陸奥国一宮がわずか数キロの距離に二つ並び立つようになったのはどうしてだったのか

ひとつの町に二つ存在する一宮
福島県東白川郡棚倉町を訪れると、地図の上で不思議な重複に突き当たる。久慈川が形作る盆地の中に、「陸奥国一宮」を掲げる神社がわずか数キロメートルの距離を隔てて二つ並んでいるのだ。
ひとつは棚倉市街の北寄りに鎮座する馬場都々古別神社(ばばつつこわけじんじゃ)、もうひとつは南側の八槻集落に位置する八槻都々古別神社(やつきつつこわけじんじゃ)である。
古代の律令制のもとで編纂された『延喜式』神名帳には、陸奥国白河郡の項目に「都々古和気神社 名神大」と一社のみが記載されている。さらに中世以降、諸国の一宮制が定着していく過程においても、原則として一国に指定される一宮は一社であった。
しかし棚倉の地では、馬場と八槻の双方が自社こそが『延喜式』に記された名神大社であり、陸奥国の一宮であると主張してきた。どちらかが本社でどちらかが分社という単純な上下関係でもない。両社とも味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)を共通の祭神として祀り、古代からの由緒をそれぞれに主張している。
なぜ一国にひとつであるはずの一宮が、このような狭いエリアの中に二つ並び立つことになったのか。どちらか一方が偽称したという単純な排他関係ではなく、双方が国家や領主から正統な社格を認められ続けた理由は、この土地が置かれた地勢と歴史の中に隠されている。
山頂の磐座から城下の境内へ
二つの都々古別神社のルーツを辿ると、棚倉盆地から西へ離れた山中にたどり着く。白河市表郷に位置する標高約520メートルの建鉾山(たてほこやま:都々古山)である。
建鉾山の山頂には「立鉾石」と呼ばれる巨大な磐座が露出し、5世紀代の東日本でも屈指の古代祭祀遺跡として知られている。伝承によれば、景行天皇の時代に日本武尊が東征の折、この山頂に鉾を立て、地主神である味耜高彦根命を祀ったのが都々古別神社の創祀とされる。
味耜高彦根命は農耕の神であり、山頂の磐座を対象とした原始的な信仰集団が、やがて麓の棚倉盆地を開拓していく過程で、平野部へと祀りの場を降ろしていったと考えられている。
9世紀に入ると、この地域は王権の東西交通において極めて重要な意味を持つようになる。弘仁2年(811年)、陸奥国と常陸国を結ぶ新しい官道が整備され、久慈川沿いの水運と陸路が交差する交通の要衝となった。『続日本後紀』承和8年(841年)正月条には「都々古和気神」に従五位下の神階と勲十等が授けられた旨が記されており、これが国史における初見である。そして延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳において「名神大社」の格式を得るに至る。
中世へ入ると、神社は山岳信仰と結びついて修験道化していった。この時期に、都々古別神社のあり方を大きく変える地域構造が生じる。棚倉地域が南北に二分され、北側の高野郡北郷を馬場社の別当寺である不動院(高松家)が掌握し、南側の南郷を八槻社の別当寺である大善院(八槻家)が掌握したのである。一つの信仰基盤から派生した二つの修験拠点が、それぞれ独自の領域支配と結びついて勢力を張り合う形が成立した。
さらに近世の初期、馬場社に決定的な移転が訪れる。寛永2年(1625年)、棚倉藩主となった丹羽長重が棚倉城(亀ヶ城)を築城する際、かつて馬場社が鎮座していた土地(現在の棚倉城跡)が城郭の敷地として選ばれたのである。馬場社は城郭構築にともない、現在地の馬場へと社殿ごと解体移築された。この時、別当であった高松家は還俗して棚倉藩の家老職へと組み込まれていった。
境界の支配者と二つの別当
なぜ二つの都々古別神社は、統合されることも淘汰されることもなく並立し得たのだろうか。その背景には、棚倉という土地が持つ「境界性」と、中世修験が果たした地域統治の仕組みがある。
棚倉盆地は、関東平野から北上して陸奥国へ入る最初の入り口にあたる。古代から近世に至るまで、常陸(茨城県)と陸奥(福島県)の国境をなす交通の要衝であり、王権や領主にとって防衛と物流の両面で絶対に手放せない地点であった。
このような境界空間において、宗教勢力は単なる祈りの場ではなく、実質的な地域警察や行政の代行者としての役割を担っていた。北郷を治める高松家と南郷を治める八槻家は、それぞれの領域内で山伏や民衆を組織化し、軍事力や情報網を保持していた。
歴代の領主たちにとって、南北の境界領域を安定して支配するためには、どちらか一方の勢力だけを優遇するわけにはいかなかったのである。白河結城氏、佐竹氏、さらには豊臣秀吉や徳川家康に至るまで、権力者たちは馬場・八槻の両社に対してそれぞれに社領寄進や知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)を発給した。秀吉からの直筆文書や石田三成からの朱印状が双方の家に残されていることは、中央の権力者が境界の二大修験勢力を均等に承認していた証左である。
この平衡関係は、明治維新後の国家再編によって一度大きく揺らぐことになる。明治6年(1873年)、近代社格制度の制定に際して、政府は馬場都々古別神社のみを「式内名神大社・陸奥国一宮」と比定し、国幣中社に列した。一方の八槻社は単なる「郷社」と位置づけられたのである。
これに対し、八槻社側と地元南郷の住民は猛烈な抗議運動を展開した。古文書や祭祀の歴史を挙げ、八槻こそが正統な式内社であり一宮であると訴え出たのである。十数年にわたる議論と調査の末、明治政府は自らの決定を修正せざるを得なくなった。明治18年(1885年)、八槻都々古別神社も国幣中社へと昇格し、両社がまったくの同格として「陸奥国一宮」を称する異例の並立構造が制度的にも確定した。
政治権力が変わっても、地域に張り巡らされた二重の聖地性は打ち消すことができなかったのだと言える。
式内社論争と他国の一宮並立
一国の中に一宮が複数存在する例は、全国を探すと馬場・八槻の都々古別神社に限られるわけではない。しかし、他の地域における並立構造と比較すると、棚倉の二社が持つ独自の性質が浮かび上がってくる。
たとえば安房国(千葉県)では、安房神社と洲崎神社の2社が一宮を主張してきた。出羽国(山形県・秋田県)では鳥海山大物忌神社と出羽神社が並び立ち、武蔵国(東京都・埼玉県)でも氷川神社と小野神社の間で一宮の伝統が交錯する。
これらの並立事例を分析すると、大きく二つのパターンに分類できる。
ひとつは「山宮と里宮」という垂直的な機能分担である。山頂の厳しい環境にある社殿に対し、山麓や平野部に祈祷や参拝のための里宮を置き、信仰のネットワークを一体として運用する形式だ。
もうひとつは、行政区画の拡大や再編にともなう水平的移転である。出羽国のように広大な国令が敷かれた結果、地域ごとに最も勢力のある神社がそれぞれ一宮を称するようになったケースや、武蔵国のように政治の中心地が府中から大宮方面へ移る過程で首位の神社が実質的に交替していったケースがこれにあたる。
しかし、棚倉の馬場都々古別神社と八槻都々古別神社の関係は、このどちらのパターンにも当てはまらない。
まず、馬場と八槻は山宮と里宮の関係ではない。両社とも久慈川の作る平地盆地の中に位置し、標高差もほとんどない。山宮としての役割を果たしていたのは、離れた場所にある建鉾山や八溝山であり、馬場と八槻はどちらも平野部における本拠地として機能していた。
また、行政区画の変動による交替でもない。両社は白河郡という同じ郡内、それも歩いて移動できるほど目と鼻の先の距離に同時に存在し続け、南北の地域領域(北郷・南郷)を分け合う形で拮抗してきた。
さらに特筆すべきは、世俗権力による聖地の移動という要素である。馬場社は17世紀に棚倉城の建設のために平地の中で場所を動かされた。通常、神社が城下町の都合で移転させられると、元の土地が持つ記憶や聖地性は減衰しやすい。だが馬場社の場合、築城主である丹羽長重によって桃山様式の本殿がそのまま移築され、城の北方を守る守護神としての新しい性格を与えられた。
つまり、自然発生的な宗教空間の形成だけでなく、領地を統治するための武家政治の都合が、一宮のあり方を能動的に再編成していったのである。
馬場の静寂と八槻の御田植
現在の棚倉町を訪れると、二つの都々古別神社はそれぞれに異なる時間をまとって佇んでいる。
馬場都々古別神社は、棚倉城跡(亀ヶ城公園)から北へ進んだ静かな住宅街の奥に位置している。鳥居をくぐり参道を進むと、杉の古木に囲まれた境内の奥に社殿が見える。
拝殿の奥に立つ本殿は、文禄3年(1594年)に佐竹義宣によって寄進され、後に棚倉城跡から移築されたものとされる。三間社流造の極めて簡素な構造で、桃山時代の建築意匠を今に伝える貴重な遺構として国の重要文化財に指定されている。過度な装飾を排した木組みの線は美しく、派手さはないが、武家の庇護を受けてきた厳格な雰囲気を漂わせている。
一方、JR水郡線の近津駅近く、久慈川と近津川の合流点付近に鎮座するのが八槻都々古別神社である。
八槻社の境内は砂利がきれいに敷き詰められ、開放的な明るさがある。ここには中世以来の農耕儀礼と民俗行事が鮮やかに残されている。旧暦1月6日(現在は2月頃)に行われる「御田植祭」は、国の重要無形民俗文化財に指定されている神事だ。
拝殿を舞台に見立て、田打ちから田植えに至る稲作の一連の工程を、ユーモラスなセリフと狂言風の所作で演じていく。神事の最後には「中飯(ちゅうはん)」と呼ばれる切り餅が参拝客へ蒔かれ、豊作を祈念する。室町時代以前の形態を留めるとされるこの田植舞は、都々古別神がもともと持っていた農耕神としての本質を今に伝えるものである。
また、12月の「霜月大祭」では、かつて「ツツコ」と呼ばれる藁苞(わらづと)に稲籾を入れて持ち寄り、種籾の交換を行う風習が存在した。「ツツコ」という言葉自体が神社の名前の語源説の一つにも挙げられており、地域の人々にとってこの神社が農作業の暦そのものであったことを物語っている。
静寂の中に桃山建築の姿を残す馬場と、人々の暮らしや農耕の記憶を神事として紡ぎ続ける八槻。二つの境内は、同じ歴史から枝分かれした二つの時間を静かに刻んでいる。
武家政治と農耕信仰が残した二重の足跡
私たちが「一宮」という言葉を聞くとき、それは国家や地域の中で頂点に立つ、揺るぎない単一の聖域を想像しがちだ。制度としての厳格さや、序列の絶対性をそこに読み取ろうとする。
しかし、棚倉の地に立つ二つの都々古別神社が示しているのは、よりしなやかで複雑な歴史の現実である。
東国と奥州を分ける境界の地において、人々は古代の磐座に祈りを捧げ、久慈川の流域に田畑を拓いた。その信仰の広がりを基盤として成立した修験勢力は、南北の領域を分け合いながら地域社会の秩序を支えた。中世から近世にかけての武家権力は、その二つの力をそれぞれ認め、取り込むことで境界の統治を安定させようとした。
馬場社が城郭の建設に伴って解体移築され、城下の北を守る防衛線へと組み替えられたことも、八槻社が地域住民の運動によって近代国家の社格の中で一宮の地位を取り戻したことも、すべては権力と土地と信仰が交錯した結果である。
一宮が二つ存在するのではない。陸奥の玄関口という特定の空間が要請した政治的・社会的な仕組みが、結果として二つの都々古別神社という形をとって現代に残ったのだ。
本殿の簡素な木組を見上げ、あるいは拝殿で舞われる田植えの所作を眺めるとき、そこに見えるのは単なる古い神社の姿ではない。古代の磐座に始まり、修験の南北分治を経て、近世の城下町構築に至るまで、人間が土地の境界に境界としての意味を与え続けてきた、具体的な歴史の足跡そのものである。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 都々古別神社 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 都都古別神社 都々古別神社 (八槻)genbu.net
- 八槻都々古別神社 | 車椅子で行く神社仏閣・パワースポットの旅wheelchair.travelogues.jp
- 【福島・棚倉町】同じ「陸奥国一の宮」なのに、なぜこんなに違う?二つの都々古別神社を巡る旅|いなばの白うさぎ@歳の差夫婦/食/グルメ/旅/うさぎ/珍スポ/珍味/神社巡りnote.com
- 平安時代の書物に登場 都々古別神社 Tsutsukowake Shrine | 普段着のごちそうgochiso.29warai.com
- 馬場都々古別神社(陸奥一宮) | 棚倉町活性化・観光物産協会 | 棚倉町公式ホームページtown.tanagura.fukushima.jp
- 馬場都々古別神社 | 棚倉町 | 県南 | ふくしまデータベースfukushima-db.com
- 奥州一宮「八槻都々古別神社」 | 福島県南観光公式ホームページshirakawa-area-navi.jp