2026/6/27
なぜ彦根城は「天下普請」で築かれ、廃城の危機を免れたのか

滋賀の彦根の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
滋賀県彦根市の歴史を、関ヶ原の戦い後の徳川幕府による彦根城築城と、明治天皇の勅命による保存という二つの転機から辿る。交通の要衝としての地理的優位性と井伊家の役割、そして地域住民の保存運動にも触れる。
湖面に映る城郭の問い
琵琶湖の東岸に位置する彦根の地は、訪れる者をまず城郭の威容で迎える。国宝彦根城の天守が金亀山にそびえ、その白い壁と黒い屋根が湖面に影を落とす様は、静謐な美しさを湛えている。しかし、この優美な風景の奥には、「なぜ、この場所にこれほどまでに堅固な、そして歴史を生き抜いた城が築かれ、その城を中心に都市が栄えたのか」という問いが横たわる。滋賀県内にはかつて多くの城が存在したが、明治の廃城令を免れ、天守を現存させる城は彦根城だけである。その歴史の節目ごとに、彦根が果たした役割とは何だったのか。その答えを探る旅は、関ヶ原の戦い後の日本列島の政治情勢、そして井伊家の盤石な統治へと遡ることになる。
佐和山から金亀山へ、井伊家の転機
彦根の歴史は、関ヶ原の戦い後の慶長五年(1600年)に大きく動き出す。徳川家康の天下統一を決定づけたこの戦いで、東軍の先鋒として活躍したのが、「徳川四天王」の一人である井伊直政であった。直政は戦功により、近江国佐和山城主であった石田三成の旧領を含む十八万石を与えられ、佐和山城に入城する。しかし、直政は、かつて三成が居城とした佐和山城を「賊将の城」として嫌い、琵琶湖に近い磯山への新城建設を計画した。だが、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が癒えず、慶長七年(1602年)に四十二歳の若さでこの世を去ってしまう。
直政の遺志は、幼少であった嫡男の直継(後の直勝)と、その家老である木俣守勝らに引き継がれた。そして慶長八年(1603年)、徳川家康の命により、琵琶湖に面した彦根山、別名「金亀山」に新たな城の築城が開始される。これは、西国大名や豊臣家を監視するための軍事拠点として、徳川幕府が主導する「天下普請」として進められたものであった。築城には、廃城となった佐和山城の石垣や建材、さらには大津城や長浜城の部材、そして周辺の寺院の用材までもが転用されたという。
慶長十一年(1606年)には天守が完成し、直継が入城した。しかし、病弱であった直継は大坂の陣に参陣できず、代わって弟の直孝が井伊家を率いて出陣し、手柄を立てたことで家督を継ぐことになる。彦根城の城郭全体が完成したのは元和八年(1622年)であり、実に二十年の歳月を要した大事業であった。この間、井伊直孝は江戸幕府の二代将軍徳川秀忠から四代将軍徳川家綱に至るまで幕政に貢献し、所領は三十万石にまで拡大する。これは譜代大名としては異例のことであり、彦根藩は幕府から預かる蔵米五万俵を加えて「三十五万石」と称され、譜代大名筆頭の家格を誇ることになる。ここに、井伊家による彦根の統治と、その後の歴史が盤石なものとして確立されたのだ。
交通の要衝と「赤備え」の役割
彦根が近世城下町として発展した背景には、その地理的条件と、井伊家が担った役割が深く関わっている。彦根は日本列島のほぼ中央に位置し、古くから陸路と水路が交差する交通の要衝であった。東海道と並ぶ主要な街道である中山道が市内を通り、琵琶湖を利用した水上交通によって京や大坂とも結ばれていた。彦根城は、この陸上交通と水上交通を抑える戦略的な拠点として築かれたのである。
徳川家康が彦根に新城築城を命じた最大の理由は、豊臣家をはじめとする西国大名への備えであった。彦根城は「大坂包囲網の要」とされ、徳川政権にとっての最前線の城という、軍事上極めて重要な役割を担っていた。城郭の構造にもその意図が色濃く反映されている。彦根城は本丸と複数の曲輪が連なる「連郭式」の平山城であり、本丸の前後には大規模な堀切が設けられ、正面と裏手の双方からの敵の侵入を防ぐよう設計されていた。
特に防御に優れた構造として知られるのが「天秤櫓」である。左右対称の櫓が廊下橋を挟んで配置され、この橋は有事の際には破壊できるように工夫されていたという。また、天守内部には外からは見えない「隠し狭間」が七十五箇所も設けられ、奇襲攻撃を可能にするなど、優美な外観とは裏腹に、徹底した防御思想が貫かれていた。これらの堅固な備えにもかかわらず、彦根城が実際に戦いの舞台となることは一度もなかった。これは、城の存在自体が抑止力として機能し、その堅牢さが徳川の権威を象徴していたからだと言えるだろう。
そして、彦根藩主である井伊家は、譜代大名の中でも筆頭格として、江戸幕府の要職を歴任する。多くの大老を輩出し、将軍の烏帽子親を務めるなど、徳川家への揺るぎない忠誠と、幕政における影響力は絶大であった。「井伊の赤備え」と称される精鋭部隊は、徳川家康の天下統一を支えた最強の軍団として勇名を馳せた。彦根城は、このような井伊家の政治的・軍事的権力を物理的に体現する存在であり、その堅固さと、城下町の繁栄は、徳川幕府の安定を象徴するものであった。
築城後、城下町は大規模な宅地造成によって整備され、武士や商人、職人が集住する都市へと変貌した。江戸時代中期には、城下町の町人人口だけで一万五千人を超え、武士人口と合わせて三万数千人が暮らす、近江国東部の中心都市として繁栄したのである。戦国時代には湿地帯であった芹川河口部が、城下町の建設に伴い、川の流れを直線的に改修するなど、大規模な都市改造が行われたことも、その発展を支えた。
勅命と市民の記憶が織りなす保存
彦根城の歴史を語る上で、明治初期の廃城の危機をどのように免れたかという点は、他の現存国宝五城と比較すると、その特異性が際立つ。明治維新後、新政府は封建制度の象徴である城郭の多くを「無用の長物」として解体する方針を打ち出した。明治六年(1873年)の太政官布告「廃城令」により、全国の城の多くが取り壊しの対象となり、実際に百七十以上の城が姿を消したとされる。彦根城も例外ではなく、一時は解体が決定され、建物の一部が大津に移築され、天守を解体するための足場まで組まれていたという。
この絶体絶命の危機を救ったのが、明治十一年(1878年)の明治天皇の北陸・東海地方への巡幸であった。天皇が彦根を訪れた際、供奉していた参議の大隈重信が、彦根城の解体が決まっていることを知り、天皇に保存を進言したという説や、天皇の従妹が保存を願い出たという説など、複数の経緯が伝わる。いずれにしても、明治天皇の勅命によって彦根城の解体は中止され、天守や一部の櫓の永久保存が決定されたのだ。
他の国宝城郭の保存経緯を見ると、それぞれに異なる背景が存在する。例えば姫路城は、軍用地として存城扱いとなり、主要な建物の解体を免れた。松本城では、解体の危機に際して地元の市民や教育者が中心となり保存運動を展開し、城を買い取って守り抜いた。犬山城は城主一族や地元関係者の維持努力が語られ、松江城は城内の多くが撤去される中で天守だけを地主や元藩士が買い戻す形で保存された。これに対し彦根城は、「明治天皇の勅命」という、極めて象徴的な出来事によってその姿を留めたと伝えられている。
しかし、この「奇跡」の裏側には、地元住民や旧彦根藩士たちの粘り強い保存運動があったことが指摘されている。彼らは井伊家の誇り、そして彦根の象徴である城を守りたいという強い思いを抱き、資金面での支援や保存に向けた働きかけを行った。明治政府も、旧譜代大名筆頭である井伊家の功績と格式を重んじていたという背景も無視できない。つまり、彦根城の保存は、単なる上からの命令だけでなく、地域に根ざした人々の熱意と、当時の政治的状況が複雑に絡み合った結果として捉えることができるだろう。この多層的な「遺され方」こそが、彦根城の歴史の深みを示している。
現代に息づく城とまち
現代の彦根市にとって、彦根城は単なる歴史的遺産以上の存在である。城は市のシンボルであり、観光の核として、今も多くの人々を引きつけている。年間を通じて多くの観光客が訪れ、その姿は市内のあらゆる場所から望むことができる。
彦根城の保存と活用は、現代においても継続的な取り組みである。昭和三十一年(1956年)には城跡が国の特別史跡に指定され、天守は昭和二十七年(1952年)に国宝に指定された。近年では、世界遺産への登録を目指す動きもあり、暫定リストに掲載されている。城郭の保存修理は定期的に行われ、天秤櫓や西の丸三重櫓、佐和口多聞櫓といった重要文化財に指定された各建造物も丁寧に維持管理されている。
観光面では、彦根城をモチーフにしたマスコットキャラクター「ひこにゃん」が全国的な人気を集め、城の魅力を発信する重要な役割を担っている。城下町は、夢京橋キャッスルロードや四番町スクエアといった観光スポットとして整備され、歴史的な町並みと現代の商業が融合した空間が創出されている。また、彦根仏壇や湖東焼といった伝統工芸も、江戸時代から受け継がれてきた技術と文化を現代に伝えている。
しかし、歴史的建造物の保存には常に課題が伴う。老朽化への対応、維持管理にかかる費用、そして観光化と地域住民の生活との調和は、彦根市が直面する現代的な問いである。かつては閉ざされた空間であった城郭内が、今では市民や観光客に開かれた場所となり、その利用のあり方も時代とともに変化している。彦根城は、江戸時代から明治、そして現代へと続く社会の変遷の中で、その役割と存在意義を問い直されながら、常にその姿を更新し続けているのだ。
彦根の歴史が示すもの
彦根の歴史を紐解くと、そこには単なる偶然では片付けられない、幾重にも重なった必然の構造が見えてくる。関ヶ原の戦後の混沌とした時代において、徳川家康が井伊直政に託した西国への備えという明確な戦略的意図。そして、その意図を具現化するために選ばれた、琵琶湖と中山道が交わる交通の要衝という地理的優位性。これらが、強固な防御機能を持つ彦根城と、譜代筆頭として幕政を支え続けた井伊家の存在を決定づけた。
明治の廃城の危機を乗り越えた経緯も、また示唆に富む。明治天皇の勅命という劇的な展開は、確かに彦根城を救った「奇跡」として語り継がれる。しかし、その背景には、城を心の支えとしてきた地元住民や旧藩士たちの強い願いと、大隈重信のような政治家の働きかけ、そして旧井伊家の格式という複合的な要素が作用していた。これは、歴史的建造物の保存が、単なる文化財としての価値だけでなく、地域共同体のアイデンティティの核として機能する側面を持つことを雄弁に物語っている。
彦根城は一度も実戦を経験することなく、その役割を終えた。しかし、その存在自体が徳川の権威と平和を象徴し、地域の人々の誇りであり続けた。現代においても、彦根のまちを歩けば、城下町の面影を残す町割りや、芹川の流れ、そして何よりも金亀山にそびえる天守が、過去と現在を繋ぐ確かな証としてそこにある。彦根の歴史は、特定の場所が持つ潜在力と、それを取り巻く人々の意志、そして時代の大きな流れが交錯することで、一つの風景が形作られていく過程を示しているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 彦根城 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 彦根藩主井伊家| 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館hikone-castle-museum.jp
- 彦根藩 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 月~金曜日 21時48分~21時54分asahi.co.jp
- 国宝五城「彦根城」の歴史と特徴/ホームメイトhomemate-research-castle.com
- 彦根城について | 国宝 彦根城hikonecastle.com
- テーマ展 「彦根城-城の姿と城下町の暮らし-」 | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館hikone-castle-museum.jp
- 彦根城|未来へのアクション|日立ソリューションズfuture.hitachi-solutions.co.jp