錦の御旗はなぜ旧幕府軍を「賊軍」に変えたのか?戊辰戦争の北上を辿る

淀川沿いに残る弾痕から
京都の南、伏見の街を歩くと、酒蔵の白壁や古い町並みの合間に、かつての激戦を伝える痕跡が今も点在している。伏見奉行所跡の近くにある料亭の柱には、銃弾の跡とされる窪みが残り、淀川沿いの堤防に立てば、かつて旧幕府軍が敗走した南への道筋が視界に広がる。1868年1月、ここで始まった「鳥羽・伏見の戦い」が、その後1年半にわたって日本列島を北へと縦断する内戦、戊辰戦争の幕開けとなった。
一般に、この戦争は「近代的な新政府軍が旧態依然とした幕府軍を圧倒した」という構図で語られがちだ。しかし、当時の兵力や装備を詳細に比較すると、その通説にはいくつもの綻びが見えてくる。開戦時、大坂城に集結していた旧幕府軍は約1万5000人。これに対し、京都を固める新政府軍(薩摩・長州・土佐など)は、その3分の1程度の5000人弱に過ぎなかった。装備にしても、幕府側にはフランス軍事顧問団によって訓練された最新鋭の「伝習隊」が存在し、シャスポー銃という当時世界最高峰のライフルすら導入されつつあった。
数においても、一部の質においても勝っていたはずの旧幕府軍が、なぜわずか数日の戦闘で総崩れとなり、大坂城を捨てて江戸へと逃げ帰らねばならなかったのか。そして、本来であれば江戸の無血開城で終わるはずだったこの争いが、なぜ北越、会津、そして蝦夷地へと戦火を広げ、泥沼の長期戦へと変貌していったのか。そこには、単なる兵器の性能差だけでは説明できない、政治的な「装置」の威力と、地方諸藩が抱えていた固有の論理が複雑に絡み合っている。
歴史の教科書では数行で片付けられるこの北上のプロセスを辿り直すと、当時の日本が直面していた「正統性」を巡る凄まじいまでの奪い合いと、近代国家という枠組みに無理やり押し込められていく地方の悲鳴が聞こえてくる。それは、勝者が書き換えた「維新」という物語の裏側に、今も静かに沈殿している事実の積み重ねである。では、あの日、伏見の街を焼き尽くした火は、どのような論理で北の果てまで運ばれていったのだろうか。
錦の御旗という「装置」の威力
鳥羽・伏見の戦いにおける最大の転換点は、戦闘開始から2日目の1月4日、新政府軍の陣営に翻った「錦の御旗」であった。これは岩倉具視が密かに構想し、玉松操がデザインして品川弥二郎らが京都市中で材料を調達し、秘密裏に製作させたものだ。歴史上、錦の御旗は朝敵を討つ官軍の象徴として承久の乱などで用いられた記憶があったが、江戸時代の長い平和の中で、それは半ば伝説上の存在となっていた。
この旗が戦場に現れた瞬間、軍事的な優劣は一気に政治的な「正邪」の問題へと置換された。徳川慶喜を擁する旧幕府軍は、自らが「賊軍」になったことを突きつけられたのである。特に会津藩や桑名藩といった、天皇への忠誠をアイデンティティの根幹に置いていた藩にとって、この精神的打撃は計り知れなかった。兵力で勝りながらも、旧幕府軍の指揮系統は麻痺し、慶喜は大坂城から軍艦・開陽丸で江戸へと脱出する。総大将が戦線を離脱したことで、旧幕府軍は組織としての体をなさなくなり、戦火は一気に東へと移った。
しかし、江戸へ戻った慶喜が選んだのは、徹底抗戦ではなく「絶対恭順」であった。1868年4月、勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城は無血開城される。この時点で、徳川宗家としての戦争は事実上終結したと言ってよい。だが、この政治決着は、現場で戦っていた兵士たちや、徳川への義理を重んじる諸藩の納得を得るものではなかった。江戸を追われた旧幕府軍の残党は、彰義隊として上野の山に立てこもり、あるいは北関東へと逃れて再起を図った。
5月15日、大村益次郎率いる新政府軍がアームストロング砲を投入し、わずか1日で上野戦争を終結させた事実は、新政府軍の圧倒的な火力を象徴するエピソードとして語られる。だが、この「1日での勝利」が、皮肉にも新政府側の慢心を生み、北へと向かう戦火をより苛烈なものにする土壌を作った側面もある。江戸という巨大な政治拠点を失いながらも、抗戦派の武士たちは「徳川の正義」を地方に求め、北へ、さらに北へと敗走ではなく「転戦」を続けていくことになった。
北越、河井継之助が賭けた中立の代償
戦火が北上する中で、最も特異な局面を見せたのが越後、現在の新潟県を舞台とした北越戦争である。ここで新政府軍の前に立ちふさがったのは、長岡藩の家老、河井継之助であった。継之助は当初、新政府側にも旧幕府側にもつかない「武装中立」を模索していた。彼はスイスのような中立国を目指し、藩政改革で蓄えた資金を投じて、当時日本に3門しかなかったとされる最新兵器、ガトリング砲を2門も購入していた。
1868年5月、継之助は小千谷の慈眼寺で新政府軍の軍監・岩村精一郎と談判に臨む。継之助の狙いは、長岡藩が仲介役となって会津藩などとの和平を導くことにあった。しかし、わずか24歳の若造であった岩村は、長岡藩の言い分を時間稼ぎと断じ、即座に宣戦を布告する。この「小千谷談判」の決裂により、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍との全面戦争に突入した。
北越の戦いは、戊辰戦争の中でも屈指の激戦となった。継之助率いる長岡軍は、ガトリング砲やエンフィールド銃を駆使し、泥濘の湿地帯で新政府軍を翻弄した。一度は陥落した長岡城を夜襲によって奪還するという、近代戦では稀な戦果すら挙げている。しかし、工業力と兵站に勝る新政府軍に対し、一藩の軍事力には限界があった。継之助は足に銃弾を受け、その傷が元で敗走中に命を落とす。
長岡藩が壊滅したことで、新政府軍を遮る壁は消え、戦場は奥羽の核心部、会津へと移る。継之助の目指した「中立」という選択肢が、新政府の「一君万民」という一元的な支配論理によって粉砕された事実は、地方の自律性が近代国家の誕生とともに失われていく過程を象徴している。長岡の街は灰燼に帰したが、そこで放たれたガトリング砲の咆哮は、武士の個人的な武勇を機械的な火力が凌駕していく、新しい時代の残酷な幕開けでもあった。
会津、伝統と近代兵器の瓦解
1868年8月、戦火はついに会津若松へと達した。会津藩主・松平容保は、京都守護職として長年京の治安維持にあたり、孝明天皇からも厚い信頼を寄せられていた人物である。彼にとって、自らが「朝敵」とされることは耐え難い屈辱であり、会津藩士たちにとっても、この戦争は故郷を守るための聖戦であった。しかし、白河口の要衝を突破した新政府軍は、怒涛の勢いで若松城下へと迫る。
会津戦争は、もはや正規軍同士の衝突に留まらなかった。白虎隊に象徴される少年兵、そして女子隊や農民までもが戦いに巻き込まれ、凄惨な籠城戦が1ヶ月にわたって展開された。新政府軍は若松城を見下ろす小田山に大砲を据え、連日連夜、数百発の砲弾を城へと打ち込んだ。鶴ヶ城の石垣は砕け、屋根は崩落し、城内は死傷者で溢れかえった。
この戦いにおいて、新政府軍が使用したスナイドル銃の威力は決定的であった。従来のゲベール銃やミニエー銃が、銃口から弾を込める「前装式」であったのに対し、スナイドル銃は手元から弾を込める「後装式」である。これにより、新政府軍の兵士は伏せたまま、あるいは物陰に隠れたまま、旧幕府軍の数倍の速さで連射することが可能となった。会津軍が古来の戦法や勇猛さに頼る一方で、新政府軍は「姿を見せずに弾丸の雨を降らせる」という、非情なシステムとしての戦争を遂行したのである。
9月22日、会津藩は降伏。城門には白旗が掲げられた。戦後の会津には、過酷な運命が待ち受けていた。近年の研究では、従来語られてきた「遺体の埋葬禁止」という説は、衛生上の理由から新政府軍が埋葬を命じていた史料が見つかるなど、修正が進んでいる。しかし、藩士たちが下北半島の斗南藩へと強制移住させられ、極寒の地で飢えに苦しんだ事実は変わらない。会津の敗北は、単なる一藩の滅亡ではなく、江戸時代を支えてきた「武士の義」という精神構造そのものが、近代という巨大な歯車に磨り潰された瞬間であった。
蝦夷へ向かう艦隊と消えた「共和国」
東北での戦いが終焉を迎えつつあった1868年8月、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、開陽丸をはじめとする8隻の艦隊を率いて品川沖を脱出した。彼の目的は、行き場を失った旧幕府軍の将兵を蝦夷地(北海道)へと運び、そこで徳川の遺臣による開拓と防衛を行うことにあった。この艦隊には、会津や北越を生き延びた土方歳三ら新選組の残党や、フランス軍事顧問団の Jules Brunet(ジュール・ブリュネ)らも同行していた。
箱館(函館)に上陸した榎本らは、五稜郭を拠点に「蝦夷共和国」とも称される独自の政権を樹立する。これは、日本で初めての選挙による公選制を導入した組織であったが、その実態は、依然として徳川への忠誠を基盤とした武士の集団であった。彼らは新政府に対し、蝦夷地の統治を認めるよう請願したが、統一国家を目指す新政府がこれを容認するはずもなかった。
1869年3月、宮古湾海戦で新政府軍の新鋭艦「甲鉄」の奪取に失敗した榎本軍は、海上の制空権ならぬ制海権を完全に失う。5月、新政府軍は箱館への総攻撃を開始。土方歳三は一本木関門付近で戦死し、五稜郭は孤立無援の状態に陥った。フランス軍事顧問団のブリュネらは、本国からの帰国命令に従う形で、陥落直前にフランス軍艦へと脱出する。彼らにとって、この戦争は武人としての義理を果たす場であったが、国際政治の冷徹な計算の前には、一時の夢に過ぎなかった。
5月18日、榎本武揚はついに降伏し、五稜郭は開城された。ここに、1年半にわたった戊辰戦争は幕を閉じる。榎本が降伏の際、新政府軍の参謀・黒田清隆に贈ったとされるオランダ留学時代の万国公法(国際法)の書物は、彼が目指したものが単なる反乱ではなく、国際社会に通用する「国家」の模索であったことを物語っている。しかし、その夢は、日本を一つの強力な中央集権国家へと作り替えようとする新政府の意志によって、北の海へと沈められた。
終わらせ方の美学と、残された傷跡
戊辰戦争の終結は、単なる軍事的な決着以上の意味を持っていた。榎本武揚や大鳥圭介といった旧幕府軍の幹部たちは、戦後、その才能を惜しまれて明治政府へと出仕し、日本の近代化を支える官僚や技術者へと転身していった。この「敗者の吸収」こそが、その後の廃藩置県をスムーズに進め、国民国家としての日本を短期間で構築できた要因の一つと言えるだろう。
しかし、その一方で、会津や長岡といった「賊軍」の烙印を押された土地には、深い傷跡が長く残ることとなった。明治政府が編纂した正史において、彼らは「文明の進歩を阻む旧勢力」として記述され、その忠義や苦悩は、国家の物語の余白へと追いやられた。各地に残る碧血碑(へきけつひ)や招魂社は、国家に認められなかった死者たちを、地元の民衆が密かに、あるいは誇りを持って弔い続けてきた記憶の器である。
現代の私たちが、京都の弾痕や函館の五稜郭を訪れて感じるのは、単なるノスタルジーではない。それは、わずか150年ほど前、この国がどのようにして「一つ」になったのか、その過程で何を捨て、何を無理やり繋ぎ合わせたのかという、生々しい設計図の断片である。戊辰戦争は、北上するにつれてその目的を「徳川の再興」から「生存の確保」へと変質させ、最後には「近代国家の枠組みそのものへの問い」へと昇華していった。
戦争が終わったとき、日本はもはや260余りの藩が並び立つ国ではなくなっていた。旧幕府軍が北へ逃れ、それを新政府軍が追いかけるというプロセスそのものが、結果として日本列島を一つの行政区画へと塗りつぶしていく作業となったのである。函館の海を見つめるとき、そこにあるのは敗北の記憶だけではない。かつてこの国に存在した、複数の「正義」が激突し、一つの巨大な「現実」へと収束していった、その凄まじいまでのエネルギーの残響なのである。

旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- ジュール・ブリュネ | みなみ北海道 最後の武士(もののふ)達の物語 - 戊辰戦争 終結150周年記念 - The civil war of The Last SAMURAI / 函館・みなみ北海道boshin150-minamihokkaido.com
- 「錦の御旗」は戦況に関係なかった?鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」がもたらした本当の影響とは?【前編】 | 歴史・文化 - Japaaanmag.japaaan.com
- 幕末(下)――錦の御旗が天下を分けた時|NextStep_YKnote.com
- 「錦の御旗」由来考 | 書肆犀 | 書肆犀(しょしさい)は、山形県内の表現者たちの本を数多くてがけている編集・出版工房です。syoshi-sai.com
- 長岡戦争と西洋式銃(鉄砲)/名古屋刀剣博物館・名古屋刀剣ワールドmeihaku.jp
- kina-saffron.com
- 幕末長岡藩の切れ者・河井継之助|連射OKなガドリング砲を購入して戊辰戦争へbushoojapan.com