2026/6/8
石川のとり野菜みそ、なぜソウルフードになった?

石川のとり野菜みそってなに?鶏入ってなくない?
キュリオす
石川県で冬の食卓に欠かせない「とり野菜みそ」。北前船の時代に栄養補給として考案された調味味噌が、その汎用性の高さと飽きのこない味で、半世紀以上にわたり地元民に愛され続ける理由を探ります。
石川の冬は長く、鉛色の空が続く。そんな季節に家庭の食卓で、あるいは飲食店で、人々が囲む鍋から立ち上る湯気の中に、ある独特の味噌の香りが混じる。それが「とり野菜みそ」だ。 多くの石川県民にとって、この香りは冬の訪れを告げ、家族や友との団欒の中心にある。なぜ、この特定の調味味噌が、これほどまでに石川の地に深く根付き、単なる調味料の枠を超えて「ソウルフード」とまで呼ばれるようになったのか。 その背景には、日本海という厳しい自然環境と、それを生き抜くための人々の知恵が息づいている。
とり野菜みそのルーツは、江戸時代にまで遡ることができる。 当時、北前船の廻船問屋を営んでいた「まつや」の初代当主、松屋和平がその礎を築いた。 日本海を往来する北前船の航海は長く過酷で、船乗りたちは栄養不足に陥り、体調を崩すことが少なくなかったという。 厳しい航海を無事に乗り切るためには、船上で栄養価の高い食事を摂らせることが不可欠だと考えた和平は、自ら味噌を調合し、魚や野菜を煮込む鍋料理を考案した。 この味噌を使った鍋は、不足しがちな野菜をたっぷりと摂ることができ、栄養バランスも良いことから、船乗りたちに大変喜ばれたと伝えられている。
この「秘伝の味噌」は松屋家に代々受け継がれ、昭和34年(1959年)に「まつや」が飲食店として創業した際に、この鍋料理がメニューに加えられた。 その際、「野菜や栄養をたっぷり摂る」という意味を込めて「とり野菜みそ」と名付けられたという。 「とり」は鶏肉を指すのではなく、「摂る」という言葉に由来しているのだ。 味噌だしが好評を博し、家庭でもこの味を楽しみたいという声が高まったことから、とり野菜みそはパッケージ商品としてスーパーマーケットなどで販売されるようになった。 口コミでその評判が広がり、やがて石川県民にとって定番の味噌鍋として親しまれるようになっていったのである。
とり野菜みそが石川の食卓に定着した背景には、その独特の味と使い勝手の良さがある。とり野菜みそは、大豆と米麹を主原料とする米味噌をベースに、数種類の調味料や香辛料を混ぜ合わせた調味味噌だ。 味わい深く、コクがありながらも飽きのこない味が特徴とされる。
この調味味噌は、どのような食材とも相性が良いと評価されている。 肉類、魚介類はもちろん、白菜やキャベツ、きのこ類といった様々な野菜ともよく合い、食材の味を活かす包容力があるのだ。 鍋料理の基本は、水で希釈したとり野菜みそに好みの具材を入れて煮込むだけという手軽さにある。 加えて、鍋の締めにはうどんや中華麺、あるいはご飯と卵で雑炊にするなど、様々な形で最後まで楽しめる点も、家庭料理として広く受け入れられた理由だろう。
さらに、現代の食生活に合わせたアレンジもその人気を支えている。定番の鍋料理以外にも、肉の味噌漬けや野菜炒め、煮物、パスタ、チャーハン、さらにはカレーや麻婆豆腐の隠し味としても使える万能調味料として重宝されているのだ。 石川県民の中には、季節を問わずとり野菜みそを常備し、普段使いの調味料として活用する家庭も少なくない。 その汎用性の高さが、単なる鍋の素にとどまらない地位を確立させた要因と言える。
日本各地には、その土地の風土や食文化に根ざした様々な調味味噌や鍋の素が存在する。例えば、北海道の「石狩鍋」は鮭を主役に味噌仕立ての出汁で煮込むのが一般的であり、その濃厚な味噌味が特徴だ。また、名古屋の「味噌煮込みうどん」は、八丁味噌をベースにした独特の風味とコシのあるうどんが一体となった郷土料理として知られている。これらは、特定の食材や調理法と強く結びつき、その地域ならではの味覚を形成してきた。
とり野菜みそは、これらの地域特有の鍋料理の味噌と比較すると、その「汎用性」に際立った特徴が見られる。石狩鍋が鮭、味噌煮込みうどんが八丁味噌とうどんに特化しているのに対し、とり野菜みそは「どんな食材とも相性抜群」という点が強調される。 豚肉、鶏肉、魚介類、あるいは冷蔵庫にある様々な野菜を自由に組み合わせても味がまとまる。これは、特定の食材ありきで発展したというよりも、船乗りたちの栄養補給という切実な課題から生まれ、手元にある多様な食材で調理できる実用性が重視された結果ではないか。
また、「鍋の素」というカテゴリで見ると、近年多様なメーカーから様々な味の鍋スープが販売されているが、とり野菜みそが半世紀以上にわたって石川県内で不動の地位を保ち続けている点は特筆すべきだろう。 その味は時代に合わせて微調整されつつも、基本的な風味は創業当初から変わらないという。 これは、特定の流行に左右されない普遍的な「おいしさ」と、地域の人々の味覚に深く刻まれた「安心感」が、そのロングセラーを支えていることを示唆している。
現代の石川県において、とり野菜みそは単なる調味料ではなく、「ソウルフード」として確固たる地位を築いている。 県内のスーパーマーケットには必ずと言っていいほど「まつや」のとり野菜みそが並び、特に冬場には売り場の一角を大きく占める光景は珍しくない。 スパウトパックなど、使いやすさを考慮した容器も登場し、家庭での利用をさらに促進している。
また、その人気は石川県内にとどまらず、テレビ番組で紹介されたことをきっかけに全国的な知名度を得た。 これにより、土産物としての需要も高まり、石川県を訪れる観光客が購入する一品となっている。 ラーメンやカレー、揚げあられなど、様々な食品メーカーとのコラボレーション商品も登場し、その活用範囲は広がりを見せているのが現状だ。 金沢市内には、とり野菜みそを専門に扱う飲食店や、一人鍋形式で提供する店も現れており、その文化的な広がりは続いている。 製造元の「まつや」は、平成20年にはフルオート生産システムを導入し、さらに平成30年には食品安全のための国際的な認証規格であるFSSC22000を取得するなど、品質管理と安全性の向上にも力を入れている。
石川のとり野菜みそは、厳しい航海を支えるための知恵から生まれ、やがて地域の食卓に欠かせない存在となった。その歴史を辿ると、特定の食材に限定されない、多様な素材を受け入れる味噌の「懐の深さ」が、時代を超えて人々に求められてきたことがわかる。船上で限られた材料を最大限に活かす必要性から生まれたこの調味味噌は、現代においても「手軽に美味しく、栄養を摂る」という普遍的なニーズに応えているのだ。
単一の鍋料理の味付けにとどまらず、様々な料理に転用できる柔軟性は、地域固有の調味料が持つ可能性を示唆している。とり野菜みそが、石川という土地の冬の寒さや、北前船がもたらした歴史、そして何よりも「野菜を摂る」という切実な願いが凝縮された味として、今もなお多くの人々に愛され続けているのは、その味覚が持つ普遍的な魅力と、それを育んだ土地の物語が響き合っているからだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。