らせば、蛸や鯛、瓜、竹、琵琶、波濤など、神聖な場でありながらどこかユーモラスで生活感あふれる意匠がびっしりと詰め込まれている。修験と庶民信仰が交錯した時代の熱量が、そのまま木彫の中に凝固しているかのようだ。
隣接する八槻家住宅や、少し離れた場所に建つ旧別当の表門は、かつてここで修験者が多くの参詣者を迎え入れていた賑わいを静かに伝えている。JR水郡線の近津駅から徒歩10分ほどの距離にある神社周辺は、現代では閑静な農村風景が広がっており、かつて門前町として栄えた街道筋の面影は落ち着いた佇まいを見せている。
毎年旧暦1月6日になると、静かな拝殿には再び独自の熱気が戻る。国の重要無形民俗文化財である「御田植祭」が執り行われるからだ。社家に伝わる人々が伝統的な装束を身に纏い、「ガリガリ」「ガンブリベタリ」と擬音を響かせながら田植えの所作を舞う。そして神事の終わりには、投げ出される「中飯」の切り餅を求め、境内に集まった人々が手を伸ばす。ツツコによる種籾交換の風習は現代の農政や品種改良の波の中で姿を消したものの、拝殿で演じられる農の祈りは、今も途切れることなく地域の人々によって継承されている。
境界の神が果たした実利の軌跡
八槻都々古別神社をめぐる歴史を辿って見えてくるのは、「陸奥国一宮」という権威の称号が、実は現地の非常に生々しい生活の仕組みの上に重なっていたという事実である。
古代のヤマト王権による東征の境界線であり、中世の修験道における南郷・北郷の領域区分であり、久慈川に沿って関東と東北を結ぶ交通の要衝。この地理的条件があったからこそ、神話の時代から続く「矢が届いた地」という信仰は、単なる伝承にとどまらず、農民同士が種籾を交換し、修験者が旅人を導く実用的な広場として機能し続けた。
馬場社と八槻社がそれぞれ譲らず、明治の国幣中社昇格論争を経て二つの同格な一宮として並立したという経緯は、中央から見れば奇妙な「重複」や「不統一」に見えたかもしれない。しかし、その二重性こそが、南陸奥という境界地帯で南北双方のコミュニティの要請に応え続けてきた歴史の厚みそのものであった。
旧暦1月6日の御田植祭で投げられる切り餅の白さや、享保年間に作られた随身門の木鼻に刻まれた蛸や鯛の曲線を眺めていると、この神社が保持してきたものの強さが伝わってくる。制度や格付けの枠組みが変わろうとも、久慈川の流れに沿って土地を耕し、街道を行き交う人々の手元に、神社の存在理由はどこまでも具体的に開かれていたのである。
旅と食が好き。どこにでもいます。