2026/7/1
重森三玲は、なぜ古庭園を実測し、現代的な市松模様の庭を創り出したのか

重森三玲ってどういう人?作庭の特徴は?
キュリオす
重森三玲は、日本の古庭園500箇所の実測調査を経て、その歴史と構造を深く理解した。その上で、東福寺方丈庭園に市松模様を取り入れるなど、伝統にとらわれない大胆な作庭を行った。彼の「永遠のモダン」とは、歴史を踏まえつつ現代を表現することだった。
市松模様が突きつける違和感
京都・東山区にある東福寺の方丈。その北庭に足を踏み入れたとき、多くの人が一瞬、自分の立っている場所の時代感覚を見失う。目の前に広がるのは、ウマスギゴケの緑と正方形の敷石が交互に並ぶ、鮮やかな市松模様だ。伝統的な禅寺の、それも僧侶の住居である方丈に、これほどまで幾何学的でグラフィカルな造形が鎮座している事実に、静かな衝撃を受ける。
この庭を手がけたのが、昭和を代表する作庭家、重森三玲(しげもり みれい)である。一見すると、伝統を打ち壊そうとしたアヴァンギャルドな破壊者の仕事に見えるかもしれない。あるいは、現代的な「映え」を先取りしたデザイナーのようにも映るだろう。しかし、その斬新な意匠の背後には、狂気ともいえるほどの緻密な歴史調査と、古庭園に対する深い敬意が隠されている。
なぜ彼は、昭和14年という戦時色が濃くなりつつあった時代に、これほど大胆な表現を許されたのか。そして、彼が提唱した「永遠のモダン」とは、一体何を指していたのか。その答えを探るには、彼が庭を造り始める前に費やした、膨大な「記録」の時間に目を向ける必要がある。
500箇所の実測調査に捧げた執念
重森三玲は、1896年に岡山県の裕福な農家に生まれた。本名は計夫(かずお)といったが、フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーに心酔し、自ら「三玲」と改名したというエピソードからも、その並外れた芸術への自意識が伺える。当初は画家を志して東京の日本美術学校に入学したが、周囲の才能に圧倒されて挫折。その後、いけばなや茶道の世界で革新運動を展開する文化人として頭角を現した。
彼が本格的に庭園の世界に足を踏み入れたきっかけは、1934年の室戸台風だった。近畿地方を襲ったこの巨大台風は、桂離宮をはじめとする京都の名園に甚大な被害をもたらした。荒れ果てた庭園を目の当たりにした三玲は、ある事実に愕然とする。日本の宝であるはずの古庭園に、正確な図面がほとんど残されていなかったのだ。このままでは、天災が起きるたびに庭の「正解」が失われてしまう。
ここから三玲の、常人には真似できない執念の調査が始まる。彼は1936年から約3年間、全国の古庭園を巡り、実測調査を敢行した。その数、実に500箇所近いと言われている。調査には長男の完途らも同行し、朝から晩までメジャーを手に石の高さや配置を記録し、写真を撮り、歴史資料をひっくり返した。その成果は、1939年に刊行された全26巻に及ぶ『日本庭園史図鑑』に結実する。
この膨大なインプットこそが、三玲の作庭の土台となった。彼は、日本庭園の歴史を誰よりも正確に、数値として把握していたのだ。その調査が終わった直後、最初の大仕事として舞い込んだのが、先述の東福寺方丈庭園の作庭だった。
東福寺側から出された条件は、ただ一つ。「境内にある材料をすべて再利用し、一切の無駄を出さないこと」であった。三玲はこの制約を逆手に取り、廃材となった石柱や門の敷石を使い、あの市松模様や北斗七星の庭を創り出した。歴史を知り尽くした男が、歴史の残骸を使って、全く新しい現代を刻んだのである。
阿波の青石を垂直に立てる造形
重森三玲の庭を特徴づける要素は、いくつかに絞られる。その筆頭が、力強い石組である。従来の日本庭園では、石は「据える」ものであり、安定感や自然な佇まいが重視されてきた。しかし三玲は、石を「立てる」ことにこだわった。鋭い先端を空に向け、垂直に切り立つ石の群れは、自然の模倣であることをやめ、明確な意志を持った「彫刻」として空間に君臨する。
彼が好んで使った素材に、徳島県産の阿波の青石(緑泥片岩)がある。この石は水に濡れると深い青緑色に輝き、独特の縞模様が浮かび上がる。三玲はこの青石を多用し、白砂の海に鋭い垂直の線を書き込んでいった。例えば、京都の松尾大社にある「蓬莱の庭」では、200個を超える青石が波打つように配置され、見る者を圧倒する。そこには、静寂よりもむしろ、荒々しい生命の鼓動のようなものが流れている。
また、三玲は伝統的な素材に固執しなかった。必要であればコンクリートを使い、色彩を取り入れた。東福寺の塔頭である光明院の「波心庭」では、放射状に広がる白砂の紋様と、サツキの刈込がダイナミックな対比を見せる。彼は庭を「地上に描かれた絵画」と呼び、平面的な構成美と、立体的な造形美を同時に追求した。
彼が掲げた「永遠のモダン」という言葉には、深い意味がある。三玲によれば、本当に優れた古典庭園には、時代を超えて人々の心に響く「抽象的な美」が備わっている。その抽象性こそがモダンであり、現代の作庭家もまた、過去の模倣ではなく、自分たちの時代の精神を抽象化して表現しなければならない。それができて初めて、その庭は数百年後の人々にとっても「新しい」ものとして残り続ける。
三玲の庭に見られる幾何学的な地割りや、鮮やかな色彩の対比は、単なる奇をてらった演出ではない。それは、徹底的な歴史研究の果てに掴み取った「日本美の核心」を、昭和という時代に翻訳するための、彼なりの誠実な手法だったのである。
小堀遠州の「調和」と三玲の「対峙」
日本庭園の歴史の中で、重森三玲と比較されることの多い人物が、江戸時代初期の大名茶人、小堀遠州である。遠州もまた、それまでの荒々しい石組を排し、幾何学的な「畳石」や、整然とした「綺麗さび」の美学を確立した革新者であった。
遠州の代表作とされる南禅寺の金地院庭園などを見ると、そこには確かに三玲に通じる「デザインの力」を感じる。しかし、両者の決定的な違いは、その「視点」の置き所にある。遠州の庭は、あくまで建築の一部として、あるいは茶の湯の儀礼を執り行うための背景として、高度に洗練された調和を目指している。
対して三玲の庭は、建築から自立しようとする。彼の庭に立つと、建物の中から眺める「額縁の絵」としての美しさもさることながら、庭そのものが持つ造形的な強度が勝っていることに気づく。遠州が「調和」の天才であったとするなら、三玲は「対峙」の天才であった。
また、鎌倉時代の禅僧、夢窓疎石との比較も興味深い。西芳寺(苔寺)や天龍寺を手がけた夢窓疎石は、自然を抽象化し、精神的な修行の場としての庭を完成させた。三玲は夢窓疎石を高く評価し、その抽象性を「モダン」の源泉として捉えていた。しかし、夢窓が宗教的な悟りの境地を庭に託したのに対し、三玲はより純粋に「芸術としての自律」を求めたように見える。
三玲は、イサム・ノグチとも親交が深かった。パリのユネスコ本部の庭園をノグチが手がける際、三玲は石選びのアドバイスを行い、自らの庭にもノグチの照明(あかり)を配した。彼は、日本庭園という枠組みを、世界に通じる「現代美術」の文脈へと押し広げようとした最初の一人であった。
吉田の旧邸と市松模様の茶室
重森三玲が後半生を過ごした場所が、京都大学に近い吉田神社の参道脇にある。現在は「重森三玲庭園美術館」として公開されているこの邸宅は、もともと江戸時代に建てられた神官の家(社家)であった。三玲はここを昭和18年に譲り受け、亡くなる直前まで手を加え続けた。
この旧邸は、彼の作庭哲学が「生活」とどのように結びついていたかを知る貴重な場所だ。書院の前に広がる庭園は、1970年、彼が74歳の時に完成させた晩年の傑作である。中央に蓬莱島を配し、青石を立てた枯山水は、三玲のシグネチャーとも言えるスタイルだが、寺院の庭に比べるとどこか親密な空気が漂う。
彼が自ら設計した二つの茶室、「無字庵」と「好刻庵」は、独自の美意識が凝縮された空間だ。特に「好刻庵」の内部は、三玲ワールドの極致とも言える意匠に満ちている。桂離宮の松琴亭にインスパイアされたという市松模様の襖絵は、青と白の波模様がうねるように描かれ、伝統的な茶室の概念を鮮やかに裏切る。
釘隠しや建具の取っ手に至るまで、彼自身のデザインによる陶器や金属が使われ、照明にはイサム・ノグチの作品が組み合わされている。ここでは、庭と建築、そして日々の道具が、一つの美意識によって完全に統率されている。三玲にとって、庭を造ることは、単に外構を整えることではなく、自分たちが生きる空間のすべてを「芸術」として再構築することであった。
彼は生涯、一度も海外へは行かなかったという。ノグチからパリへ誘われても、「日本にまだ調べ尽くしていない庭があるから」と断った。彼が見つめていたのは、常に足元の土の中に眠る歴史と、そこから立ち上がるべき現代の姿であった。
実測図面が支えた現代への挑戦
重森三玲という人物を振り返るとき、どうしても「モダン」や「アヴァンギャルド」といった華やかな言葉が先行しがちだ。しかし、彼の本当の凄みは、その前段階にある「記録」への執念にあるのではないか。
昭和11年から13年末までのわずか3年間で、全国の主要な庭園をすべて実測し、図面化したという事実は、今考えても気が遠くなるような作業だ。交通の便が悪かった時代に、重い機材を担いで地方の山寺を巡り、石の一つ一つにメジャーを当てる。その単調で過酷な労働を支えていたのは、「今、自分が記録しなければ、日本の美は消えてしまう」という、ある種の悲壮な使命感であった。
彼は、歴史を壊すために学んだのではない。歴史を「確定」させるために学んだのだ。過去の庭がどのようなルールで造られ、どのような数値で構成されているかを完璧に把握したからこそ、彼は「ここから先は、私の時代だ」と、自信を持って線を引くことができた。
三玲の庭が、完成から半世紀以上を経た今もなお、古びることなく私たちを挑発し続けているのは、そこに「歴史の続き」が正しく刻まれているからだろう。彼は、伝統という名の停滞を嫌い、変化し続けることこそが日本庭園の本質であると見抜いていた。
遺作となった松尾大社の庭園を造り終えた1975年、三玲はこの世を去った。総工費1億円をかけ、四国の吉野川から200個の青石を運び込ませて造り上げたその庭は、今も京都の西の山裾で、鋭い石の先端を空へ突き立てている。その光景は、安易な癒やしを拒絶し、見る者に「お前は、この時代をどう生きているのか」と、厳しく迫っているようにも見える。
重森三玲は、庭園家である前に、一人の徹底した歴史家であった。そして、歴史を誰よりも深く愛したからこそ、その歴史を更新するという、最も困難で、最も尊い仕事に一生を捧げたのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 京都を彩る建物や庭園 京都市文化市民局kyoto-irodoru.city.kyoto.lg.jp
- 本坊庭園(方丈) - 臨済宗大本山 東福寺tofukuji.jp
- 重森三玲が作庭した日本庭園/ホームメイトtouken-world.jp
- 049.『重森三玲 庭園の全貌』中田勝康 著/写真|学芸出版社note.com
- 重森三玲をもっと知るest.hi-ho.ne.jp
- 東山見聞録kenbun.info
- 重森三玲庭園美術館(無字庵庭園・旧重森三玲邸・旧鈴鹿家住宅) 京都府京都市左京区吉田上大路町 - 墳丘からの眺めmassneko.hatenablog.com
- 庭の歴史を変えた4人の天才 | あなたの知らない京都旅 | BS朝日bs-asahi.co.jp