2026/6/8
豪雪の鯖江、眼鏡産業はどのようにして生まれたのか

鯖江の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
福井県鯖江市は眼鏡フレーム国内生産の9割以上を占める。原材料も市場も遠いこの地で、なぜ眼鏡産業が発展したのか。江戸時代の漆器や繊維産業、明治期の増永五左衛門による産業導入、チタン加工技術の確立、そして職人の分業体制といった歴史的経緯を辿る。
福井県の嶺北地方に位置する鯖江市は、眼鏡フレームの国内生産の9割以上を占めることで知られている。しかし、なぜこの雪深い盆地で、精密な加工技術を要する眼鏡産業がこれほどまでに発展したのか。一見すると、原材料も市場も遠いこの地で、眼鏡づくりが地場産業として根付いた経緯には、地域の厳しい自然条件と、そこから生まれた人々の選択が深く関わっている。この問いの背後には、単なる産業の歴史を超えた、土地と人の営みの物語が横たわっているのだ。
鯖江の歴史を辿ると、まず江戸時代に遡る。現在の鯖江市域は、江戸時代には鯖江藩間部家の城下町として栄えた。間部氏は越前漆器の振興に力を入れ、藩の財政を支える重要な産業として奨励したという。また、古くから織物も盛んで、特に江戸時代中期には麻織物の「越前縮」が特産品となり、全国に流通していたとされる。しかし、これらの産業も、地域全体を潤すには限界があった。鯖江が位置する福井平野は、冬になると日本海からの湿った空気がぶつかり、例年多くの雪が降り積もる豪雪地帯である。農閑期となる冬場は、農民たちが収入を得る手段に乏しく、暮らしは常に厳しかったのだ。
明治時代に入り、廃藩置県によって鯖江藩は消滅し、新たな産業の模索が始まる。この時期、地域の有力者たちは、冬場の副業として定着する新たな産業の導入を模索していた。そのような中で、後に眼鏡産業の礎を築くことになる人物が現れる。明治後期、当時福井県議会議員を務めていた増永五左衛門である。彼は、地域の貧困を目の当たりにし、冬場の農閑期に安定した収入をもたらす産業の必要性を痛感していた。増永は、当時まだ珍しかった眼鏡の製造に目をつけ、大阪や東京から職人を招き、農家の次男三男たちに技術を学ばせることを決意する。この増永の決断が、後の鯖江の運命を大きく変えることになる。
鯖江が眼鏡産業の集積地となった背景には、いくつかの決定的な転換点と、地域に根付いた職人の気質が複合的に作用している。一つ目は、前述の増永五左衛門による「産業導入の決断」である。彼は明治38年(1905年)に大阪から眼鏡職人を招き、技術指導を開始した。当初は手作業によるセルロイド製フレームの製造が中心で、粗悪品も多かったというが、増永は品質向上に努め、生産体制を整えていった。
二つ目は、「チタン加工技術の確立」である。1980年代に入ると、より軽量で丈夫な素材としてチタンが注目されるようになる。しかし、チタンは加工が難しく、従来の眼鏡製造技術では対応できなかった。鯖江の眼鏡メーカーは、この難題に果敢に挑んだ。溶接技術の確立から始まり、プレス、研磨、メッキといったあらゆる工程で試行錯誤を繰り返し、世界で初めてチタンフレームの量産化に成功する。この技術革新は、鯖江の眼鏡産業を世界レベルへと押し上げる決定打となった。
三つ目は、「分業体制の確立と継承」である。鯖江の眼鏡製造は、約200にも及ぶ工程があり、それぞれを専門の職人が担う高度な分業体制が特徴だ。フレームデザイン、金型製作、プレス、溶接、研磨、メッキ、組み立てなど、各工程に熟練の職人が存在し、互いに連携しながら一つの製品を作り上げていく。この緻密な分業体制は、初期の眼鏡製造から自然発生的に生まれ、それぞれの職人が自身の技術を追求し、次世代へと継承してきた結果である。厳しい冬の副業として始まった眼鏡づくりが、いつしか専門技術の粋を集めた一大産業へと変貌を遂げたのだ。
鯖江の眼鏡産業の発展を考える上で、他の地域に見られる特定の産業集積地と比較することは、その特性をより鮮明にするだろう。例えば、岐阜県多治見市や愛知県瀬戸市といった陶磁器の産地は、古くからその土地で採れる良質な粘土という「原材料」に恵まれ、窯業技術が発展してきた。また、新潟県燕市は、江戸時代に和釘の生産から始まり、洋食器や金属加工へと転換した金属加工の町である。燕市もまた、冬場の副業として金属加工が根付いた点で鯖江と共通点を持つ。
しかし、鯖江の眼鏡産業は、陶磁器産地のように「原材料」が豊富であったわけではない。また、燕市のように古くからの金属加工の延長線上にあったわけでもない。鯖江の場合、着目すべきは「技術の導入」と「素材への挑戦」という点にある。増永五左衛門が外部から技術を導入したように、既存の資源に依拠するのではなく、新たな技術を学び、それを地域に根付かせようとした意志が強い。さらに、チタンという加工困難な新素材に世界で初めて挑み、成功を収めたことは、単なる技術の継承に留まらない、絶え間ない「革新への意欲」があったことを示している。陶磁器が「土」という自然の恵みを活かした産業であるのに対し、鯖江の眼鏡は、厳しい環境下で新たな技術と素材を追求し続けた「人の手」と「探究心」が生み出した産業だと言えるだろう。
現在の鯖江市には、眼鏡フレーム関連企業が約150社、関連事業所を含めると約300社が集積している。これは、眼鏡フレームの国内生産量の9割以上を占める数字である。かつては冬場の副業であった眼鏡づくりは、いまや鯖江市の基幹産業となり、地域の経済を支えている。市内には、眼鏡ミュージアムや体験工房が設けられ、観光客が眼鏡づくりの歴史や工程に触れる機会も提供されている。
しかし、その道のりは平坦ではない。安価な海外製品との競争や、少子高齢化による後継者不足といった課題は常に存在する。だが、鯖江の眼鏡業界は、単なる量産品としての眼鏡ではなく、「メイド・イン・鯖江」の品質とデザイン性を追求することで、その価値を高めてきた。熟練の職人技と最先端の機械技術が融合し、国内外の著名なデザイナーやブランドとのコラボレーションも盛んに行われている。また、医療用やスポーツ用といった特殊な機能を持つ眼鏡の開発にも力を入れ、新たな市場を開拓しているのだ。
鯖江の眼鏡産業の歴史を紐解くと、そこには単なる経済的な成功物語だけではない、ある種の地域性が浮かび上がってくる。冬の厳しい豪雪が、農閑期の副業を必要とし、それが新たな技術の導入へと繋がった。そして、導入された技術は、分業という形で深化し、チタンという難素材への挑戦を可能にした。
この一連の動きは、目の前の困難に対し、諦めずに解決策を探し、新たな可能性を切り開いてきた人々の粘り強さを示している。原材料に恵まれない土地で、外部から技術を学び、さらに自ら素材を加工する技術を世界レベルにまで高めた。それは、一見すると不便な立地条件が、かえって技術への飽くなき探究心と、品質への徹底したこだわりを育んだ結果とも捉えられるだろう。鯖江の眼鏡は、単なる視力矯正器具ではなく、厳しい自然と向き合い、技術を磨き続けてきた人々の歴史そのものを映し出している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。