2026/6/5
忍藩はなぜ湿地帯に築かれた?水攻めと足袋産業の歴史

行田の歴史について詳しく知りたい。忍藩があった場所。
キュリオす
行田の忍城は、湿地と水濠を活かした「浮き城」として知られる。豊臣秀吉の忍城水攻めに耐えた防御力と、江戸時代に足袋産業で栄えた忍藩の歴史を、水との関わりから辿る。
関東平野のほぼ中央、利根川と荒川に挟まれた広大な低地に、行田の町は位置する。見渡す限りの平野が広がり、そこに山らしい山は見当たらない。城といえば、堅牢な石垣や高台に築かれた天守を想像しがちだが、この地にあった忍城は、水濠と湿地を利用した「浮き城」として知られる。なぜ、このような地形に要衝が築かれ、一つの藩として機能し続けたのか。その問いは、水の恵みと脅威、そして人々の営みが複雑に絡み合ったこの土地の歴史を紐解くことから始まる。
忍城の築城は、室町時代中期にまで遡るとされている。この地域はかつて「忍の沼」と呼ばれる広大な湿地帯であり、利根川や荒川の氾濫原でもあった。文明年間(1469~1487年)に成田氏が築いたのが始まりで、扇谷上杉氏の家臣であった成田顕泰が築城したという説が有力である。この湿地が自然の要害となり、城は周囲を深い沼と水堀に囲まれることで、堅固な防御力を得た。平野の真ん中にありながら、容易に攻め落とせない「浮き城」という異名が生まれたのもそのためだ。
戦国時代に入ると、忍城は関東の覇権を争う勢力にとって重要な拠点となる。上杉謙信の関東出兵の際には、成田氏が後北条氏に味方したため、上杉軍に攻められたが、この時も落城には至らなかった。そして、最も知られるのが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の一環として行われた「忍城水攻め」である。石田三成が総大将となり、約2万人の兵を率いて忍城を包囲。利根川の水を城に引き込むため、全長28キロメートルにも及ぶ石田堤を築いた。しかし、城は周囲の地形と水量を計算し尽くした構造であったため、水攻めにも耐え、最後まで落城しなかった。この逸話は、忍城の防御力の高さを象徴する出来事として、後世に語り継がれることになる。小田原城が陥落した後、忍城は開城され、徳川家康の関東入府に伴い、松平忠吉(家康の四男)が城主となり、忍藩が立藩された。
忍藩がこの地に成立し、江戸時代を通じて存続し得た背景には、複数の要因が絡み合っている。一つは、その地理的な位置である。江戸の北方を守る要衝であり、日光東照宮へ向かう日光御成街道の宿場町としても栄えた。将軍家が日光社参する際には、忍藩主が警護にあたる重要な役割を担っていたのである。
また、この地の豊かな水利は、農業の発展にも寄与した。利根川や荒川からの取水を効率的に行うための水路網が整備され、広大な水田地帯が形成された。米の生産は藩の財政基盤の柱であったが、それ以上に特筆すべきは、綿花の栽培と足袋生産への転換である。江戸時代中期以降、この地域は綿花の栽培に適していたため、米作と並行して綿花栽培が盛んになった。収穫された綿は、自家消費だけでなく、商品作物として流通し、その加工品として足袋作りが発展していった。
忍藩は、この足袋生産を奨励し、藩の主要な財源として育成した。湿潤な気候は綿花の栽培に適し、また豊富な水は染色や加工にも有利であった。さらに、農閑期の副業として足袋作りが定着し、やがて「行田足袋」として全国にその名を馳せるようになる。藩は足袋の品質管理や流通にも関与し、安定した供給体制を築いた。このように、水という自然条件を防御と生産の両面で最大限に活用し、さらに産業育成に注力したことが、忍藩がこの平野で独自の存在感を保ち続けた理由であろう。
忍藩と行田の歴史を他の城下町と比較すると、いくつかの特徴が浮かび上がる。多くの城下町が交通の要衝や軍事的な拠点として発展したのは共通しているが、忍城のように「水攻めに耐えた」という特異な歴史を持つ城は少ない。例えば、備中高松城も水攻めを受けたが落城しており、忍城の防御機構の独自性が際立つ。これは、単に自然の要害に頼るだけでなく、築城技術と地形の読み解きが巧みであったことを示している。
経済面では、多くの藩が米作を主軸としていた中で、忍藩が足袋という特定の加工品を主要産業に育て上げた点は注目に値する。例えば、近江の麻織物や丹後の絹織物など、地域特産の織物産業を振興した藩は他にも存在するが、行田の足袋は、農閑期の副業から始まり、明治以降の近代化の中で全国的なシェアを確立するに至った。これは、単なる特産品ではなく、地域全体の産業構造を規定するほどの規模に成長したことを意味する。明治期には行田の足袋生産量が全国の8割を占めるまでになったという記録もある。これは、藩の奨励策だけでなく、地域の気候風土と住民の勤勉さが相まって生まれた結果だろう。多くの城下町が廃藩置県後に経済的な転換期を迎える中で、行田は足袋産業を核として発展を続けた点で、他の地域とは異なる道を歩んだと言える。
現在の行田市を歩くと、かつての忍藩の面影と、足袋産業の記憶がそこかしこに残されている。市の中心部には、御三階櫓を復元した忍城の姿が見え、周囲の堀や土塁は、かつて「浮き城」と呼ばれた要塞の雰囲気を今に伝えている。城址公園として整備され、市民の憩いの場であると同時に、行田の歴史を学ぶ拠点となっている。
また、行田足袋の繁栄を物語る景観も健在だ。市内には、かつて足袋工場として使われた建物や、足袋商人の蔵が残されており、一部は資料館やカフェとして活用されている。特に「足袋とくらしの博物館」では、足袋作りの工程や歴史が紹介され、手作業での足袋縫いの実演を見ることもできる。現代では機械化が進み、足袋の需要も変化したが、行田では今も数軒の足袋製造業者が伝統の技術を守り続けている。
そして、行田の歴史は忍藩や足袋産業だけにとどまらない。市域には、5世紀から7世紀にかけて築造された巨大な古墳群が点在する「埼玉古墳群」があり、特に丸墓山古墳は日本最大の円墳として知られている。忍城が水攻めを受けた際、石田三成が本陣を置いたのがこの丸墓山古墳の頂上であったという。これは、中世の戦乱が、はるか古代の遺産と交錯した稀有な光景であっただろう。行田は、古代から中世、そして近世へと連なる多層的な歴史を、一つの土地に刻み込んでいるのである。
行田の歴史、特に忍藩の成り立ちと存続は、この土地が水とどのように向き合ってきたかを示す好例である。平野の湿地という一見すると不利な条件を、防御の要害として最大限に活かし、さらに治水技術の進展とともに農業や産業の基盤へと転換させていった。水攻めに耐え抜いた城の逸話は、単なる武勇伝ではなく、地形を読み解き、水を操る知恵の結実であったと言える。
そして、その知恵は足袋産業という形で、この地に経済的な繁栄をもたらした。米作だけに頼らず、綿花栽培と加工品生産へと舵を切ったことは、限られた資源の中で生き抜くための現実的な選択だった。行田の町に残る忍城の遺構や足袋蔵の風景は、水という自然条件と、それに応じた人々の工夫が、いかにこの地の歴史を形作ってきたかを静かに語りかけてくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。