2026/6/5
鴻巣の国府の洲から宿場町、そして花のまちへ

鴻巣の歴史について教えて欲しい。
キュリオす
鴻巣の地名の由来「国府の洲」や「鴻の宮伝説」から、古代の古墳時代、戦国時代、そして中山道七番目の宿場町として栄えた江戸時代までを辿る。人形作りと花卉栽培という二つの伝統産業が、荒川の治水と共に現代に受け継がれるまでの歴史を概観する。
鴻巣という地名の由来には複数の説が存在する。一つは、古代に无邪志国(むさしのくに)の国府が置かれたことから、「国府の洲(こうのす)」が転じたというものだ。この説は、荒川や元荒川を利用した水運が盛んであったことからも推測される。やがて、その音に「鴻」の字が当てられ、さらに「こうのとり伝説」が結びついたという流れである。
伝説によれば、市内の宮地には「木の神」と呼ばれる大木があり、村人たちはこれを崇めていた。しかし、供え物を怠ると災いを起こすとされ、人々は困っていたという。ある時、一羽のコウノトリが大木に巣を作り卵を産むと、大蛇が現れて卵を狙った。コウノトリは大蛇と戦い、追い払ったことで、この地から災いがなくなり平和が訪れた。村人たちはコウノトリに感謝し、その木の下に「鴻の宮(こうのみや)」を建て、土地の守り神とした。この「鴻の宮」が現在の鴻神社であり、これが「鴻巣」という地名の由来になったと伝えられている。
歴史を遡ると、鴻巣地域には古墳時代から人々が定住していた形跡がある。箕田(みだ)古墳群や糠田古墳群など、複数の古墳群が荒川左岸のローム台地上に分布しており、六世紀初頭から七世紀中葉にかけて築造されたことが確認されている。これらの古墳は、この地が古くから一定の勢力を持つ集落の拠点であったことを示唆している。特に箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地とされ、平安時代中期には源仕、源宛、渡辺綱の三代がこの地を拠点として活動したと伝えられる。
戦国時代には、「こうのすの市」という記述が延文6年(1361年)の「市場祭文」に見られるが、この年紀には疑問も呈されており、祭文の成立は戦国時代頃と考えられている。この頃にはすでに市場が開かれ、地域の経済活動が活発であったことがうかがえる。
江戸時代に入ると、徳川家康による五街道の整備に伴い、鴻巣の歴史は大きく転換する。慶長7年(1602年)、中山道の宿場町として、それまでの「本宿」(現在の北本市)にあった鴻巣宿が、現在の鴻巣市市宿新田に移設されたのだ。この移設の明確な理由は定かではないが、熊谷宿と桶川宿の間に適切な距離で宿を設けるためであったと推測されている。また、徳川家康、秀忠、家光の三代が鷹狩りの際に宿泊所とした「鴻巣御殿」が設けられたことも、宿場の発展に寄与した。これにより、鴻巣宿は江戸から数えて七番目の宿場として、旅人や物資が行き交う交通の要衝となり、大いに賑わいをみせることになる。
鴻巣が中山道の宿場町として栄えた背景には、いくつかの複合的な要因がある。まず地理的な条件として、現在の鴻巣市は埼玉県のほぼ中央に位置し、江戸からの距離が約50キロメートルと、当時の旅人にとって初日の宿泊地として適した場所であった。また、忍行田道や松山道など、いくつかの脇往還が分岐する交通の要衝でもあった。これにより、単なる通過点ではなく、周辺地域との交流拠点としての機能も担ったのである。
江戸時代初期に中山道が整備され、鴻巣宿が移設されると、寛永5年(1628年)頃には宿場としての家並みが整えられた。天保14年(1843年)の記録によれば、宿内人口は2,274人、町並みは約1.9キロメートルに及び、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒を数える比較的大きな宿場であった。旅籠の中には給仕女を置いて客をもてなすところもあったという。問屋場が置かれ、人馬の継ぎ立てや幕府公用の書状・品物の飛脚業務を担うなど、重要な役割を果たした。
さらに、鴻巣宿の発展に深く関わったのが、徳川家との結びつきである。勝願寺は、天正年間(1573年から1591年)に中興され、文禄元年(1592年)に徳川家康が鷹狩りで訪れた際、二世住職の円誉不残に深く感銘を受け帰依したことから、「葵の紋」の使用が許されたという。浄土宗関東十八檀林の一つに数えられ、僧侶の学問所としての役割も果たした。境内には、本多忠勝の娘で真田信之の妻となった小松姫や、仙石秀久の墓なども残されており、当時の有力者との関係性の深さを物語っている。法要寺も加賀藩が参勤交代の際の宿所として利用し、前田家の家紋である梅鉢を寺紋として拝領していた。これらの寺社は、単なる信仰の場に留まらず、宿場町の文化的な核となり、また大名との交流を通じて鴻巣の地位を高める役割も担ったのである。
この地の特産品として早くから名を馳せたのが「鴻巣雛」である。江戸時代前期には、京都の仏師が鴻巣に移り住み、土雛を作り始めたことが起源とされる。鴻巣宿は中山道を通じて京都からの文化や技術が流入しやすい環境にあり、人形の材料となる藁や桐が豊富であったこと、そして農閑期の人々が生産の担い手となったことが、人形作りの発展を後押ししたと推測される。江戸時代中期には、鴻巣雛は高級な人形として知られるようになり、破魔矢や羽子板なども作られるようになった。文永2年(1862年)には、鴻巣人形の隆盛があまりに著しく、江戸の人形業者から製作販売の取り締まりを訴えられるほどであったという。これは、鴻巣の職人たちの技術と生産力が江戸の市場に大きな影響を与えるほどであったことを示している。明治時代に入ると、鴻巣人形はさらに隆盛を極め、人形業者31軒、職人300人という規模に拡大した。
鴻巣の歴史を語る上で、荒川の存在は不可欠である。鴻巣市は南西部に秩父山地を源流とする荒川が流れ、関東ローム層や荒川沖積層からなる肥沃な土地に恵まれている。しかし、その肥沃さは同時に、荒川の氾濫という脅威と隣り合わせであった。荒川は「荒ぶる川」が語源とされるほど、古くから洪水が繰り返されてきた川である。
江戸時代以前の荒川は、現在の元荒川筋を流れており、現在の流路は江戸時代初期に行われた大規模な治水事業によって形成されたものだ。徳川家康が江戸に幕府を開いた後、江戸を水害から守るため、利根川と荒川を切り離し、利根川を太平洋へ、荒川を久下から新しい流路を開削して入間川水系の和田吉野川に繋ぐ「利根川の東遷、荒川の西遷」という大土木事業が実施された。この荒川の西遷を指揮した伊奈忠次・忠治親子の墓が、鴻巣の勝願寺境内に建立されているのは、この地の治水事業における彼らの功績と深く関わっている。
近代に入ると、この肥沃な土地と交通の利便性が、新たな産業の発展を促した。その一つが花卉栽培である。鴻巣市の花の生産は、昭和23年(1948年)に寺谷地区の竹内武之助氏がパンジーを導入したことから始まった。寺谷地区は半湿田が多く粘土質の土壌であったため、パンジー栽培に適していたという。当初は数軒の農家が花生産に転換し、栽培した花を背負いかごで東京へ「かつぎ出し」て販売したところ、戦後の食料難の時代にもかかわらず好調な売れ行きを見せた。その後、ワラ編み床でのシネラリア生産や、ハボタン、矢車草、5色トウガラシなどの生産が始まり、昭和37年にはサルビア、マリーゴールド、マツバボタン、コリウスなどの生産も開始された。高度経済成長期には夏場の高温対策として高冷地で育苗する「山上げ栽培」が導入され、ビニールハウスやガラス室などの施設園芸への転換も進んだ。これにより、鴻巣はプリムラ、サルビア、マリーゴールドなどの出荷量が日本一を誇る花の一大産地へと発展していった。
中山道の宿場町として栄えた地域は日本各地に存在するが、鴻巣宿はその中でも特異な発展を遂げたと言えるだろう。例えば、中山道六十九次のうち、江戸から数えて七番目の宿である鴻巣宿は、江戸から約50kmという距離から、旅人にとって初日の宿泊地となることが多かった。これは、江戸から比較的近い位置にありながら、単なる日帰り圏内にとどまらない、宿泊を伴う経済活動が成立する距離であったことを意味する。
他の宿場町と比較すると、鴻巣は「人形のまち」として、また「花のまち」として、中山道という交通インフラを基盤にしながら、独自の産業を確立していった点が際立つ。例えば、同じく中山道の宿場町である熊谷宿は、秩父や川越、足利方面へ通じる交通の要地であり、絹や綿織物の集散地として賑わった。また、桶川宿は江戸時代後期には紅花の一大生産地として知られ、特産品を背景とした経済活動が活発であった。これらの宿場町が地域の特産品や立地条件を活かして発展したのは共通しているが、鴻巣のように、人形作りと花卉栽培という二つの伝統産業が現代まで大規模に継承されている例は珍しい。
特に鴻巣雛は、江戸の職人が修行に訪れるほど着物の着付け技術で関東一と称されたという記録が残る。これは、中山道という主要幹線が、単に物資の流通だけでなく、技術や文化の交流路としても機能していたことを示している。京都の仏師が土雛作りを始めたとされる起源 から、江戸の人形業者との論争にまで発展した隆盛 は、鴻巣が単なる地方の宿場町ではなく、当時の経済・文化圏において重要な位置を占めていた証左と言える。
また、荒川の治水事業は、単に水害から地域を守るだけでなく、肥沃な土地を安定的な農業生産に繋げ、後の花卉栽培の基盤を築いた。荒川の川幅が日本一であるという特徴も、治水の歴史と深く結びついている。大規模な河川改修によって形成された広大な河川敷は、現在のポピー栽培面積日本一 にも繋がるなど、近代以降の農業景観を形作る重要な要素となっている。このように、鴻巣の歴史は、中央の政策(中山道の整備、荒川の治水)と、地域の地理的・文化的条件、そして人々の創意工夫が複雑に絡み合って形成されてきたのだ。
現在の鴻巣市は、人口11万人を超える県中央部の中核都市として発展を続けている。都心から50キロメートル圏内という立地から、東京のベッドタウンとしての性格も持つが、その一方で歴史に培われた伝統産業は今も息づいている。
「人形のふるさと」と呼ばれる鴻巣には、JR鴻巣駅東口から中山道に出て右折すると「人形町」という地名が残り、多くの人形店が軒を連ねている。江戸時代から続く老舗の人形店や関連店が揃い、その伝統の技が現代に受け継がれているのだ。毎年2月から3月にかけて開催される「鴻巣びっくりひな祭り」では、高さ7メートル、31段の日本一高いピラミッドひな壇が展示され、多くの観光客を惹きつけている。鴻巣市産業観光館「ひなの里」では、鴻巣雛の歴史や製作過程が展示されており、職人たちの技術と心意気に触れることができる。
花卉栽培もまた、鴻巣を代表する産業として健在である。市内には約150軒を超える花卉生産農家が存在し、プリムラ、サルビア、マリーゴールドなどの出荷量は日本一を誇る。昭和42年(1967年)に初の花市場「埼玉綜合園芸」が開設されて以来、鴻巣は東日本屈指の花市場を有する一大産地として成長した。荒川河川敷では、広大なポピー畑が栽培面積日本一として知られ、毎年5月には「こうのす花まつり」が開催され、一面に広がる花の絨毯が訪れる人々を楽しませる。
このように、鴻巣の現代の姿は、中山道という交通の要衝としての歴史、荒川がもたらす肥沃な土地と治水の歴史、そしてそこで育まれた人形作りと花卉栽培という二つの伝統産業が重なり合って形成されている。古くからの宿場町としての賑わいは形を変え、現代の生活の中に溶け込みながらも、歴史的な建造物や地名、そして受け継がれる技術の中にその足跡を見ることができる。
鴻巣の歴史を辿ると、この地が常に外部からの影響を受け入れ、それを自身の血肉としてきた姿が見えてくる。古代の「国府の洲」という地名が示唆するように、畿内からの政治的・文化的影響。中山道という大動脈を通じて流入した江戸や京都の文化、そして人形作りの技術。荒川の治水という国家的な事業がもたらした土地の変革。そして、戦後の混乱期に新たな活路を見出した花卉栽培。
一見すると、宿場町としての役割、人形作り、花卉栽培、そして荒川の治水という要素はバラバラに見えるかもしれない。しかし、これらはすべて、この地が持つ「交通の要衝」という地理的条件と、「肥沃な沖積平野」という自然的条件、そしてそれらを最大限に活用しようとした人々の営みによって繋がっている。宿場町として人や物が集まり、経済が活発化したからこそ、人形作りのような手工業が発展する土壌があった。荒川の恵みと脅威が共存する土地であったからこそ、治水技術が培われ、それが農業生産の安定と、後に花卉栽培へと繋がった。
鴻巣の歴史は、特定の時代や特定の産業に特化するのではなく、むしろ多様な要素が重層的に積み重なり、互いに影響を与え合いながら発展してきたことを示している。それは、単一の物語ではなく、いくつもの小さな物語が絡み合い、それぞれの時代において最適解を探し続けてきた土地の記憶である。現代の鴻巣を歩く時、かつて旅人が行き交った中山道の面影や、職人の手が作り上げた雛人形、そして荒川が育んだ花の彩りが、この土地の持つ多面的な歴史を静かに語りかけてくるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。