2026/6/11
木曽三川の治水工事、なぜ薩摩藩が担ったのか

木曽三川の治水工事は、幕府の命を受けて薩摩藩が行なったとあるが、そういう全然関係ないところの治水や工事も普請によって行うことは、ままあったのか?
キュリオす
江戸時代、幕府は木曽三川の治水工事を薩摩藩に命じた。これは「天下普請」と呼ばれ、単なるインフラ整備ではなく、大名の財力を削ぐ政治的意図も含まれていた。遠方普請の事例と幕府の統治構造を辿る。
長良川、木曽川、揖斐川。木曽三川が合流し、濃尾平野を潤すこの地は、古くから水害に悩まされてきた。川の流れに沿って堤防が築かれ、人々がその営みを守ってきた痕跡は、今も地形の端々に見出すことができる。その中で、一際異彩を放つのが、遠く九州の薩摩藩がこの地の治水に尽力したという史実だろう。なぜ、遠く離れた藩が、幕府の命とはいえ、これほどの大工事を担うことになったのか。そして、こうした「普請」と呼ばれる大規模な土木工事は、幕府の統治下で、どれほど一般的なものであったのか。この問いは、江戸時代の政治と社会の構造に深く関わるものだ。
木曽三川の治水事業は「宝暦治水事件」として知られる。幕府がこの大規模な工事を薩摩藩に命じたのは、宝暦年間、具体的には1754年(宝暦4年)のことであった。当時、木曽三川は複雑に合流・分流を繰り返し、水害が頻発していた。特に伊勢湾への河口付近は、満潮時の海水逆流と増水が重なり、甚大な被害をもたらしていたのだ。幕府は、この状況を改善するため、三川を完全に分離し、それぞれを独立した流路とする「分流工事」を計画した。この計画は、現在の愛知県と岐阜県にまたがる広大な範囲に及ぶ、当時の土木技術の粋を集めた難工事であった。
幕府は、この普請を薩摩藩に命じた。薩摩藩は、外様大名の中でも特に石高が高く、経済力と動員力を持つ藩であったが、同時に幕府にとっては警戒すべき存在でもあった。工事は翌1755年(宝暦5年)に開始され、薩摩藩は家老の平田靱負を総奉行に任命し、藩士1000人以上、延べ20万人ともいわれる領民を動員して工事にあたった。しかし、慣れない土地での難工事に加え、幕府から派遣された役人の厳しい監督、そして十分な資材や食料が現地で調達できないなどの困難が重なった。工事中に多くの犠牲者が出ただけでなく、薩摩藩は莫大な費用を負担せざるを得ず、藩財政は極度に困窮した。平田靱負は工事完了後、責任をとり自害したと伝えられている。この工事は、幕府が外様大名に課した「天下普請」の典型例として、その苛酷さが語り継がれてきた。
江戸時代、幕府が大名に命じた大規模な土木工事は「普請(ふしん)」と呼ばれ、その中でも特に幕府の直轄事業として大名に負担させたものを「天下普請(てんかふしん)」という。これに対し、特定の国や地域の大名に課せられたものを「国役普請(くにやくふしん)」と呼んだ。木曽三川の治水は、この天下普請の代表例の一つである。
天下普請は、主に城郭の修築や築造、あるいは河川の改修、街道の整備といった公共性の高い事業に適用された。その目的は、単にインフラ整備にとどまらなかった。幕府は、有力な大名、特に外様大名に莫大な費用と人員を負担させることで、その財力を削ぎ、力を弱めるという政治的な意図も持っていたとされる。大名は、工事に必要な費用、資材、そして労働力をすべて自前で調達しなければならなかったため、藩財政に与える影響は甚大であった。薩摩藩の宝暦治水は、まさにこの政治的意図が強く作用した普請であったと考えられている。遠隔地の藩に命じることで、工事の困難さを増し、さらに藩財政を圧迫するという効果も狙われたとの見方もある。また、大名が幕府の命令に背くことは許されず、普請を完遂することが大名としての「忠勤」を示す手段でもあったのだ。
幕府が大名に普請を命じる際、その場所と大名の領地が地理的に離れていても、それは珍しいことではなかった。むしろ、幕府の統治戦略の一環として、遠隔地の普請をあえて命じる例は複数見られる。
例えば、江戸城の普請は、天下普請の最たるものであった。築城や修築の際には、全国の大名が動員され、それぞれ持ち場を与えられた。これは自領の近くの工事というわけではなく、江戸という幕府の本拠地での普請であり、全国の大名が「無関係」ではないという共通認識があった。また、関ヶ原の戦い後の主要街道の整備も同様である。東海道や中山道などの幹線道路の普請は、全国各地の大名に割り当てられ、自領から遠く離れた区間の整備を命じられることもあった。これは、幕府が全国を統一し、中央集権的な支配体制を確立する上で不可欠なインフラ整備であり、その費用と労力を大名に負担させることで、支配力を強化する狙いがあった。
木曽三川の治水工事が特異なのは、それが特定の地域の防災という性格を強く帯びていた点だ。江戸城の普請や街道整備は、幕府の権威や全国的な交通網の維持に関わるものであり、全ての藩がその恩恵にあずかる、あるいは幕府の権威を象徴する事業と理解されやすかった。しかし、木曽三川の治水は、直接的には地元の尾張藩や美濃の諸藩が担うべき性格の事業とも見えかねない。にもかかわらず、遠く離れた薩摩藩に命じられた背景には、薩摩藩の財力と動員力への期待に加え、前述のような政治的牽制の意図が色濃く存在したと推測される。つまり、普請は単なる土木事業ではなく、幕府が地方大名を統制し、その力を削ぐための政治的ツールとして機能していたのだ。
宝暦治水事件の記憶は、現代の木曽三川地域に深く刻まれている。岐阜県海津市には「薩摩義士顕彰碑」が建ち、平田靱負をはじめとする薩摩藩士たちの功績を称えている。また、治水神社では、犠牲となった薩摩藩士が「薩摩義士」として祀られ、地元の人々によって今も手厚く供養されている。
この事件は、単なる歴史上の出来事としてではなく、地域の人々の暮らしと深く結びついた物語として語り継がれているのだ。当時の技術水準を考えれば、極めて困難な工事であったことは想像に難くない。その中で、多くの命が失われ、藩財政が破綻寸前に追い込まれるという犠牲を払いながらも、薩摩藩が完遂した治水工事は、結果として濃尾平野の発展に大きく貢献した。今日、木曽三川の堤防や水門、そして広大な田園風景を目にする時、その背後には270年近く前の遠い藩の苦難と犠牲があったことを想起させる。治水技術の進歩した現代においても、この地の水防意識の高さは、宝暦治水の記憶がもたらしたものとも言えるだろう。
木曽三川の治水工事に薩摩藩が動員された事例は、江戸時代の「普請」が単なる公共事業ではなかったことを示している。それは、幕府が全国の大名を支配下に置き、その財力と労働力を動員する能力を誇示する場でもあったのだ。遠く離れた藩に、自領とは直接関係のない地域の工事を命じるという行為は、幕府の絶対的な権力を象徴するものと言える。
この普請の仕組みは、一見すると不合理にも映る。しかし、大名にとっては、幕府の命令に従うことで、自藩の存続と安定を図るという側面があった。莫大な負担を強いられながらも、それを完遂することが藩の「忠勤」を示し、幕府からの信頼を得る上では不可欠であった。この力学は、江戸時代の封建社会における大名と幕府の関係性を明確に表している。普請は、大名を経済的に疲弊させるだけでなく、幕府への忠誠を試す「踏み絵」のような役割も果たしていたのだ。木曽三川の治水工事は、当時の技術的挑戦であると同時に、江戸幕府が260年以上にわたって日本を統治し得た、その巧妙な支配構造の一端を今に伝えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。