2026/6/26
なぜ松阪の武家屋敷は「住み続ける場」として残ったのか

松阪の御城番屋敷について詳しく教えて欲しい
キュリオす
江戸時代末期に紀州藩士の住まいとして建てられた松阪の御城番屋敷。武士の誇りを守り抜いた彼らの子孫が、合資会社「苗秀社」を設立し、150年以上もの間、屋敷の維持管理と借家としての活用を続けている。
槙垣の向こうに息づく時
松阪城跡の石垣を見上げ、その背後へと歩を進めると、突如として風景が変わる場所がある。石畳の小路を挟んで、整然と並ぶ長屋。高く刈り込まれた槙垣の緑が、その奥に続く家の連なりを隠している。ここが「御城番屋敷」と呼ばれる場所だ。江戸時代末期に建てられた武士の住まいが、今もなお人々の暮らしの場として息づいている。なぜ、これほどまでに往時の姿を留めた武家屋敷が、現代にまで「住まう場」として継承され続けているのか。この問いは、単なる歴史的建造物の保存とは異なる、ある種の厚みを持って迫ってくる。
幕末に築かれた武士たちの誇り
御城番屋敷の歴史は、江戸時代も終わりに近い文久3年(1863年)に遡る。松阪城を警護する役目を担った紀州藩士、いわゆる「松坂御城番」とその家族のために新築された組屋敷が、この御城番屋敷である。紀州藩は、徳川御三家の一つとして知られる。松阪は紀州藩領であり、松阪城は藩の要衝としてその警護は重要であったのだ。
この御城番に任命された武士たちには、複雑な経緯があった。彼らの祖先は、徳川家康に仕えた「横須賀党」と呼ばれる武士団に由来する。家康の十男である徳川頼宣が紀州藩主となった際、彼ら横須賀党の一部が頼宣に付けられ、紀伊の国へ移り住むことになった。当初は和歌山城ではなく、藩の要地である田辺に配置され、田辺城主である安藤家を助ける「田辺与力」として代々暮らしていた。紀州藩主の直臣であることに誇りを持っていた彼らは、田辺与力として安藤家とは対等な立場であると考えていたとされる。
しかし、安政2年(1855年)に転機が訪れる。安藤家から、田辺与力は安藤家の家臣となるよう命じられたのだ。これは、藩主の直臣から、その家臣の家臣、すなわち「陪臣」への降格を意味した。横須賀党の子孫たちはこの命令に猛然と抗議したが、聞き入れられなかったため、藩士の身分を捨てて浪人となる道を選んだという。
6年にも及ぶ浪人生活を経て、彼らは藩への復帰を願い、紀州徳川家の菩提寺である長保寺の住職・海弁僧正の支援も得て、帰参運動を展開する。その結果、文久3年(1863年)に紀州藩への復帰が叶い、40石取りの直臣として「松坂御城番」の職に就くことになった。 この時、彼らの住居として松坂城南東の三の丸に築かれたのが、現在の御城番屋敷である。武士の世が終わりを告げるわずか数年前に建てられたこの屋敷は、彼らが武士としての誇りと役割を全うしようとした、その最後の輝きを示す場所であったと言えるだろう。
質実剛健な暮らしを支える長屋の構造
御城番屋敷は、松坂城の裏門跡と搦手門を結ぶ石畳の小路を挟んで、東西に二棟が並ぶ「組屋敷」の形態をとる。東棟に10戸、西棟に9戸、合わせて19戸が現存している。 各棟は桁行が90メートル近くに及ぶ平屋建てで、一戸あたりの間口は5間、奥行きも5間を基準とし、裏手には「角屋(つのや)」と呼ばれる付属建物を持つ。
屋敷の周囲は刈り込まれた槙垣で囲まれ、前庭、そして玄関には武家屋敷の特徴である「式台」が設けられている。 内部の間取りは、右手に通り土間、左手に田の字型に8畳2間と6畳2間が配される質素ながらも機能的な造りであった。これは、上級武士のような豪華絢爛な邸宅とは異なり、城の警護という実務を担う武士たちの、日々の暮らしを支えるための合理的な空間であったことを示唆している。 各戸には畑地も設けられ、自給自足に近い生活を営んでいたことがうかがえる。
この組屋敷は、単に住居としての機能だけでなく、御城番という職務を全うするための共同体としての役割も果たしていた。同じ境遇の藩士たちが隣り合って暮らすことで、連帯感を育み、互いに助け合いながら、松阪城の警護という重責を担っていたと考えられる。 幕末の不安定な時代にあって、彼らが再び得た武士としての身分と、その職務を支える住まいが、この長屋の連なりの中に具現化されていたのである。
暮らし続ける武家屋敷が示す稀少性
全国各地には、江戸時代の武家屋敷が点在し、観光資源として公開されている場所は少なくない。例えば、金沢の長町武家屋敷跡や、秋田県角館の武家屋敷群は、その代表例として挙げられるだろう。 これらの地域では、土塀や長屋門、あるいは当時の庭園などが往時の姿をとどめ、一部の屋敷は公開されて当時の生活を偲ぶことができる。しかし、その多くは観光施設として整備され、実際に人々が住み続けている例は稀である。
金沢の長町武家屋敷跡には、現在も住居として使われている屋敷が存在するものの、松阪の御城番屋敷のように、組屋敷全体が「現役の住まい」として機能し続けている例は全国的にも大変珍しいとされる。 秋田県角館の石黒家のように、子孫が住み続けながら内部を公開している武家屋敷もあるが、これも個別の邸宅のケースであり、御城番屋敷のような大規模な組屋敷の事例とは異なる。
また、長野の松代藩真田邸のように、大名家の御殿建築が残され、保存修復を経て公開されている例もあるが、これもやはり、かつての武士たちが集団で暮らした長屋とは性格を異にする。 御城番屋敷が持つ稀少性は、単に古い建物が残っているという点だけでなく、その建築様式が「組屋敷」という集団住宅であり、かつその住居として「継続的に使用・維持管理」されている点にある。 幕末という激動の時代に築かれ、明治維新という大きな変革を経てなお、その機能と景観を保ち続けていることは、極めて特異な事例と言えるだろう。
現代に続く「苗秀社」の役割
明治維新後、多くの武士が職を失い、生活基盤を失った中で、御城番屋敷の住民たちは独自の道を歩んだ。士族授産で得た資産を元手に、彼らは合資会社「苗秀社(びょうしゅうしゃ)」を設立し、以来、この御城番屋敷の維持管理にあたってきたのである。 現在も、現存する19戸のうち12戸が借家として貸し出され、一般の人々も住んでいるという。 また、そのうち1戸は松阪市が借り受け、1990年(平成2年)から内部を創建当時の姿に復元し、苗秀社に運営を委託して一般公開している。
苗秀社は、単なる不動産管理会社ではない。御城番の子孫たちが、先祖から受け継いだ屋敷を守り、次世代へと継承していくという強い使命感を持って運営されている。彼らは、横須賀党の武士たちが徳川家康に仕え、紀州藩主頼宣の直臣として誇り高く生きた歴史を重んじ、その精神を屋敷の維持管理に込めている。
2004年(平成16年)には「旧松坂御城番長屋」として国の重要文化財に指定された。 しかし、築140年を超える老朽建築物ゆえに、シロアリ被害などの問題も顕在化している。 これに対し、松阪市は修復計画を策定し、国や県の補助金も活用しながら、耐震・防災対策を含めた修復整備工事を進めている。 電柱の移転やテレビアンテナの撤去、小路の石畳化といった景観整備も行われ、往時の風情がより一層保たれるよう努められている。
過去と現在が交差する風景
松阪の御城番屋敷は、単なる歴史的建造物として過去を語るだけでなく、現在も「生活の場」として機能し続けている点で、類を見ない価値を持つ。それは、幕末という武士の時代が終焉を迎えようとする直前に、武士としての誇りを守り抜いた人々が、新たな生活の場として築き上げた住まいである。そして、その子孫たちが、明治維新後の激動の時代をも乗り越え、現代に至るまでその姿を守り続けている。
この屋敷群を訪れると、石畳の小路から聞こえる生活音や、槙垣の隙間から垣間見える庭の様子に、過去と現在が交差する感覚を覚えるだろう。歴史の教科書には載らない、名もなき武士たちの暮らしの息吹が、150年以上の時を超えて、今もそこに確かに存在している。御城番屋敷は、武士の時代が終わりを告げた後も、その精神が形を変えて受け継がれていく、その具体例を静かに示していると言える。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。