2026/6/8
越前・大虫神社、イナゴ退散の伝承と虫除けの神威

越前の大虫神社について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
越前国でイナゴの大発生に際し、虫除けの神として崇敬を集めた大虫神社の創建と歴史を辿る。平安時代の名神大社から武将の信仰、兵火による焼失と再興を経て、現在も続く鬼ヶ嶽火祭りを伝える。
大虫神社の創建は、社伝によれば崇神天皇7年(紀元前91年)にまで遡るとされる。当初は現在の鬼ヶ嶽(かつての丹生嶽)の頂に、この地の開拓神である天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)の霊を祀ったのが始まりだという。その後、第11代垂仁天皇26年(紀元前4年)のこと、国中にイナゴが大発生し、五穀に甚大な被害をもたらした。人々が困窮し、こぞって神社に祈願したところ、不思議にもイナゴは退散し、五穀豊穣がもたらされたと伝えられている。この神徳に感銘を受けた朝廷の命により、神社は現在の宮地に遷され、「虫除守護」の神威を仰ぎ「大虫神社」と称されるようになったのだ。
平安時代に入ると、大虫神社は『続日本紀』に神階授与の記事が見えるようになり、延喜式神名帳では越前国で数少ない名神大社の一つに列せられるほど、その地位を高めていった。中世には新田、斯波、朝倉といった武将たちからも篤い崇敬を受け、全盛期には2万8千石もの社領と120戸もの社人を有する大社であったという。しかし、天正4年(1576年)、柴田勝家の兵火によって社殿は焼失の憂き目に遭う。この時、宮司や村人たちは命がけで御神体を鬼ヶ嶽の祠へと運び、守り抜いたという逸話が残る。その後、豊臣秀吉の命により再興され、さらに松平越前守秀康の時代には本多伊豆守によって修造されるなど、歴代の領主からも信仰を集めてきた。天正11年(1583年)には、小虫神社、雷神社、雨夜神社といった式内社が合祀され、現在の祭神構成へと至っている。
「大虫」という社の名が直接的に示すのは、イナゴの大発生という具体的な脅威と、それに対する人間の切実な願いであった。垂仁天皇の時代に起こったとされる蝗害は、当時の稲作中心の社会にとって、飢餓に直結する深刻な事態であったに違いない。神社への祈願が功を奏し、イナゴが退散したという伝承は、自然の猛威に対する古代の人々の畏れと、それを神の力によって克服しようとする信仰の強さを物語っている。
また、別の伝承として『越前国官社考』には、丹生嶽の麓に生える杉の大木の梢に住む悪虫の鳴き声が都にまで届き、帝が病に臥したという話が記されている。大伴連の祖である武日語命が大蒸大神(大虫神社の古称)に祈願したところ、帝の病が癒えたため、現在の地に社殿が造営されたとも伝えられる。これらの伝承は、単なる害虫駆除に留まらず、広範な「虫」がもたらす災厄、すなわち病や疫病からの守護をも願う信仰が根底にあったことを示唆する。大虫神社は、五穀豊穣と人々の健康を守るための、いわば総合的な「虫除守護」の神としての役割を担ってきたのだ。
「虫」をめぐる信仰は、大虫神社に限らず日本各地に多様な形で存在している。例えば、同じく「大虫神社」の名を持つ京都府与謝野町の神社では、大己貴命と少彦名命がそれぞれ「大虫」「小虫」と名乗り、体外の病と体内の病を治すことを誓い合ったという伝承がある。これは越前の大虫神社が農作物への害虫退散を主眼とするのに対し、より広範な病気や災厄からの守護を「虫」という言葉に託している点で対照的である。また、京都市の三宅八幡宮は「虫八幡」とも呼ばれ、子どもの「かんの虫封じ」や害虫駆除に御利益があるとされる。これらの例は、「虫」という言葉が持つ多義性、すなわち農作物の害虫から、人々の病、さらには子どもの癇癪といった内的な不調までをも包含する信仰の広がりを示している。
各地の農村で古くから行われてきた「虫送り」の行事も、虫に対する人々の意識をよく表している。これは松明を掲げ、鉦や太鼓を鳴らしながら害虫を水田から追い出す呪術的な儀礼である。地域によっては、稲を食い荒らすイナゴが平家物語の斎藤実盛の怨霊と結びつけられ、「実盛送り」として行われることもある。これらの行事は、単に害虫を物理的に駆除するだけでなく、害虫を災厄をもたらす霊的存在と捉え、それを鎮め、村境から送り出すことで、共同体の安全と豊作を願うものであった。大虫神社の信仰は、こうした広範な「虫」をめぐる日本の民間信仰の一つの典型でありながら、特定の地域における蝗害という具体的な出来事を起源とする点で、その来歴を明確にしている。
現在の越前市大虫町に鎮座する大虫神社は、今も地域に根差した存在である。境内へと続く参道には大鳥居が立ち、大虫川に架かる石造りの「宮橋」は、大正8年(1919年)に架けられた国の登録有形文化財であり、「眼鏡橋」とも呼ばれる。本殿の背後には収蔵殿があり、平安時代後期に制作されたとされる木造男神坐像二躯(伝天津日高日子穂穂出見命、伝塩椎神)が安置され、これらは国の重要文化財に指定されている。
境内には「大岩神社」(おいわさま)と呼ばれる社があり、巨大な岩が神体として祀られている。この岩は自ら動いて山を上り下りするという伝承も残されている。その傍らには「石神の湧水」が湧き、かつては簡易水道の水源にも利用されたほどの清らかな水が今も流れ出ている。
そして、毎年8月15日の夜には「鬼ヶ嶽火祭り」が催される。松明を掲げた人々が、大虫神社を出発し、かつて御神体が鎮座していた鬼ヶ嶽の山頂を目指して登っていく勇壮な神事である。この祭りは、単なる伝統行事としてだけでなく、神社の起源を現代に伝える重要な役割を担っている。
大虫神社の「大虫」という名称は、古代の人々が直面した具体的な脅威と、それに対する信仰の応答を今に伝える。現代の農業において、害虫対策は化学的な手法が主流となり、かつてのような大規模な蝗害は稀になった。しかし、作物を育む営みがある限り、虫との関係が完全に断ち切られることはない。
この神社が示しているのは、人間が自然と向き合い、その中で生きていくための知恵と、時に抗いがたい力を持つ自然現象をどのように理解し、対処してきたかという歴史である。イナゴの退散を祈り、神威を仰いだ古代の出来事は、単なる伝説ではなく、この土地で生きる人々にとっての切実な現実であった。そして、その現実が「大虫」という名とともに、2000年以上の時を超えて現代にまで伝えられている。その名は、土地の記憶であり、人間と自然との根源的な関係性を静かに問い続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。