2026/6/26
本居宣長は『古事記』から「漢意」をどう剥ぎ取ったのか

本居宣長が『古事記伝』で明らかにしたことはなにか?それまでの『古事記』の扱われ方と、それ以降の扱われ方はどう変わったか?
キュリオす
江戸時代の国学者・本居宣長が、当時の権威が低かった『古事記』を35年かけて解読し、外来思想の影響を排除した「やまとことば」の復元作業を辿る。合理主義的な解釈に異を唱え、言葉の響きから古代人の心のかたちを明らかにした。
鈴の音と二畳半の書斎から
三重県松阪市の中心部、かつての豪商たちが軒を連ねた一角に、本居宣長の旧宅「鈴屋」が移築保存されている。二階へ上がると、そこにはわずか二畳半の書斎がある。宣長が五十歳を過ぎてから増築したこの空間は、彼が愛した鈴を吊るし、その音色を楽しみながら思索に耽った場所だ。昼間は町医者として往診に歩き、夜はこの狭い部屋に籠もって、千年以上前の言葉と対峙する。そんな生活が三十五年も続いた。
宣長がその生涯を捧げたのは、当時、誰も正確に読むことができなくなっていた『古事記』の解読である。現在、私たちは当たり前のように日本神話の物語を享受しているが、宣長以前の状況を思えば、それは奇跡に近い復元作業だった。なぜ彼は、これほどまでに執念を燃やして古い言葉を追い求めたのか。その動機は、単なる懐古趣味や知的好奇心だけでは説明がつかない。そこには、外来の思想によって塗り固められた「自分たちの認識の枠組み」を、根底から問い直そうとする静かな、しかし強烈な意志があった。
松阪の静かな街並みを歩き、鈴屋の小さな窓から外を眺めると、宣長が見ていた風景と、彼が取り組んだ巨大な仕事の落差に眩暈を覚える。彼が『古事記伝』全四十四巻を通じて明らかにしたのは、神話の内容そのもの以上に、その物語を語っていた「言葉の響き」であり、その響きの中に宿る、理屈以前の心のかたちだった。
正史の陰で忘れられた物語
宣長が『古事記』の研究に着手した十八世紀後半、この書物の地位は驚くほど低かった。奈良時代に編纂された歴史書には、周知の通り『古事記』と『日本書紀』の二つがある。しかし、江戸時代に至るまで、圧倒的な権威を持っていたのは『日本書紀』の方であった。
『日本書紀』は漢文で書かれた正史である。中国の史書の形式に則り、対外的な国家の体裁を整えるために編纂された。そのため、歴代の朝廷や学者たちは『日本書紀』を第一の聖典として尊び、その注釈に心血を注いできた。一方の『古事記』は、天武天皇の命を受けた稗田阿礼が記憶し、太安万侶が書き留めたとされるが、その文体は独特な変体漢文であり、解読が極めて困難だった。平安時代以降、『古事記』は「日本書紀の副読本」あるいは「内容の劣る異伝」として、日陰の存在に甘んじていたのである。
中世における『古事記』の扱われ方は、さらに混迷を極めていた。卜部家などの神道家たちが秘伝として伝えてはいたものの、その解釈は仏教や儒教、あるいは密教的な思想が複雑に混じり合ったものだった。神話の神々は仏の化身(権現)として説明され、物語の細部には無理やりな教訓や哲学的な意味付けが施された。これを「中世日本紀」と呼ぶが、そこでは『古事記』本来の姿は、厚い霧の向こうに隠されてしまっていた。
宣長が二十代の頃、京都で医学を学んでいた時期に出会ったのは、こうした「理屈」で塗り固められた学問への違和感だった。当時の学問の主流は朱子学であり、あらゆる事象に「理(ことわり)」を求め、善悪の基準を当てはめることが正義とされていた。しかし、宣長は『源氏物語』などの和歌の研究を通じて、人間の心には理屈では割り切れない「もののあはれ」があることを確信する。
決定的な転機は、宝暦十三年(一七六三)の「松坂の一夜」として知られる、国学者・賀茂真淵との出会いだった。真淵は、伊勢参りの途中に松阪に立ち寄った際、宣長に対して『古事記』研究の重要性を説く。真淵自身も『万葉集』の研究を通じて古代の精神を追求していたが、その先の『古事記』までは手が回っていなかった。師の激励を受けた宣長は、この時から三十五年に及ぶ孤独な解読作業へと踏み出すことになる。当時の人々にとって、『古事記』はもはや「死んだ言葉」の羅列に過ぎなかったが、宣長はその墓を暴き、再び血を通わせようとしたのである。
漢意というフィルターを剥ぐ
宣長が『古事記伝』で行った作業の本質は、一言で言えば「漢意(からごころ)」の徹底的な排除である。漢意とは、中国由来の儒教や仏教的な思考様式、あるいは「物事には必ず理屈があり、善悪があるはずだ」と考える合理主義的な態度を指す。
宣長は、当時の人々が古代の神話を理解できないのは、この漢意という色眼鏡をかけて見ているからだと考えた。例えば、神話の中には残酷な場面や、理不尽な振る舞いをする神々が登場する。儒教的な観点で見れば、これらは「教育に良くない」あるいは「何らかの深い比喩である」と解釈され、本来の意味がねじ曲げられてしまう。宣長はこうした「さかしら(小賢しい知恵)」を嫌い、書かれた文字の背後にある、当時の人々が実際に話していた「音」を復元することに心血を注いだ。
『古事記』はすべて漢字で書かれているが、それは中国語として読むためのものではなく、日本語の音を漢字に当てはめたもの(万葉仮名)が混在している。宣長は、一字一字の漢字が「音」を表しているのか「意味」を表しているのかを、執拗なまでの比較検討によって分類していった。彼は、契沖という先達が『万葉代匠記』で示した文献学的手法を継承しつつ、さらにそれを推し進めた。
特に彼がこだわったのは、助詞や助動詞といった「てにをは」の復元である。言葉の骨組みであるこれらを正確に捉えることで初めて、古代人の思考の「リズム」が見えてくる。宣長は、現代の言語学者が驚くほどの精度で、上代特殊仮名遣いと呼ばれる古代日本語の音韻規則の一部を予見していた。彼にとって『古事記』を解読することは、単にストーリーを知ることではなく、外来思想に汚染される前の純粋な日本語、すなわち「やまとことば」の身体性を取り戻す作業だった。
この作業の過程で、宣長は『古事記』の冒頭にある「天地」という二文字の読み方だけに数年を費やしたと言われている。それを「てんち」と音読みした瞬間に、中国的な宇宙観が入り込んでしまうからだ。彼はそれを「あめつち」と訓じることで、日本の風土に根ざした感覚を復元しようとした。
宣長が明らかにしたのは、「道」とは頭で考える理屈ではなく、神々の時代から連綿と続く「事実」そのものであるという境地だった。彼は『直毘霊(なおびのみたま)』という総論の中で、善も悪も、幸も不幸も、すべては神の仕業であり、人間が理屈で制御できるものではないと断じた。この「不条理の肯定」こそが、漢意を剥ぎ取った後に現れた、宣長流の古代像であった。
合理主義の果てに見えた不条理
宣長の『古事記伝』が持つ特異性を浮き彫りにするために、同時代の知性である新井白石の『古史通』と比較してみるのが分かりやすい。白石は宣長より約半世紀早く、合理主義的な歴史観に基づいて神話を分析した人物である。
白石のアプローチは徹底して人間中心的だった。彼は、神話に登場する神々を、実在した古代の英雄や首長が神格化されたものだと解釈した。これを「人神説」と呼ぶ。例えば、天孫降臨の物語も、実際にはある部族が移動し、土地を平らげた歴史的事実の比喩として読み解こうとした。白石にとって、歴史とは因果関係で説明可能なものでなければならず、荒唐無稽な神話は、理性の光で脱神話化されるべき対象だった。
これに対し、宣長は白石のような解釈を「漢意の最たるもの」として激しく批判した。宣長に言えば、神話を人間の理屈で解釈しようとすること自体が、人間の傲慢である。神がなさることは、人間の知恵では計り知れないからこそ神なのであり、それを「実は人間だった」と言い換えるのは、事実の改ざんに他ならない。
宣長は、神話の内容がどれほど理不尽であっても、それを書かれたままに、言葉の響きのままに受け入れることを求めた。この「事実への徹底した帰依」は、一見すると盲目的な信仰のように見えるが、その手法は極めて実証的な文献学に基づいている。白石が「意味」を求めて神話を解体したのに対し、宣長は「言葉」を復元することで神話を再生させたのである。
また、正史である『日本書紀』との対比においても、宣長の視点は鋭い。『日本書紀』は漢文で書かれているため、どうしても中国的な概念や表現が混じり込み、日本の本来の姿が歪められていると宣長は論じた。一方、『古事記』は「いにしえの言葉」をそのまま写し取ろうと苦心しており、そこにこそ日本固有の精神(やまとごころ)が保存されていると考えたのである。
この比較から見えるのは、宣長が決して単なる保守主義者ではなかったという点だ。彼は、当時の最先端の知であった合理主義(白石の史学や朱子学)を十分に理解した上で、その限界を突破しようとした。理屈で説明できないものを、説明できないままに記述する。そのために、精緻な言語学的裏付けを用いる。この逆説的な態度は、近代的な知のあり方に対する、江戸時代からの鋭いカウンターパートであったとも言える。
医業の合間に積み上げられた言葉
宣長の日常は、決して隠遁者のそれではない。彼は伊勢松阪の町医者として、日々患者の診察にあたっていた。往診の記録を見れば、彼がいかに地域に根ざし、実利的な生活を送っていたかがわかる。午前中は診察を行い、午後は古典の講義をし、夜になってようやく自分の研究に没頭する。この「生活者」としての視点が、彼の学問に独特の粘り強さと、地に足のついた感覚を与えていた。
『古事記伝』の執筆が完了したのは、寛政十年(一七九八)、宣長六十九歳の時である。その後、彼の学問は「国学」として全国に広まり、門人の数は五百人を超えた。しかし、宣長自身は自らの学問が政治的な力を持つことを望んでいたわけではない。彼はあくまで、失われた言葉を取り戻そうとする一学徒であり続けた。
だが、歴史は宣長の意図を超えて動き出す。幕末から明治にかけて、彼の「古道」の教えは、尊王攘夷運動の強力な精神的支柱となった。宣長が説いた「理屈を排して神の道に従う」という姿勢は、天皇を中心とする国家体制を正当化するイデオロギーとして再解釈された。明治以降、国家神道が形成される過程で、『古事記』は『日本書紀』を凌駕する聖典としての地位を確立するが、それは宣長が地道な言語研究によって積み上げた成果が、政治という別の回路に接続された結果でもあった。
現在の松阪にある「本居宣長記念館」を訪れると、彼が自ら書き入れた膨大な推敲の跡を見ることができる。一字の読みを決定するために、どれほどの文献を渉猟し、どれほどの時間を費やしたか。その執念の痕跡は、後世の政治的な利用とは無関係に、一人の人間が「真実」に到達しようとした純粋な格闘の記録としてそこにある。
現代の私たちは、宣長が復元した『古事記』の物語を、あたかも最初からそこにあったかのように享受している。しかし、その背後には、町医者が夜な夜な二畳半の書斎で、鈴を鳴らしながら孤独に言葉を紡いだ三十五年という歳月が横たわっている。彼が守ろうとしたのは、特定の政治体制ではなく、他者の言葉に依存せずに自分たちの目で世界を見るための、「言葉」そのものだったのではないか。
言葉の響きが立ち上がらせるもの
宣長が『古事記伝』を通じて成し遂げたこと、それは単なる古い本の翻訳ではない。それは、思考のOSを入れ替えるような作業だった。私たちは言葉を使って考えるが、その言葉自体が外来の概念に支配されているとき、私たちの思考もまた借り物になってしまう。宣長は、日本語の深層にある響きを掘り起こすことで、日本人が本来持っていたはずの、世界に対する「素直な反応」を取り戻そうとした。
彼が到達した「もののあはれ」や「真心(まごころ)」という概念は、今では手垢のついた言葉に聞こえるかもしれない。しかし、それを「善悪や理屈の前に、心が動いてしまうという事実」として捉え直すとき、それは極めて現代的な問いとして響いてくる。情報の洪水の中で、何が正解かを理屈で探し続ける現代人にとって、宣長の「さかしら」への嫌悪は、一つの警鐘のようにも聞こえる。
宣長以前、『古事記』は沈黙していた。宣長以後、『古事記』は饒舌に語り始めた。その語りの一部は、ある時代には国家の威信として利用され、ある時代には神話学の素材として解体された。しかし、それらすべての解釈の土台を作ったのは、松阪の町医者が行った、愚直なまでの文献学的作業である。
鈴屋の二畳半の空間は、今も静かにそこにある。宣長が愛した鈴の音はもう聞こえないが、彼が復元した「言葉の響き」は、私たちが日本語を話し、日本の風景を眺める際、その認識の奥底に静かに伏流している。彼が明らかにしたのは、神話という過去の遺物ではなく、今この瞬間も私たちの思考を形作っている、言葉という名の「道」そのものであった。
宣長の仕事は、一見すると復古的でありながら、その実、人間の認識の根源に迫るアヴァンギャルドな試みだった。彼が三十五年をかけて辿り着いたのは、答えではなく、問いの立て方そのものの変革であったと言えるだろう。言葉を疑い、言葉を信じ、言葉を尽くして、言葉以前の心に触れる。その途方もない手間と時間の集積が、今も私たちの文化の底を支えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- mieshinsei.org
- 本居宣長は結局のところ漢意の影響を受けていたのではないでしょうか?著... - Yahoo!知恵袋detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
- 本居宣長の「告白」――やまと心と漢から意ごころ―― | 好*信*楽kobayashihideo.jp
- 本居宣長ne.jp
- 「古事記」も「源氏物語」も実は読解不能だった…日本語学の専門家が絶賛する「研究者・本居宣長」のすごさ 「係り結び」の法則がわかったから、読めるようになった (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)president.jp
- 明治維新以降の神道についての研究 |日蓮宗 現代宗教研究所genshu.nichiren.or.jp
- nii.ac.jpkeiho.repo.nii.ac.jp
- ajih.jp