2026/7/7
室町時代、大豆のほかにどんな豆を育てていた?インゲン豆以前の「鞘豆」文化とは?

室町時代、大豆以外の豆は栽培されていなかったのか?小豆やインゲン豆やそら豆はなかったのか?日本の豆栽培の歴史について詳しく知りたい
キュリオす
室町時代には、大豆や小豆だけでなく、えんどうやささげなどの多様な豆が栽培されていた。二毛作農法と窒素固定の知識が、これらの豆を支え、現代の和食の原型を形作った。
盆の上に並ぶ、名もなき粒の記憶
室町時代の食卓を想像するとき、私たちはつい精進料理のストイックな風景を思い浮かべる。肉を禁じられた僧侶たちが、大豆を捏ねて豆腐や納豆を作り、タンパク質を補っていたという物語だ。一方で、当時の農村ではもっと雑多で、名もなき粒たちが地面を覆っていたとする記録もある。ところが調べていくと、どちらの風景も、実は一つの巨大な農業システムの両面を見ているに過ぎないことに気づく。
室町時代の中期、15世紀に成立したとされる御伽草子『精進魚類物語』には、納豆を擬人化した武士「納豆太郎糸重」が登場する。彼は精進軍の大将として、鮭や鯛といった魚類軍と戦う。この物語が成立した背景には、当時の人々にとって大豆や納豆が、肉や魚に匹敵する「力」を持つ食材として明確に認識されていた事実がある。だが、ここで立ち止まって考えてみたい。当時の畑で「大将」を務めていたのは、本当に大豆だけだったのだろうか。
現代の私たちがスーパーの棚で見かけるインゲン豆やそら豆、小豆といった多彩な豆たちは、果たしてこの時代の土を蹴って芽吹いていたのか。あるいは、それらは後世の江戸時代になってから、異国の船に乗ってやってきた新参者に過ぎないのか。室町時代の農書や古記録を紐解くと、そこには「納豆以外にも豆はあったのか」という素朴な疑問を軽々と飛び越える、驚くほど多様で戦略的な豆栽培の姿が浮かび上がってくる。では、なぜ私たちは、この時代の豆といえば大豆ばかりを想起してしまうのだろうか。
遣唐使や僧が伝えた多様な種子
日本の豆の歴史を遡ると、大豆と小豆の二大巨頭は、すでに弥生時代の初期にはその地歩を固めていたことがわかる。縄文時代の遺跡からも炭化種子が発見されており、日本列島の土壌とこれらササゲ属・ダイズ属の相性は、稲作以前からの長い付き合いであった。しかし、室町時代という特異な転換点において、豆のラインナップは単なる「古代からの継承」を超え、一つの完成形へと至る。
平安時代中期に編纂された辞書『倭名類聚抄』を紐解けば、そこにはすでに「豌豆(えんどう)」や「大角豆(ささげ)」の文字が並んでいる。えんどうは遣唐使によってもたらされたとされ、平安期には「乃良末女(のらまめ)」と呼ばれていた。また、ささげも平安時代にはすでに定着しており、小豆に似ているが煮ても腹が割れない(切腹を連上させない)ことから、後に武家社会で重宝される下地がこの頃に作られている。
さらに興味深いのは「蚕豆(そらまめ)」の動向だ。そら豆は8世紀頃、インドの僧・菩提僊那や行基によってもたらされたという伝承があるが、実際に栽培が全国的な広がりを見せるのは鎌倉時代から室町時代にかけてのことである。室町時代末期に成立したとされる日本最古の農書、伊予国(現在の愛媛県)の土豪・土居清良の伝記『清良記』第七巻「親民鑑月集」には、大豆や小豆と並んで「蚕豆」「豌豆」が具体的な栽培作物として記されている。
つまり、室町時代の農夫たちが手にしていた種袋の中には、私たちが今食べている主要な豆のほとんど——インゲン豆を除いて——がすでに揃っていたことになる。この時代、豆は単なる「飢饉の際の非常食」ではなく、明確な役割分担を持った農産物として体系化されていた。赤、黒、白、茶。熟した豆の色によって「青大豆」「黒大豆」「赤大豆」と細かく分類され、未成熟な状態で収穫すれば「枝豆」や「さやえんどう」として季節の彩りとなった。
豆たちが日本列島に到達したルートは、その多くが中国大陸を経由している。しかし、室町時代という時代がそれ以前と決定的に異なるのは、これらの種子が「寺院の庭」や「貴族の薬草園」という特権的な空間を飛び出し、名もなき農民たちの共有地や畦道へと溢れ出した点にある。種子は単に海を越えてきたのではない。社会の階層という境界線を越えて、日本の土壌に深く、広く、根を下ろしていったのである。
窒素固定が支えた循環型農業
なぜ室町時代になって、これほどまでに豆栽培が本格化したのか。その背景には、中世日本の農業を根本から変えた「二毛作」の普及という巨大な駆動装置が存在する。鎌倉時代に近畿地方や西日本で始まった二毛作は、室町時代に入ると関東地方にまで波及し、全国的なスタンダードとなった。この農法において、豆は「裏作」の主役として、あるいは「間作」の要として、システムの中に不可欠なパーツとして組み込まれたのである。
当時の二毛作は、夏に稲を育て、秋の収穫後に麦を植える「稲・麦」の組み合わせが基本だった。だが、土地の肥沃度を維持するためには、これだけでは不十分だった。ここで豆が真価を発揮する。マメ科植物の根には根粒菌が共生しており、空気中の窒素を固定して土を肥やす性質がある。当時の農民たちが微生物の存在を知る由もないが、彼らは経験的に「豆を植えた後の土は、次の作物の育ちが良い」ことを知っていた。
『清良記』の記述を詳細に見ると、農巧者である松浦宗案が、領主の土居清良に対し、土壌の性質に合わせた作物の選び方を説く場面がある。そこでは、田の畦に大豆を植える「畦豆(あぜまめ)」や、麦の収穫前にその列の間に豆を蒔く「立毛間播種(りつもうかんはしゅ)」に近い技法が示唆されている。これにより、限られた耕作地を一年中休ませることなくフル稼働させ、かつ土壌の疲弊を防ぐという、極めて高度な循環型農業が成立していた。
また、この時代には「二年三毛作」というさらに複雑なサイクルも現れる。一年目の春に稲、秋に麦、二年目の夏に大豆や小豆を植え、冬は休耕して圃場を整備する。あるいは、麦の裏作として「ささげ」や「緑豆」が選ばれることもあった。特に「ささげ」は乾燥に強く、水田の排水が不十分な場所でも育ちやすいため、二毛作の普及に伴う水利開発の途上段階にあった土地では、救世主のような存在であった。
この農業技術の進歩は、同時に食文化の構造も変えた。二毛作によって麦と豆の生産量が飛躍的に増えたことで、それまで寺院の贅沢品であった豆腐や納豆、味噌が、庶民の口に入る「日常」へと降りてきたのだ。室町時代の村々では、有力農民を中心に「惣(そう)」と呼ばれる自治組織が作られ、寄合で農作業の段取りが話し合われた。そこでは、どのタイミングで麦を刈り、どのタイミングで豆を蒔くかという、村全体の生存をかけたカレンダーが共有されていた。豆は単なるおかずではなく、中世の村という共同体を維持するための「肥料」であり「通貨」でもあったのだ。
インゲン豆以前の「鞘豆」文化
室町時代の豆事情を考える上で、避けて通れない大きな「空白」がある。それがインゲン豆だ。現代の私たちが「豆」と聞いて真っ先に思い浮かべる緑色の細長い鞘、あるいは煮豆に使う金時豆やうずら豆。これらはすべてインゲンマメ属に分類されるが、室町時代には一粒たりとも日本列島には存在しなかった。彼らがやってくるのは、室町幕府が滅び、戦国の動乱が収まった後の江戸時代初期、1654年のことである。
中国の明から長崎に渡来した禅僧、隠元隆琦(いんげんりゅうき)が持ち込んだとされるこの豆は、その名をとって「隠元豆」と呼ばれた。だが、ここで一つの混乱が生じる。隠元が持ち込んだのは、実は現在の「フジマメ(藤豆)」であったという説もあり、私たちが今インゲン豆と呼んでいる「Phaseolus vulgaris」は、それより少し後に別のルートで入ってきた可能性が高い。しかし重要なのは、この「新大陸系」の豆が入ってくる以前、室町時代の人々が「鞘ごと食べる豆」として何を認識していたかという点だ。
室町時代、人々が鞘ごと食べていたのは、主に「えんどう」や「ささげ」の若鞘であった。特に「ささげ」は、現代のインゲン豆と見た目が似ており、調理法も共通する部分が多い。室町時代の献立を記した古記録に「鞘豆」という記述があれば、それは十中八九、ささげかえんどうを指している。江戸時代以降、圧倒的な繁殖力と調理の簡便さを持つインゲン豆が普及したことで、それまで主役級だった「ささげ」は、赤飯の色付け用などの特殊な用途へと押しやられていくことになる。
この「室町以前のアジア系豆」と「江戸以降の新大陸系豆」の交代劇は、日本の食の風景を劇的に塗り替えた。室町時代の豆料理は、現代の私たちが想像するよりもずっと、大豆と小豆、そこで「ささげ」に依存していた。小豆は単なる甘味の材料ではなく、魔除けの力を持つ神聖な穀物として、ハレの日の食事に欠かせない存在だった。一方、大豆は「未熟なうちは野菜(枝豆)、熟せば穀物、加工すれば調味料(味噌・醤油)やタンパク源(豆腐・納豆)」という、驚異的なマルチプレイヤーとして君臨していた。
インゲン豆という、現代では当たり前の存在が欠けていたからこそ、室町時代の人々は現存する豆たちのポテンシャルを極限まで引き出した。豆腐を凍らせて保存性を高めた「高野豆腐」や、納豆を乾燥させた「干し納豆」、そして味噌の製造過程で生まれる「たまり」の発見。それらはすべて、限られた豆のラインナップの中で、いかに多様な栄養と味を作り出すかという、切実な創意工夫の産物であった。隠元が運んできた新しい種子は、その工夫の歴史の上に、さらなる彩りを加えたに過ぎない。
地豆が守り抜いた中世の多様性
室町時代から続く豆栽培の息吹は、実は現代の私たちの足元にも、ひっそりと生き残っている。それは「地豆(じまめ)」と呼ばれる在来種の存在だ。大規模な商業栽培からは取り残され、特定の集落の老婆たちが自家用に作り続けてきたような豆たちが、今、中世から続く日本の農業の多様性を雄弁に物語っている。
例えば、岐阜県や愛知県の一部で今も作られている「十六ささげ」という品種がある。一房に十六粒の豆が入ることからその名がついたとされるが、そのルーツは平安から室町にかけて定着した古い「ささげ」の血統を色濃く残している。また、沖縄の「黒小豆」や、各地に残る「茶大豆」「青大豆」のバリエーションは、かつてそれぞれの村が、自分たちの土地の気候や土質に最も適した種を選別し、守り続けてきた名残である。
室町時代の農業は、現代のような均一な「品種」の概念とは無縁だった。同じ大豆でも、山間部の冷涼な土地で育つもの、海岸沿いの塩害に強いもの、裏作の短い期間で収穫できる早生のもの。農民たちは、毎年収穫した豆の中から、最も出来の良いものを翌年の種として残す。この数百年におよぶ「選抜」の繰り返しが、日本各地に無数の微細な品種を生み出した。
現代の旅行者が、地方の道の駅や朝市で、見たこともない模様の入った豆や、いびつな形の乾燥豆を見かけたら、それは室町時代の農夫が見ていた風景の断片かもしれない。例えば「うずら豆」や「とら豆」はインゲン豆の仲間なので江戸以降のものだが、小粒で味の濃い「納豆用大豆」や、皮が厚く煮崩れしない「ささげ」の古種には、中世の土の記憶が宿っている。
これらの在来種が現代まで生き残れた理由は、単に「味が良い」からだけではない。それは、それらの豆がその土地の行事や信仰と結びついていたからだ。この村のこの祭りの赤飯には、この豆でなければならない。その一見不合理なこだわりが、種子を絶滅から救ってきた。室町時代に完成した「米・麦・豆」という三位一体の農法は、単なる食糧生産の手段ではなく、土地ごとのアイデンティティを形成する文化装置でもあった。現代の在来種保護の動きは、単なるノスタルジーではなく、中世が作り上げたこの強靭な多様性を取り戻す試みとも言える。
現代へ繋がる窒素固定の循環
「室町時代、納豆以外の豆は栽培されていなかったのか」という最初の問いに戻れば、答えは明白だ。むしろ、納豆(大豆)という巨大な存在の影に隠れて、小豆、そら豆、えんどう、ささげといった多彩な役者たちが、それぞれの持ち場で完璧なパフォーマンスを演じていた。彼らは単なる「おかず」ではなく、日本の国土という巨大な実験場において、土壌を再生し、人々の肉体を作り、社会の仕組みを支える「小さな重石」のような役割を果たしていた。
室町時代という時代が、現代の私たちに提示しているのは、多様性と合理性の見事な調和だ。二毛作という、土地のポテンシャルを限界まで引き出す農法を採用しながら、同時に豆という「土を肥やす装置」を組み込むことで、持続可能性を確保していた。このバランス感覚こそが、その後の江戸時代の260年を支える農業基盤となった。私たちが今、当たり前のように享受している和食の原型は、この時代に豆たちが地面を這い、根を伸ばし、窒素を固定し続けた成果の上に成り立っている。
当時の人々は「豆」を単一の植物としてではなく、成長のステージごとに異なる価値を見出していた。春には若鞘を楽しみ、夏には枝豆として涼をとり、秋には完熟した粒を収穫して冬のタンパク源とする。一つの種子からこれほど多様な「旬」を引き出す知恵は、飽食の時代を生きる私たち以上に、植物の本質を理解していた証左ではないか。
室町時代の盆の上に並んでいたのは、決して貧相な代用食ではなかった。それは、大陸から届いた種子を、日本列島の入り組んだ地形と気候に合わせてカスタマイズし、二毛作という最新のテクノロジーで増幅させた、知的な食の結晶であった。インゲン豆という「便利な新参者」がいなかったからこそ、当時の人々は大豆やささげの微細な品種の違いにこだわり、それを土地の文化にまで高めた。
今度、食卓で豆一粒を箸で持ち上げるとき、その小さな粒がかつて、中世の村の畦道で麦と稲の合間を縫うようにして育ち、日本の土を肥やし続けてきた歴史を思い出してほしい。豆は、ただそこにあるのではない。数百年におよぶ、人間と土壌の、静かで熱い交渉の記録として、そこにあるのだ。室町時代の人々が、納豆汁の温かさに安らぎ、赤飯の小豆に祈りを込めたとき、彼らが見ていたのは、単なる食べ物ではなく、自分たちを生かし続ける循環そのものだった。その循環の輪は、形を変えながら、今も私たちの体の中へと繋がっている。

豆ってすごいなぁ。土地に合わせた豆を作っていたのか。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。