2026/6/27
京の遊里を描いた「彦根屛風」が井伊家に伝わった経緯

彦根屛風について詳しく知りたい。
キュリオす
江戸時代初期に制作された「彦根屛風」は、京の遊里の様子を描いた風俗画。近年の研究で、制作当初から彦根藩井伊家にあったわけではなく、江戸時代後期に購入されたことが判明。その多層的な趣向と、彦根という土地が文化を受け入れてきた歴史を辿る。
京の遊里が彦根に渡るまで
「彦根屛風」は、江戸時代初期、およそ寛永年間(1624〜1644年頃)に制作された六曲一隻の風俗画である。紙本金地著色という豪華な形式で、縦94.0cm、横271.0cmという中屏風の規模を持つ。描かれているのは、当時の京の遊里、具体的には六条三筋町の遊女やその客、禿(かむろ)たちの姿とされる。三味線を奏でる者、双六に興じる者、恋文を読む者など、十五人の男女と一匹の洋犬が、それぞれの仕草で生き生きと描かれている。この屏風は、近世初期風俗画の傑作として早くから評価され、1955年(昭和30年)には国宝に指定された。滋賀県彦根市が所蔵し、彦根城博物館に保管されている。
この屏風が「彦根屛風」と呼ばれるのは、代々彦根藩主を務めた井伊家に伝来したことによる。しかし、井伊家が制作当初から所有していたわけではない。近年の研究により、井伊家がこの屏風を入手したのは江戸時代後期であることが明らかになり、特に12代藩主の井伊直亮(なおあき、1794-1850)が購入したとする記録が確認されている。
江戸時代初期は、現世への関心が高まり、庶民の生活や風俗を描いた絵画が隆盛した時代だった。洛中洛外図や花下遊楽図、南蛮図など、多様なテーマの風俗画が制作された。「彦根屛風」もこうした流れの中で生まれた作品だが、その制作年代とされる寛永年間には、幕府による風紀の取り締まりが厳しくなりつつあった時期とも重なる。絵に描かれた華やかな遊里の情景は、失われつつあった当時の風俗を追憶する意味合いも込められていたのではないか、という見方も存在する。
井伊家は、譜代大名の筆頭として幕政に重きをなし、その家格にふさわしい文化的な素地を持っていた。多くの美術工芸品や古文書を収集し、能楽も藩の儀式で頻繁に催されるなど、文化的な営みが盛んであったことが知られている。こうした井伊家の文化的な土壌が、京で生まれた傑作を迎え入れ、その価値を認め、後世に伝える役割を担うことになったのである。
屏風に込められた多層の趣向
「彦根屛風」が単なる風俗画の範疇を超え、傑作として評価される所以は、その多層的な趣向にある。屏風に描かれた三味線、双六、恋文、そして画中画の屏風絵は、中国の伝統的な文人の遊びを象徴する「琴棋書画」(琴を奏で、碁を打ち、書を書き、画を描く)の画題に見立てられていると解釈されているのだ。特に画中画として描かれた山水図は、室町時代の本格的な漢画の技法で描かれており、当時の絵師が持つ教養の深さを示している。このような「見立て」の技法は近世絵画では珍しくないが、「彦根屛風」はその最初期の作例であり、後の浮世絵にも影響を与えたとされる。
また、画面全体の構図も計算し尽くされている。六曲の屏風の山折りと谷折りの形態を活かし、各人物が互いに緊密な関係性を持って配置されている。人物の髪型や衣装の文様、器物の細部に至るまで、線描と賦彩は極めて精緻であり、それぞれの質感までもがリアルに表現されている。こうした細密な描写は、現代の鑑賞者にも生々しいほどの印象を与える。
この屏風には落款がなく、作者は特定されていない。しかし、その卓越した画技や漢画の知識から、狩野派の優れた絵師の手に成るものと考えられている。落款がないことは、特定の個人の名声よりも、当時の文化や美的感覚を凝縮した作品としての普遍性を際立たせているとも言えるだろう。そして、この京で生まれた無名の傑作が、彦根藩井伊家に伝来したことで、「彦根屛風」という特別な名前を得て、その存在が今日まで広く知られることになったのだ。
浮世絵と異なる視座
「彦根屛風」は、しばしば浮世絵の源流の一つとして語られることがある。しかし、その成り立ちと表現には、浮世絵とは異なる決定的な側面が存在する。
浮世絵は、江戸時代に庶民の間で流行した風俗画全般を指し、肉筆画と木版画に大別される。特に木版画は、絵師、彫師、摺師という分業体制によって大量生産が可能となり、安価で庶民に広く普及した。美人画、役者絵、風景画など、当時の流行や世相を反映した題材が描かれ、大衆文化の一翼を担ったのである。
これに対し、「彦根屛風」は一点ものの肉筆画である。版画のように大量に制作され、広く流通することを前提とはしていない。その制作には、高度な技術と手間、そして相応の費用が投じられたことは想像に難くない。また、画面に描かれた京の遊里の情景は華やかでありながらも、どこか冷たく寂しげな雰囲気が漂うという指摘もある。これは、享楽的な側面を強調しがちな浮世絵とは異なり、人生の無常観や人間の内面的な心理までをも描き出そうとする、より深い視座があったことを示唆している。
さらに、前述の「琴棋書画」に見立てる趣向は、当時の知識階級が持つ教養と美意識を反映したものだ。これは、単純な風俗描写に留まらない、鑑賞者に知的な読み解きを促す要素を含んでいる。岩佐又兵衛の工房による風俗画が、それまでの伝統的な風俗画と浮世絵の橋渡しをする存在と位置づけられるように、近世初期の絵画は多様な展開を見せた。又兵衛自身も武家出身でありながら画家となり、京都をはじめ各地を巡って傑作を残している。しかし、「彦根屛風」が持つ、雅と俗、漢画と大和絵といった対立する要素を巧みに融合させた重層性、そして一点物の肉筆画としての稀少性は、版画による大衆化の道を辿る浮世絵とは異なる、独自の美意識の系譜に位置付けられるだろう。
今、彦根の地で伝えられる絵画
国宝「彦根屛風」は、現在、彦根城博物館の重要な収蔵品として、大切に保管されている。毎年、ゴールデンウィークの時期を中心に、期間限定で特別公開され、多くの来館者がその傑作を鑑賞する機会を得ている。この屏風は、後世の絵画にも大きな影響を与え、近世から現代に至るまで、その図様を写したり、アレンジしたりした作品が数多く確認されているという。
彦根の地には、「彦根屛風」のような特定のジャンルに括られる美術品だけでなく、この土地の歴史や風景を描き続けた画家も存在する。例えば、明治時代に生まれ昭和を生きた画家、上田道三(1908-1984)は、京都で絵を学んだ後、故郷彦根に戻り、彦根城や城下町の古民家などを「記録画」として描き続けた。急速に変わりゆく彦根の町並みを憂い、その姿を絵に留めようとした彼の作品は、彦根の失われた景観を知る貴重な資料となっている。また、江戸時代後期に彦根城下の富商の家に生まれ、京で文人画家として活躍した青根九江(あおねきゅうこう、1805-1854)も、花鳥画を得意とし、彦根と京の文化交流の一端を担った。
彦根城博物館は、井伊家伝来の甲冑、刀剣、能面、茶道具、書画、古文書など、約4万5千件にも及ぶ多様な美術工芸品や歴史資料を収蔵・展示している。「彦根屛風」は、そうした井伊家の至宝の中でも特に象徴的な存在であり、彦根という城下町が育んだ、あるいは受け入れた文化の深さを現代に伝えている。特別公開の期間中、多くの人々がこの屏風の前に立ち、その美しさと、時代を超えて語りかけるメッセージに触れている。
彦根の地が映す時代の風
「彦根屛風」は、京の遊里という「俗」の世界を描きながら、中国の伝統的な「雅」の教養を重ね合わせるという、一見すると矛盾した要素を内包している。しかし、この重層性こそが、江戸初期という時代の転換期における人々の価値観の揺らぎと、多様な文化が交錯する様を映し出しているのではないか。享楽的な風俗を追い求める一方で、教養や内面的な豊かさを重んじる姿勢も失われていなかった。この屏風は、その両義性を高い芸術性で昇華させた稀有な作品と言えるだろう。
そして、この屏風が「彦根」の名を冠し、井伊家の至宝として伝わったことは、彦根という土地が単なる地方の城下町に留まらない、文化的な受容力を持っていたことを示している。京で生まれた傑作を、その価値を理解し、大切に守り伝えてきた井伊家という存在があったからこそ、この屏風は「彦根屛風」として今日にその名を残しているのだ。それは、彦根という地が、時代と文化の風を捉え、それを自らの歴史の中に織り込んできた証左である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 国宝・彦根屛風 | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館hikone-castle-museum.jp
- 風俗図(彦根屛風) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館hikone-castle-museum.jp
- 彦根屏風 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 近世初期風俗画を代表する傑作・彦根屏風 - UAG美術家研究所yuagariart.com
- shiga-bunkazai.jp
- 彦根藩・井伊家の至宝 - 近江の城めぐり | 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖shiroexpo-shiga.jp
- 井伊家と能―大名文化の精華― | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館hikone-castle-museum.jp
- 浮世絵誕生は実はこの絵から!国宝『風俗図』の謎は深い | 和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!intojapanwaraku.com