2026/6/8
舞鶴の赤れんがと引揚港、二つの顔が刻む歴史

舞鶴の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
舞鶴は縄文時代から栄え、明治期に日本海側唯一の鎮守府として軍港都市へ発展。戦後は引揚港として多くの人々を迎えた。赤れんが倉庫群や引揚記念館にその歴史が残る。
舞鶴の湾岸に立つと、その穏やかな水面からは想像しがたい、幾重もの歴史の層を感じる。リアス式海岸が織りなす地形は、古くから人々が暮らし、海を介して交流する舞台であっただろう。しかし、この地が日本の歴史の表舞台に躍り出たのは、近代国家の胎動期、そして第二次世界大戦後の混乱期という、全く異なる二つの時代においてだ。なぜ舞鶴は、これほどまでに日本の近代史の重要な局面を担うことになったのか。その問いは、青い湾の奥に、静かに横たわる。
舞鶴の地には、約1万年から1万2000年前の縄文時代前期にまで遡る人々の生活の痕跡が確認されている。温暖化による海面上昇で形成された潟湖や由良川流域は、古代人が生活の基盤を築きやすい環境であったと考えられているのだ。浦入遺跡からは丸木舟が出土し、遠く離れた奈良県二上山産のサヌカイト製石斧や隠岐の黒曜石、北陸産の蛇紋岩製耳飾りなども発見されており、海を介した広範な交流がうかがえる。中世には丹後国の要衝として、田辺城を中心とした城下町が西舞鶴に形成され、日本海海運の拠点としても機能した。
しかし、舞鶴の運命を決定的に変えたのは、明治時代に入ってからのことだ。欧米列強に対抗すべく富国強兵を掲げた日本は、特にロシアとの緊張が高まる中、日本海側に海軍の軍事拠点を置くことを悲願としていた。そこで白羽の矢が立ったのが、舞鶴湾であった。湾口が狭く防御に適し、湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるという軍港として理想的な地形が評価されたのだ。1889年(明治22年)には舞鶴への鎮守府設置が決定され、日清戦争の賠償金が建設費用に充てられることになった。
1901年(明治34年)10月1日、舞鶴鎮守府が開庁。初代司令長官には、後に日露戦争で連合艦隊司令長官となる東郷平八郎が任命された。当時の東舞鶴は小さな漁村に過ぎなかったが、鎮守府開庁に伴い状況は一変する。広大な敷地造成が行われ、近代的な都市基盤が急速に整備された。岸壁、造船所、兵器工場、軍用水道施設、そして現在も舞鶴の象徴となっている赤れんが倉庫群などが次々と建設され、国防上不可欠な拠点へと変貌を遂げたのである。この時、西舞鶴の城下町としての発展とは対照的に、東舞鶴は軍港都市として独自の発展を遂げ、舞鶴市内に「西」と「東」という二つの異なる顔を持つ市街地が形成されることになった。
舞鶴が日本海側唯一の鎮守府として選ばれた背景には、地理的条件と国際情勢が複合的に絡み合っていた。まず、舞鶴湾の地形的な優位性がある。湾口が狭く、周囲を山々に囲まれているため、敵からの攻撃を防ぎやすい自然の要塞としての条件を備えていた。同時に、湾内は深く穏やかで、多くの艦船を収容できる広さがあった。これは、艦隊の停泊地として極めて重要だった。
また、対ロシア戦略上の要衝であったことも見逃せない。明治期、ロシア帝国の南下政策は日本にとって大きな脅威であり、日本海側の防衛力強化は喫緊の課題だった。舞鶴は、ロシア艦隊の拠点であったウラジオストクへの警戒という戦略的役割を担うことになったのである。日清戦争の勝利によって得られた清国からの賠償金が、この大規模な軍港建設を可能にした経済的要因も大きい。
鎮守府の設置後、舞鶴は軍事都市として急速に発展を遂げるが、その道のりは常に平坦ではなかった。1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約の影響により、1923年(大正12年)には舞鶴鎮守府は要港部へと格下げされる。これにより人口は約1割減少し、舞鶴のまちは商業港としての活路を模索する時期を迎えた。しかし、満州事変や日中戦争、そして第二次世界大戦の勃発など国際情勢が再び緊迫する中で、1939年(昭和14年)には舞鶴要港部は再び鎮守府へと昇格し、海軍施設の拡張や工廠の生産拡大が進められた。この軍事的な繁栄は、1945年(昭和20年)7月29日の舞鶴海軍工廠への空襲によって大きな被害を受けるまで続くことになる。
舞鶴の歴史を語る上で、日本の他の旧軍港都市、すなわち横須賀、呉、佐世保との比較は避けられない。これらの四市は、明治期に日本の海防力強化のために鎮守府が設置され、日本の近代化を支えたという共通の物語を持つ。いずれの都市も、急峻な山に囲まれ、外敵の侵入を拒む湾口、艦艇の航行や停泊が可能な湾内、水深の深い穏やかな入江といった厳しい地勢条件を満たしていたことから選定された。そして、造船所や兵器工場、赤れんが倉庫群といった近代的なインフラが整備され、海軍ゆかりの食文化(例えば肉じゃが)なども共通して生まれた。これらの共通性は、近代日本が直面した国際情勢と、それに対する国家的な取り組みの構造を示すものと言えるだろう。
しかし、舞鶴には他の三市とは決定的に異なる、二つの独自の側面がある。一つは、舞鶴が日本海側唯一の鎮守府であったことだ。他の三市が太平洋側に位置するのに対し、舞鶴は対ロシア戦略上の要衝として、日本海側の防衛を担うという特異な役割を与えられた。この地理的条件が、舞鶴の軍港としての性格をより明確なものにした。
そしてもう一つ、より強く舞鶴の歴史を特徴づけるのが、戦後の「引揚港」としての役割である。終戦後、日本政府によって引揚指定港とされた舞鶴は、1945年(昭和20年)10月7日に朝鮮・釜山からの第一船を迎え入れたのを皮切りに、主に旧満州やシベリアなどからの引揚者を受け入れることになった。全国に十数箇所あった引揚港の中で、舞鶴は特にソ連からの引揚者にとって最後の、そして唯一の窓口として機能した期間が長く、1958年(昭和33年)に最後の引揚船「白山丸」が入港するまでの13年間で、66万人余りの引揚者と1万6千柱の遺骨を迎えたとされる。この規模と期間は他の引揚港には見られないものであり、舞鶴の港は、戦争の終結と平和への帰還を象徴する場所となった。「岸壁の母」の歌に歌われた情景は、舞鶴の海岸で繰り広げられた現実の一端であり、その記憶は今もこの地に深く刻まれている。
現在の舞鶴は、その重層的な歴史を様々な形で今に伝えている。東舞鶴地区には、旧海軍が建設した赤れんが倉庫群が往時の姿を留め、多くが国の重要文化財に指定されている。これらは「舞鶴赤れんがパーク」として活用され、博物館やイベントスペース、カフェなどに生まれ変わり、北近畿を代表する観光交流拠点となっている。空襲時に攻撃を避けるため黒くカモフラージュされた建物の基礎部分には、今もその痕跡が残るものもある。
また、舞鶴港は現在も海上自衛隊の重要な拠点であり、舞鶴地方総監部を中心に日本海側の海上防衛の中核を担っている。かつての海軍工廠はジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所として、造船の技術と伝統を受け継いでいるのだ。港めぐり遊覧船に乗れば、護衛艦や造船所の風景を間近に見ることができ、往年の軍港の面影を感じ取れる。
そして、戦後の引揚の歴史は「舞鶴引揚記念館」によって語り継がれている。この記念館は、シベリア抑留や引揚の過酷な体験を後世に伝えるための資料を多数収蔵しており、ユネスコ世界記憶遺産にも登録された。2018年(平成30年)には、最初の引揚船が入港した10月7日が「舞鶴引き揚げの日」として条例制定され、平和へのメッセージを発信し続けている。西舞鶴の城下町の趣と、東舞鶴の軍港・引揚港としての歴史が共存するこの街は、過去と現在が交錯する独特の景観を作り出している。
舞鶴の歴史を紐解くと、そこには日本の近代化と戦争、そして戦後の復興という大きな流れが凝縮されている。穏やかな湾が、国家戦略の要衝となり、多くの人々の生と死を見守る舞台となった。軍港としての発展は、赤れんが倉庫群という堅牢な遺産を残し、その機能は海上自衛隊へと引き継がれている。一方、引揚港としての役割は、戦争の悲劇と人間の尊厳、そして故郷への帰還という、より個人的で深い記憶を刻んだ。
この二つの顔は、一見すると対照的でありながら、舞鶴という土地の運命を決定づけた共通の「海の役割」によって結びついている。海は戦略的な要衝であり、同時に故郷へと繋がる道でもあった。現代の舞鶴には、軍港時代の堅固な建造物と、引揚の記憶を伝える記念碑が並び立つ。それらは、過去の出来事を静かに、しかし確かに語りかけてくる。舞鶴の湾に映る風景は、単なる歴史の断片ではなく、変化を吸収し、新たな意味を付与しながら生き続ける都市の姿そのものだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。