巨大な宿場町だった上松宿が古い江戸の町並みを残していないのはなぜか

木曽路で異彩を放つ街並み
中山道を歩いて木曽路に入ると、多くの人が奈良井宿や妻籠宿のような風景を思い浮かべる。庇が低く張り出した木造の出格子、黒ずんだ板壁、江戸時代の面影をそのまま凍結したかのような街並みだ。しかし、木曽十一宿の中央付近に位置する上松宿に足を踏み入れると、その期待は拍子抜けすることになる。目の前に広がるのは、アスファルトの道路に昭和期の住宅や商店が整然と立ち並ぶ、ごく普通の山間の街並みだからだ。
だが、江戸時代の記録を紐解くと、この印象は覆される。天保14年(1843年)に編纂された『中山道宿村大概帳』によれば、上松宿の宿内人口は2,482人、家数は362軒を数えた。木曽路の中で最も宿長が長く、今日でも江戸の景観を残す奈良井宿が人口2,155人、家数409軒であったことを思えば、上松宿は奈良井を上回る人間がひしめく、木曽谷有数の巨大な宿場であった。
保存地区として名を馳せる隣宿に対し、なぜ上松宿だけがこれほど劇的に町並みを変えたのだろうか。あるいは、この街が誇ったかつての繁栄は、旅人を泊めるだけの一般的な宿場町とは、まったく異なる仕組みによって作られていたのだろうか。
木曽氏の城下から尾張藩の林政拠点へ
上松宿が街道の拠点として動き出すのは、戦国時代の初期にさかのぼる。天文2年(1533年)、木曽谷を治めていた木曽氏17代の木曽義在が、領内の馬籠から洗馬に至る道を整え、宿駅を定めたのが始まりとされる。木曽義在の弟である玉林和尚は天正年間(1573〜1592年)に街道沿いの高台へ玉林院を開山し、19代木曽義昌の弟である木曽義豊は天神山に上松館を築いて「上松蔵人」と名乗った。上松は、木曽氏の軍事・政治を支える要害の地であった。
慶長5年(1600年)、木曽義利が家康によって改易されると大名としての木曽氏は没落するが、翌慶長6年(1601年)に徳川幕府によって五街道が整備されると、上松宿は中山道38番目の宿駅として正式に組み込まれた。慶長13年(1608年)には木曽代官の山村良勝が條目を出し、宿場としての体裁が本格的に整えられていく。
だが、17世紀半ばに上松宿の性格を根底から変える出来事が起きる。江戸城の建築や城下町の形成、全国的な都市化にともない、木曽の山々から大量のヒノキが切り出された結果、森林の荒廃が進み、山々は禿山と化しつつあった。この事態に危機感を抱いた尾張徳川家は、寛文3年(1663年)から翌年にかけて大規模な現地調査を実施する。そして寛文5年(1665年)、林政改革を断行した。
尾張藩は、それまで代官山村氏に委ねていた山林の管理権を取り上げ、自らの直轄とした。その監視と運材の全権を担う拠点として上松に「材木役所(御陣屋)」を設置する。初代材木奉行の佐藤半大夫は、一般の立ち入りを禁じる「留山」を指定し、住民の利用が許された「明山」と厳格に区別した。
さらに宝永5年(1708年)には「停止木制度」および「留木制度」が敷かれ、ヒノキ、サワラ、アスナロ(アスヒ)、ネズコ、コウヤマキの「木曽五木」の伐採が全面禁止された。俗に「ヒノキ一本首一つ、枝一本腕一つ」とまで恐れられた厳重な山林取締りである。山林からの収入を奪われた地元の農民たちは、養蚕や座繰製糸、木曽馬の飼育へと生きる道を転換せざるを得なくなった。
明治時代を迎えると、今度は近代化の波が上松の運命を塗り替える。木曽川沿いに水力発電用のダムが相次いで建設され、江戸時代から続いていた「流送」――木材を直接川に浮かべて流す運材方法――が不可能になったのである。
これに代わって登場したのが鉄道であった。明治44年(1911年)に中央本線が全線開通すると、大正5年(1916年)以降、木曽川の支流に向けて網の目のように森林鉄道が敷設された。山奥から切り出された材木は森林鉄道の小列車に乗せられ、すべて上松駅前へ集められた。こうして上松宿は、宿場町としての役割を完全に終え、日本有数の木材集散都市へと変貌を遂げていく。
三千五百坪の役所と二万五千人の行列
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、上松宿の宿長は5町31間(約580メートル)。上町、本町、仲町、下町の4つの区画で構成されていた。本陣は代々藤田九郎左衛門家が務め、脇本陣および問屋役は原家が代々その職を兼ねた。
文化6年(1809年)には伊能忠敬が日本沿海輿地全図の測量途上に本陣へ宿泊し、文久元年(1861年)11月2日には、将軍徳川家茂に降嫁する皇女和宮がこの本陣で一夜を明かしている。和宮の行列は総勢2万5千人から3万人に達し、隊列の長さは約50キロにも及んだという。狭い木曽谷の宿場単体で収まりきる規模ではなく、上松宿を中心に前後数箇所の宿場が何日も前から不眠不休で準備に追われた。
だが、上松宿の構造において注目されるのは、本陣や脇本陣の並ぶ街区のすぐ西側に、圧倒的な規模の「上松材木役所」が存在したことである。
材木役所の敷地は、南北65間(約118メートル)、東西55間(約100メートル)、総面積3,500坪におよんだ。周囲には土塁と柵がめぐらされ、敷地内には大砲まで配備されていた。奉行をはじめ、吟味役、調役、目代、元締、同心といった尾張藩の役人が多数派遣され、木曽谷全体の材木の伐採、検分、極印打ち、移出のすべてを独占的に統制していた。上松宿は単なる旅人の休憩地ではなく、尾張藩の膨大な財源を弾き出す巨大な産業行政都市であり、軍事的な警戒区域でもあったのである。
もうひとつ、上松宿に人が集まった理由は、宿場の前後に配置された難所と絶景の存在であった。
宿場の北側には、木曽川の断崖絶壁に木橋を掛け渡した街道屈指の難所「木曽の桟(かけはし)」が横たわっていた。落石が頻発する危険地帯を無事に渡り切った旅人は、安堵とともに上松宿へ転がり込んだ。
一方、宿場の南側には、木曽川の花崗岩が激流に削られてできた奇岩の勝地「寝覚の床(ねざめのとこ)」と、15メートルの落差を誇る「小野の滝」が待っていた。葛飾北斎や歌川広重の浮世絵にも描かれ、新選組の土方歳三も歌を詠んだ小野の滝は、中山道を渡る旅人が必ず足を止める名所であった。
寝覚の床の参道入口には立場茶屋「たせや」が暖簾を掲げ、大名や公家などの貴人が立ち寄る際には高札を立てて礼を尽くした。道を挟んだ向かいには、創業300年を誇る蕎麦屋「越前屋」があり、「寿命そば」を目当てにする旅人で賑わった。上松宿は、尾張藩の厳格な統制機構と、物見遊山の旅人を呑み込む観光都市の二つの顔を合わせ持っていたのである。
保存された宿場と更新された産業都市
なぜ奈良井宿や妻籠宿には古い木造民家が整然と残り、上松宿には残らなかったのか。その理由は、明治以降の産業構造の差に求められる。
奈良井宿や妻籠宿は、鳥居峠や木曽峠といった険しい難所の前後に位置する純粋な「交通依存型の宿場」であった。明治期に鉄道や新道(現在の国道)が建設された際、これらの宿場は主要な交通ルートから外れるか、単なる通過点となった。産業基盤を持たなかったため大規模な開発の手が入らず、経済的に停滞したことが、結果として江戸時代の木造建築群を奇跡的に取り残すことになった。いわば「取り残されたことによる保存」である。
これに対し上松宿は、尾張藩の材木役所が置かれて以来の「木材産業の集積地」であった。明治から大正にかけて森林鉄道が全通すると、上松駅前には広大な貯木場や製材工場が次々と建設された。全国から木材業者や作業員が集まり、町は留まることなく近代産業都市へと自己更新を重ねていったのである。
しかし、木材産業都市としての栄華は、同時に巨大な脆弱性を抱え込むことを意味していた。至るところに積み上げられた乾燥木材と、高密度に密集した木造住宅。上松宿は、火災に対して極めて貧弱な構造になっていた。
昭和25年(1950年)5月13日夜、決定的な惨禍が町を襲う。「上松大火」である。
出火した火は強風に煽られ、瞬く間に市街地を呑み込んだ。本町、仲町、下町、栄町、そして上松駅や広大な材木置き場に至るまで、実に615棟が灰燼に帰した。江戸時代から続いていた本陣や脇本陣の屋敷、多くの旅籠建築は、この一夜ですべて消滅した。幸いにも住民の迅速な避難により死者は出なかったが、旧中山道の面影は根底から焼き尽くされた。
大火後の復興において、上松町は過去の街並みを再現する道を選ばなかった。近代的な防火都市としての再編である。道路は大幅に拡幅され、延焼を防ぐ直線の区画整理が行われた。宿場の南側を走る一級河川・中沢川が延焼を食い止めた教訓から、水路や帯状の空地を組み込んだ町並みが新たに築かれた。
この凄まじい大火の中で、奇跡的に焼け残った区域がある。宿場の最北端に位置する「上町」である。風向きの偶然と、江戸時代から築かれていた「高塀(防火壁)」のおかげで火の手を免れた上町だけが、かつての上松宿の佇まいを現代へと手渡すことになった。
上町に残る屋根と貯木場のヒノキ
JR上松駅の改札を出ると、駅のすぐ裏手に広大な土場が広がっているのが目に入る。積み上げられた太い木曽ヒノキの丸太群と、風に乗って運ばれてくる澄んだ木の香り。上松が今なお木曽ヒノキの取引と情報発信の現役の拠点であることを示す風景だ。
駅前から北へ向かって10分ほど歩くと、風景の質がふっと変わる。昭和の防火区画を抜け、北端の上町地区へ入るからだ。
ここには、出庇を支える木組みが2階部分を外側へ迫り出させた「せがい造り」の民家や、切り妻造り・平入りの中山道風情を残す建物が軒を連ねている。道路の幅もここだけは昔の街道の狭さを保っており、アスファルトの上を歩いていても往時の密度が伝わってくる。
上町の東側の高台には、天正年間の創業と伝わる聖岩山玉林院が静かに佇んでいる。境内に入る鐘楼門は、江戸中期の明和3年(1766年)に再建されたもので、昭和25年の大火はもちろん、明治27年(1894年)の大火をも潜り抜けた。上松町指定の文化財であるこの門を潜ると、苔むした石垣の上に幾尊もの石仏が並んでいる。高遠石工としても知られる名工・守屋貞治やその弟子が刻んだとされる子安地蔵や延命地蔵であり、その素朴で引き締まった表情は、火災を逃れた境内の樹齢200年のクロマツとともに静寂をつくっている。
上町周辺では、焼け残った土蔵や古民家を活用する試みも始まっている。大火を免れた蔵をリノベーションしたカフェ「古民家 留」は、高い天井と太い梁をそのまま見せた空間になっており、明治初期以前の土蔵造りを生かした和菓子店「菓子処 和心」では、黒光りする梁の下で季節の生菓子が味わえる。蒸した栗の実に砂糖だけを加えて茶巾で絞る木曽名物の「栗きんとん」は、素朴だが栗本来の香りが強く、この地域が山深き街道筋であったことを思い出させる。
上町からさらに北へ進み、中沢川の古い石積みの橋桁を越えて国道19号沿いへ出ると、立場茶屋であった「たせや」の建物が現れる。せがい造りの重厚な旅籠建築で、現在は民宿としてその姿を維持している。その向かいには蕎麦屋「越前屋」があり、さらに進むと滑川の急流の先で、岩肌を噛むように流れ落ちる「小野の滝」が行く手を遮る。
滝のすぐ真上には、明治42年(1909年)に建設された旧中央本線のレンガ造り橋脚が跨がっている。水飛沫を上げる滝と、重厚な赤いレンガのアーチ。浮世絵に描かれた江戸の景勝と、明治の近代化遺産が上下に重なり合うこの場所こそ、上松宿が歩んできた歴史の縮図にほかならない。
生き続ける木材都市の輪郭
上松宿の歴史を辿り直すと、「江戸の町並みが残っていない」という事実の意味が変わって見える。
妻籠や奈良井が、街道としての役目を終えたことで「時間が止まった保存都市」となったのに対し、上松宿は「木材という産業とともに時代を駆け抜け、自らを更新し続けた都市」であった。
戦国期の木曽氏の城下から始まり、江戸の尾張藩材木役所による厳格な林政管理、明治・大正の森林鉄道による木材コンビナート化、そして昭和の大火を経た防火都市への再編。消えた本陣や直線的に整備された道路は、歴史の失滅ではなく、木曽ヒノキという資源を集散し、加工し、全国へ送り出し続けてきた街の生き残りかけた選択の重みを示している。
駅裏に広がる広大な貯木場に積み上げられた巨木の列と、北端の上町に奇跡的に残された平入りの屋根格子。その二つは無関係に存在するのではない。産業都市として更新され続けた本丸と、大火の隙間で奇跡的に残された過去の片鱗。両方が揃って初めて、上松宿という土地の本当の骨格が浮かび上がる。
旅と食が好き。どこにでもいます。