2026/7/2
城崎温泉はなぜ「まち全体がひとつの旅館」になったのか?震災からの復興と「共存共栄」の哲学

兵庫県の城崎の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
約1400年前の開湯伝説から始まる城崎温泉の歴史。北但大震災からの復興期に「共存共栄」の理念を掲げ、外湯中心の「まち宿」スタイルを確立した経緯を辿る。
柳並木に下駄の音、古湯の問い
兵庫県北部に位置する城崎温泉に足を踏み入れると、まず耳に届くのは、石畳に響く下駄の乾いた音だ。大谿川沿いに立ち並ぶ柳の木と、木造三階建ての旅館群が織りなす風景は、どこか懐かしく、時間が止まったかのような錯覚を覚える。浴衣姿の湯客がそぞろ歩く姿は、この地の「正装」として定着している。しかし、なぜこの温泉地は、これほどまでに一貫した「外湯めぐり」の文化を育み、町全体を一つの宿に見立てるような独自の発展を遂げてきたのだろうか。その問いの答えは、遠い開湯伝説から、幾度もの困難を乗り越えてきた人々の選択の中に息づいている。
道智上人の祈願と湯治の道
城崎温泉の歴史は、二つの開湯伝説にその端緒を見出すことができる。一つは約1400年前、舒明天皇の時代に遡る「鴻の湯」の伝説である。大谿川上流の松の木に巣を作っていたコウノトリの一羽が、足を傷つけ田んぼの水に浸していたところ、数日後には元気に飛び去ったという。里人がその場所を調べてみると、湯が湧き出していた。これが、現在も外湯の一つとして親しまれる「鴻の湯」の始まりとされている。
もう一つは、より具体的な年代を伴う「まんだら湯」の伝説である。養老元年(717年)、僧侶の道智上人がこの地を訪れた際、難病に苦しむ人々を目の当たりにし、救済を願って千日間の修行を行った。その満願の日である養老4年(720年)1月8日の明け方、8箇所を掘り下げると霊湯が湧き出したと伝えられ、里人たちはこれを「まんだら湯」と名付けた。道智上人はその後、天平10年(738年)に温泉寺を建立し、十一面観音を祀り、温泉の守護寺とした。この温泉寺は、古くから温泉の管理権を担い、入湯者が寺に参詣し、祈祷された湯杓を受けて入浴する「古式入湯作法」が明治末期まで伝えられていたという。
平安時代には、早くも『古今和歌集』(905年頃)に「但馬の湯」として城崎温泉を詠んだ歌が収められており、その存在が都の人々にも知られていたことがわかる。 鎌倉時代には「御所湯」が、江戸時代には「一の湯」「柳湯」「地蔵湯」といった外湯が次々と整備された。特に江戸中期以降は、京に近かったこともあり、多くの貴族や高僧、文化人が訪れるようになる。文化4年(1808年)には儒学者の柴野栗山が風光と療養の地として城崎を推奨し、その名はさらに広く知れ渡った。当時の湯治客は、知人縁者を頼って宿とし、食事は自ら賄うことも多かったという記録も残る。
徳川中期には旅籠が発達し、屋号がつけられ、幕末には宿屋組合「修進社」が結成される。当時の宿屋は63軒を数え、代官から官許を得ていた。源泉と6箇所の外湯は、この宿屋組合から選出された「湯方」が管理運営にあたっていたのである。 明治時代に入ると、客層の大衆化が進み、宿料が公然と徴収されるようになる。明治22年(1889年)に湯島村が施行されると、外湯の管理運営は村に継承され、明治28年(1895年)には湯島財産区に移管された。日清戦争後の不況で一時的に浴客が減少したが、日露戦争では傷病兵の療養地として指定され、明治43年(1910年)の山陰線開通が追い風となり、京都方面だけでなく阪神方面からも多くの湯客が訪れ、大正時代まで賑わいを見せた。 大正2年(1913年)には、後に「小説の神様」と称される文豪・志賀直哉が滞在し、山手線での事故後の療養中に名作『城の崎にて』を執筆。彼の滞在と思索は、城崎の文学的な価値を高めることにも繋がった。
震災からの再生と「まち宿」の哲学
城崎温泉の歴史を語る上で、大正14年(1925年)5月23日に発生した北但大震災は、決定的な転換点として位置づけられる。マグニチュード6.8の烈震が豊岡・城崎方面を襲い、城崎の町はほぼ壊滅状態となった。272名から283名に及ぶ死者が出ただけでなく、家屋の9割が倒壊・焼失し、温泉街は廃墟と化した。当時の宿料が1円前後であったことを考えると、その被害の甚大さが窺える。幸いにも源泉そのものには大きな影響がなかったものの、外湯の多くも倒壊・焼失したという。
しかし、この未曾有の災害が、城崎温泉の「まちづくり」の哲学を決定づけることになる。町は直ちに復興計画委員会を設け、町民が一丸となって立ち上がった。復興の第一歩として、まず温泉浴場(外湯)の復旧が進められ、大正15年(1926年)から昭和7年(1932年)にかけて、6箇所の外湯が全て新築された。この復興においては、単なる原状回復に留まらない、「共存共栄」の精神が貫かれたという。
具体的なまちづくりの方向性としては、防災の観点から道路の拡幅や、公共施設(外湯、町役場、警察署、駅舎など)の鉄筋コンクリート造りへの転換が図られた。 大谿川の川幅も広げられ、護岸には地元の玄武洞で採掘された玄武岩が用いられた。 また、コンクリートが増えた街の景観を補うため、川沿いには柳の木が植樹された。これは単なる美観だけでなく、火災の延焼を防ぐ防火壁としての役割も意識されたものだと言われている。 こうした復興事業によって、昭和10年(1935年)には現在の城崎温泉の骨格がほぼ完成した。
この復興期の象徴的な出来事として、「内湯訴訟事件」が挙げられる。大正2年(1927年)に、ある旅館が所有敷地内に湧出する温泉を利用して、旅館内に浴槽を設けたことから端を発したこの紛争は、温泉の利用権を巡り、湯島財産区と20年以上にわたって争われることになった。 この訴訟は、城崎温泉が「外湯中心の温泉地」というアイデンティティを確立する上で極めて重要であった。当時の城崎では、旅館に大きな内湯を設けることが制限されており、宿泊客は浴衣に着替えて外湯を巡るのが当たり前とされていた。この事件は、旅館が個々に豪華な内湯を持つことで競い合うのではなく、町全体が「一つの旅館」として機能し、外湯を共有する「共存共栄」の精神を堅持しようとする町の強い意思の表れであった。この裁判は昭和23年(1948年)まで続き、城崎温泉の発展を一時停滞させたが、最終的にはこの「共存共栄」の理念が再確認される形となった。
他の湯の里との対比に見る城崎
日本の温泉地は数多く、それぞれが独自の発展を遂げてきたが、城崎温泉の「まち全体が、ひとつの旅館」という思想は、全国的に見ても珍しい形態と言える。多くの温泉地では、宿泊施設がそれぞれに趣向を凝らした豪華な内湯や露天風呂を設け、それ自体を宿泊の大きな魅力として競い合う傾向にある。大規模なホテルチェーンが、館内で食事から入浴、土産物の購入まで全てが完結するような施設を展開することも少なくない。
例えば、同じ兵庫県に位置する有馬温泉は、古くから天皇や貴族、武将に愛されてきた歴史を持つ。金泉・銀泉という独自の泉質を有し、その歴史的価値と上質な旅館が提供するきめ細やかなサービスは、高級保養地としての地位を確立している。有馬の旅館は、それぞれが広大な敷地を持ち、趣の異なる内湯や庭園露天風呂を完備し、プライベートな空間での湯浴みを重視する傾向が強い。これは、城崎が外湯を共有し、町全体を「大浴場」と見立てるのとは対照的である。
また、九州の黒川温泉は、近年「入湯手形」と呼ばれる仕組みで、複数の旅館の露天風呂を巡る「外湯めぐり」を可能にし、観光客から高い評価を得ている。しかし、黒川温泉のこのスタイルは、昭和後期に「秘湯」としての魅力を高めるために、地域全体で景観保全と統一的なブランドイメージを構築する中で生まれた、比較的近代的な戦略である。 対して城崎温泉の外湯めぐりは、奈良時代からの歴史を持ち、江戸時代には既に旅館に内湯がなかったという記録も残る、より根源的な共同体の営みから生まれた文化である。北但大震災後の復興期に、この外湯中心のスタイルを町全体で再確認し、内湯訴訟という困難を経てまで守り抜いたという経緯は、黒川温泉のような計画的なブランディングとは一線を画す。
城崎の地理的条件も、この独自の発展に寄与している。円山川の支流である大谿川を挟む形で、三方を山に囲まれた狭い谷間に温泉街が形成されているため、大規模な開発よりも、既存の空間を密に活用し、住民と湯客が共存するコンパクトな町並みが自然と形成された。 このような地形は、町全体を歩いて巡る「外湯めぐり」に適したスケール感を生み出し、旅館の規模にも一定の制約をもたらしたと言えるだろう。
現代に息づく湯の文化
現代の城崎温泉は、開湯から約1300年の歴史を背負いながらも、その独自の文化を色濃く残している。町の中心には、「鴻の湯」「まんだら湯」「御所の湯」「一の湯」「柳湯」「地蔵湯」「さとの湯」という七つの外湯が点在し、それぞれが異なる趣と由来を持つ。例えば、「鴻の湯」はコウノトリ伝説に、「まんだら湯」は道智上人の祈願に、「御所の湯」は後堀河天皇の皇姉・安嘉門院の入湯にちなむなど、その歴史が各湯に息づいている。 これらの外湯は、浴衣と下駄で巡るのが城崎の習わしであり、宿泊客は旅館で手渡される浴衣を身につけ、カランコロンと音を立てながら湯の町を歩く。
この「浴衣文化」は、単なる観光客向けの演出に留まらない。浴衣は「城崎温泉の正装」とされ、宿泊客が浴衣姿で町を歩くことは、町全体で歓迎されている証でもある。 近年では、日帰り客やゲストハウス宿泊者向けに、より気軽に浴衣での散策を楽しめるよう、レンタル浴衣専門店「Yukata mamire」のような取り組みも生まれている。 これにより、多様な客層が城崎の伝統的な雰囲気に溶け込みやすくなっている。
また、志賀直哉の『城の崎にて』に代表される文学との繋がりも、城崎の大きな魅力である。温泉街には志賀直哉ゆかりの宿「三木屋」をはじめ、文学碑や城崎文芸館が点在し、文学ファンを惹きつけている。 これは、湯治という行為が、心身の癒しだけでなく、内省や創作の場ともなり得ることを示唆している。
一方で、歴史ある温泉地ならではの課題も抱えている。木造建築が立ち並ぶ美しい町並みは、大正時代の震災からの復興時に防火対策が施されたものの、現代においても火災への備えは継続的な課題である。実際に2015年には火災が発生し、被害も出ている。 また、温泉資源の保護や、観光客増加に伴う環境負荷の低減、そして地域経済の持続可能性も重要な論点だ。城崎温泉では、地域DMO(Destination Management Organization)が観光DXを推進し、多言語対応のデジタル案内板の設置や、プラスチックごみの削減といったサステナブルな観光地を目指す取り組みも進められている。 この「まち全体が、ひとつの旅館」というコンセプトは、各旅館が館内施設を過剰に拡張するのではなく、土産物店や飲食店、遊技場といった地域の商店が潤う構造を生み出し、観光客が町全体で消費する経済循環を促している。
湯の里に宿る「共助」の精神
城崎温泉が今日までその独特の姿を保ち続けているのは、単に古くからの慣習や地理的条件によるものだけではない。そこには、幾度もの危機を乗り越える中で育まれた、明確な「共助」の精神と、その時々の人々の意識的な選択が深く関わっている。
開湯伝説にコウノトリや道智上人の祈願が語られるように、城崎は古くから病を癒す「湯治場」としての性格を強く持っていた。しかし、その共同体としての性格が最も強く試され、そして強化されたのは、北但大震災からの復興期であった。町が壊滅的な被害を受けた後、住民たちは単に個々の生業を再建するだけでなく、町全体をどのように再構築するかという問いに向き合った。その結果、防災を意識した町並みへの改変と同時に、外湯を中心とする「共存共栄」の理念が打ち出されたのである。
この理念は、20年以上に及んだ「内湯訴訟事件」において、その真価が問われた。個別の旅館が独自の豪華な内湯を持つことは、短期的な収益増に繋がる可能性もあっただろう。しかし、町は外湯中心のスタイルを堅持することで、温泉資源の公平な分配と、湯客が町全体を巡ることで地域経済全体を活性化させるという、より大きな共同体の利益を優先した。この、一見すると不便にも思える選択が、結果として城崎温泉を他にはない魅力を持つ温泉地として確立させたのだ。
浴衣姿で外湯を巡るという光景は、単なる観光イメージではない。それは、湯客が「城崎という大きな宿」の一員となり、町と一体感を共有する行為である。旅館の部屋は客室であり、通りは廊下、そして外湯は大浴場であるという「まち宿」の哲学は、この共同体の精神がなければ成立し得ない。
城崎の歴史は、困難な状況下で個人が利己的な選択に走ることなく、共同体の利益と未来を見据えた選択を繰り返し行ってきた軌跡である。それは、伝統を守ることと、変化に適応することのバランスを、常に「共助」という視点から見つめ直してきた営みと言えるだろう。現代の城崎に息づく情緒豊かな風景は、そうした先人たちの、時に困難を伴ったであろう決断の積み重ねの上に成り立っているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 【ホームメイト】城崎温泉×志賀直哉|文人がこよなく愛した名湯|日本の温泉特集homemate-research-hot-spring.com
- 集中管理の「湯」が支える 浴衣で楽しむ「外湯巡り」 │72号 温泉の湯悦:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センターmizu.gr.jp
- 日本一浴衣の似合う町 城崎温泉 – きものっくkimoknock.jp
- 城崎温泉 | 城崎温泉|浴衣で七つの外湯めぐりを楽しむ情緒ある温泉街【アクセス・見どころ完全ガイド】japan.gogo.jp
- wixsite.comkinosaki-onsen.wixsite.com
- 城崎温泉「もう一つの開湯伝説」 - 城崎温泉元湯案内kinosaki-motoyu.com
- 城崎温泉の伝説(傷ついたコウノトリを癒やした鴻の湯の伝説) - 城崎温泉観光協会kinosaki-spa.gr.jp
- 鴻の湯(庭園風呂) - 城崎温泉元湯案内kinosaki-motoyu.com