2026/6/4
江島神社はいつから?江の島詣が流行った理由を辿る

江ノ島の歴史について詳しく知りたい。江島神社はいつからあるのか?江ノ島詣は何故流行ったのか?
キュリオす
江の島に祀られる神の起源は552年とされ、岩屋を基点に三社が形成された。江戸時代には弁財天信仰が庶民に広まり、交通の便や宣伝活動により「江の島詣」が流行。芸能との結びつきや地理的条件も魅力となった。
相模湾に浮かぶ江の島は、その独特の景観から古くより人々の目を引きつけてきた。陸から橋を渡り島へと足を踏み入れると、土産物店が並ぶ参道の先に、朱色の鳥居が連なる。この島全体が、古くから信仰の対象であったことを物語る風景だ。なぜこの小さな島がこれほどまでに多くの参詣者を集め、いつからそこに神は祀られてきたのか。その問いは、日本の歴史における神仏習合の変遷と、庶民文化の成熟を映し出す。
江島神社の起源は古く、社伝では欽明天皇13年(552年)に、島の南にある洞窟「岩屋」に神を祀ったのが始まりとされる。この年、大地が震動し、天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造ったという『江島縁起』の伝説が残されている。当時、日本では仏教が伝来したばかりであり、固有の神道と外来の仏教が共存する時代だった。
その後、文武天皇4年(700年)には修験道の開祖とされる役小角が岩屋に参籠し、修験の霊場を開いたと伝えられる。弘仁5年(814年)には空海が岩屋本宮を、仁寿3年(853年)には慈覚大師が上之宮(現在の中津宮)を創建したとされるなど、多くの名僧がこの地で修行を重ねた。この頃から、江の島は仏教的な霊場としての性格を強めていく。
鎌倉時代に入ると、江の島は武士たちの信仰を集めるようになる。治承4年(1180年)、伊豆で挙兵し石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、再起を期して江の島に弁財天を勧請し、奥州藤原秀衡の調伏を祈願したという。寿永元年(1182年)には、頼朝が北条時政ら多くの武士を伴って江の島を訪れ、石鳥居を奉納したと『吾妻鏡』に記されている。この八臂弁財天像は、現在も辺津宮の奉安殿に安置されている。また、北条時政は江の島に35日間参籠し、子孫繁栄を祈願した際に現れた龍の鱗から北条氏の家紋「三鱗」が生まれたという伝説も残る。
奥津宮は、岩屋本宮に海水が入る期間に本尊が遷座された場所であり、江戸時代までは「本宮御旅所」と呼ばれていた。辺津宮は、建永元年(1206年)に源実朝が鎌倉幕府の繁栄を祈って創建されたものだ。このように、江島神社は、岩屋を基点として、平安時代から鎌倉時代にかけて、三つの宮(辺津宮、中津宮、奥津宮)が形成されていったのである。
江の島詣が広く流行したのは江戸時代中期以降のことである。鎌倉時代には「戦いの神」として武士の信仰を集めた弁財天は、泰平の世が続く江戸時代になると、「芸能・音楽・知恵の神」や「福徳財宝の神」として庶民に受け入れられていく。琵琶を抱える裸弁財天の像が、歌舞音曲を生業とする人々の信仰を集めたのは、その象徴的な例だろう。
その流行には複数の要因が重なっていた。まず、江戸から江の島までの距離が約51kmと比較的近く、往復3泊4日程度で女性でも無理なく旅ができる手軽さがあった。当時の旅は信仰を名目とすることが多く、江の島詣は信仰と行楽を兼ねた旅として人気を集めた。
また、徳川家康が慶長5年(1600年)に江の島を参詣し、息子の徳川秀忠の病気平癒を祈願したことが将軍家の信仰を集めるきっかけとなった。これにより江島神社は将軍家の祈願所となり、大奥や諸大名も参拝するようになった。この上層階級の信仰が、庶民の間に広がる下地を作ったと言える。
さらに、江の島側も積極的に参詣を促す「宣伝」を行った。普段は公開しない寺社の宝物を期間を限って見せる「御開帳」は、巳年と亥年に行われ、特に江戸での「出開帳」は大きな話題となったという。また、「御師(おし)」と呼ばれる人々が江の島を出て江戸で、参詣者の体験談やご利益を宣伝して歩いたことも、その人気を後押しした。浮世絵師の歌川広重らによって江の島が題材とされた浮世絵が多く描かれたことも、庶民の憧れを掻き立てた要因だろう。
加えて、江の島が持つ風光明媚な景色や新鮮な海の幸といった観光資源も、人々を惹きつける大きな魅力だった。干潮時には片瀬の浜から江の島まで歩いて渡れたことも、当時の人々にとっては特別な体験だったに違いない。江戸時代には、大山阿夫利神社への「大山詣」とセットで江の島を巡る「大山・江島詣」も大いに流行し、藤沢宿は二つの参詣路の拠点として賑わった。
江戸時代の日本において、信仰と娯楽を兼ねた旅は盛んに行われた。伊勢神宮への「お伊勢参り」や、富士山への「富士詣」、そして成田山新勝寺への「成田詣」などが代表的である。これらの巡礼地は、それぞれ異なる信仰の対象や、旅の形態を持っていた。
例えば、お伊勢参りは「一生に一度は」とまで言われるほど広範な層に浸透し、その旅程は時に数ヶ月に及ぶ大規模なものであった。対して富士詣は、富士講と呼ばれる組織的な集団によって支えられ、登拝という身体的な修行の側面が強かった。成田詣もまた、不動明王への現世利益を求める信仰が中心であり、江戸から日帰り圏内という手軽さから、庶民に広く親しまれた。
これらと比較した時、江の島詣にはいくつかの特異性が見出せる。まず、弁財天という女性の神を主祭神としている点である。宗像三女神の一柱である市寸島比売命は、弁財天と習合し、技芸上達や福徳財宝の神として信仰された。このため、特に盲人音楽家である検校や歌舞伎役者など、芸能に携わる人々からの篤い信仰を集めたことは、他の主要な巡礼地にはあまり見られない特徴である。鍼術の杉山和一検校が江の島で修行し、管鍼術を考案した逸話も、弁財天信仰の広がりを示す一例だろう。
また、江の島自体が持つ地理的条件も独特であった。海に浮かぶ島でありながら、干潮時には陸続きになるという景観の変化は、他の内陸の霊場にはない魅力だった。この「島渡り」は、単なる移動ではなく、日常と聖域との境界を渡る行為として、参詣者に特別な感覚を与えた可能性が高い。さらに、鎌倉という武士の都に隣接していたため、古くから武家との結びつきが強く、その歴史的重層性も江の島詣の奥行きを深めたと言える。
このように、江の島詣は、一般的な現世利益や身体修行といった巡礼の動機に加え、芸能文化との結びつきや、島という特殊な地理的条件がもたらす非日常感によって、他の巡礼地とは異なる独自の魅力を確立していったのである。
現代の江の島は、年間を通して多くの観光客が訪れる神奈川県を代表する観光地の一つである。小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」から江の島弁天橋を渡り島へと向かう風景は、江戸時代に人々が「江の島道」を辿った道のりとは様変わりしている。1964年の東京オリンピックのヨット競技会場として整備された湘南港(江の島ヨットハーバー)や、その後の埋め立てによって、島の景観は大きく変わった部分もある。
江島神社は現在も、辺津宮、中津宮、奥津宮の三社からなり、宗像三女神を祀る。かつての神仏習合の時代を経て、明治初期の神仏分離により純粋な神社信仰へと復したが、弁財天信仰は今もなお根強く残っている。金運、恋愛運、芸能運にご利益があるとされ、日本三大弁財天の一つとして多くの参拝者が訪れる。
島内には、江の島エスカーや江の島シーキャンドル(展望灯台)といった観光施設が整備され、かつて修行の場であった岩屋も、石仏や奇岩が見られる観光名所となっている。旅館「岩本楼」のように、江島神社の別当寺であった岩本院を起源とする老舗も現存し、島の歴史を今に伝えている。
また、江ノ島電鉄(江ノ電)は、明治35年(1902年)に江の島弁天への参拝者の利用を見込んで、藤沢から江ノ島までの区間を開業させたことに始まる。鉄道開通により、江の島へのアクセスは飛躍的に向上し、現代の観光客誘致に繋がる基盤が築かれたと言える。かつて信仰と行楽を兼ねた「江の島詣」は、現代において多様な目的を持つ観光へと変容しながらも、島を訪れる人々の流れは途絶えることがない。
江の島を巡る歴史を辿ると、この島が単なる景勝地ではなく、常に人々の「旅」と深く結びついてきたことが見えてくる。欽明天皇の時代に神が祀られたという伝承から始まり、修験者や武士、そして江戸の庶民に至るまで、それぞれの時代の人々が異なる目的意識を持ってこの島を目指した。
特に江戸時代の「江の島詣」は、信仰という名目を借りつつ、実際には観光や娯楽の要素が強く含まれていた。これは、現代の旅行者が、例えばパワースポット巡りや御朱印集めといった形で、かつての巡礼の形をなぞる姿と、ある種の共通性を持つ。純粋な信仰心だけではなく、そこにある「物語」や「体験」、そして「景色」といった複合的な魅力が、時代を超えて人々を惹きつける原動力なのではないか。
江の島は、その小さな島の中に、古代からの神話、中世の武家信仰、近世の庶民文化、そして近代以降の観光開発という、日本の歴史の様々な層を内包している。弁財天信仰が、戦いの神から芸能の神へと姿を変え、その時々の人々の願いや社会状況に合わせて受け入れられてきたこと。そして、その信仰が、旅という具体的な行為を通して、時代ごとに異なる文化を育んできたこと。この島に立つ時、その足元には、そうした歴史の堆積が静かに横たわっている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。