2026/6/8
金沢のつば甚、鍔師から始まった迎賓館の歴史

金沢のつば甚について詳しく教えて欲しい。めっちゃ立派な建物で気になる。
キュリオす
金沢の寺町台に建つ「つば甚」は、宝暦二年創業の老舗料亭。加賀藩お抱え鍔師の家系から始まり、独自の食文化と建築様式で二百七十年以上、金沢の迎賓館として文化を育んできた。
金沢の寺町台を歩いていると、ひときわ目を引く重厚な木造建築が姿を現す。犀川の流れを見下ろすその高台に、まるで周囲の風景と一体化しているかのように建つ「つば甚」だ。その堂々たる佇まいは、単なる料亭というよりも、歴史の重みを宿した城郭のようにも感じられる。なぜこの建物が、そしてこの場所が、これほどまでに金沢の文化と深く結びついてきたのか。その疑問は、足を踏み入れる前から静かに立ち上がってくる。
つば甚の歴史は、江戸時代中期の宝暦二年(1752年)にまで遡る。そのルーツは、加賀百万石の礎を築いた前田利家に代々お抱え鍔師として仕えた「鍔家」にあった。三代目甚兵衛が、本業の傍ら「塩梅屋(あんばいや)」あるいは「つば屋」という小亭を営んだのが始まりとされている。当初は友人知人をもてなす場であったというが、その趣向を凝らした料理はたちまち評判を呼び、藩主や藩内の重臣たちも足を運ぶようになったという。
やがて甚兵衛は鍔師から料理屋へと生業を転じ、金沢の迎賓館としての役割を担うようになる。文明開化以降もその名声は衰えることなく、明治の元勲である伊藤博文をはじめ、芥川龍之介、室生犀星、三島由紀夫といった文人墨客たちが訪れ、その空間と料理を愛した。特に伊藤博文は、滞在中に「月の間」からの眺望と料理に感銘を受け、「風光第一楼」という書を残したと伝えられている。
現在の建物は、大正時代に大規模な改築を経ている。大正八年(1919年)に金沢市内線の路面電車開通に伴う道路拡張のため、つば甚は元の位置から犀川側に下がって建て直されたのだ。この際に、それまで中庭にあったとされる大きな松の木が正面玄関に移されたという逸話も残る。平成二十四年(2012年)には、寺町台が「伝統的建造物群保存地区」に指定され、つば甚を含むこの一帯の歴史的な景観が今日まで保全されている。
つば甚が金沢を代表する料亭として二百七十年以上にわたりその地位を保ち続けてきた背景には、いくつかの要因が複合的に作用している。
一つは、その地理的条件と歴史的文脈だ。つば甚が建つ寺町台は、加賀藩主前田家の墓所がある野田山へと続く「野田寺町一本道」の途中に位置する。かつてバスや電車がない時代、前田家の人々はこの道を歩いて墓参りに向かい、その道中の休憩に塩梅屋であるつば甚に立ち寄ったという。藩主や重臣たちの庇護を得られたのは、単に料理の腕前だけでなく、この場所が持つ格式と利便性が大きかったのだろう。
二つ目は、加賀料理という独自の食文化の継承と発展である。金沢は海と山に囲まれ、新鮮な食材が豊富に手に入る恵まれた土地だ。肥沃な加賀平野は米や野菜の栽培にも適しており、上流階級から庶民までその恩恵にあずかることができた。加賀料理には明確な定義はないとされ、その言葉自体が戦後に定着したとも言われているが、地元の豊かな食材を活かし、洗練された技術と細やかな心配りで供される料理が特徴だ。つば甚では、水溶き小麦粉で仕立てる「治部煮」や、独特の食感を持つ「蓮蒸し」といった伝統的な加賀料理が、創業以来の味として受け継がれている。料理人の高い技量と、季節感を映し出す器や空間演出が一体となり、加賀料理は単なる食事を超えた総合芸術として提供されてきたのだ。
そして三つ目は、建築そのものが持つ価値である。現在の建物は、大正時代に再建されたものだが、その内部には現代では再現困難な技術が凝らされている。特に二〇〇畳もの大広間は、柱を間に用いない工法で建てられ、最大百五十名まで一同に会して食事ができる広壮な空間となっている。広縁の天井には網代張りの矢羽根編みが施され、その職人技と材料の貴重さから、現代では大変貴重なものだという。また、成巽閣から譲り受けた窓枠や、前田家のお姫様から贈られた帯を貼った地袋、若き歌人や画家が出世払いの御礼として描いた襖絵など、客室の随所に歴史と記憶が散りばめられている。これらの建築と調度品は、料亭が単に料理を提供する場ではなく、文化的な体験を提供する「美の博物館」としての役割を果たしてきた証左だ。
日本には、各地に長い歴史を持つ料亭や老舗旅館が存在する。京都の老舗料亭が公家文化や茶の湯の影響を色濃く残すように、金沢のつば甚もまた、加賀藩の武家文化を背景に独自の発展を遂げてきた。
例えば、金沢市内にも慶応三年(1867年)創業の「浅田」や明治二十年(1887年)創業の「金城樓」といった老舗料亭がある。これらの店もまた、加賀藩の御料理方を務めたり、飛脚御用を勤めたりと、藩政時代からの深い繋がりを持つ。文人墨客が訪れた歴史も共通している点だ。しかし、つば甚が金沢最古の料亭とされる宝暦二年(1752年)創業という点、そしてそのルーツが「鍔師」にあったという経緯は、他の老舗とは一線を画す特徴だろう。
多くの料亭が料理人や茶屋を起源とする中で、武具の職人という異色の出自は、つば甚の独自性を際立たせている。刀の鍔は、単なる武具ではなく、精緻な装飾が施される美術工芸品でもあった。この工芸的な美意識や細部へのこだわりが、料理の盛り付けや器、そして空間全体への「おもてなしの心」へと昇華されていったのではないか。刀の鍔という、武士の魂ともいえる道具に関わってきたからこそ、単なる美食の提供に留まらず、歴史や文化、美意識を五感で味わう場として、その存在感を確立していったと考えられる。この点において、つば甚は金沢の料亭文化の中でも特異な位置を占めている。
現代のつば甚は、結婚式や結納、ビジネスの接待、そして観光客の訪問を受け入れる金沢を代表する料亭としてその姿を保っている。犀川を見下ろす高台の立地は変わらず、四季折々の金沢の風景を借景として取り入れている。
館内には、「月の間」や松尾芭蕉ゆかりの「小春庵」など、歴史上の人物が利用したとされる部屋が今も残され、それぞれに異なる趣と物語が息づいている。大正時代に再建された二〇〇畳の大広間は、現代では建築が難しいとされる貴重な空間であり、大人数の宴席にも対応している。
料理は、旬の厳選食材を用いた伝統的な加賀会席料理が中心だ。近年では、国の登録無形文化財に登録された加賀料理の真髄に触れるべく、板長による治部煮の実演を伴う特別コースなども提供されており、単なる食事を超えた文化体験の場となっている。また、伝統的な日本料理の提供にとどまらず、婚礼の場としても活用され、和の趣を活かした結婚式「祝言式」が行われるなど、現代のニーズにも応えながら、老舗の伝統を守り続けている。
金沢のつば甚という建物は、単なる料亭の枠を超え、この土地の歴史と文化が幾重にも重なり合った層を体現している。鍔師という武家社会に根差した職人が、その美意識と細やかな心配りを料理と空間へと転換させ、やがて藩主から文人墨客までを魅了する迎賓の場へと発展した。
大正期の都市計画による移築と再建は、近代化の波の中で伝統がいかに形を変え、しかし本質を保ちながら生き残ってきたかを示す具体的な証左である。現代の私たちがその門をくぐり、歴史ある座敷に座る時、単に古い建築物や伝統的な料理に触れるだけでなく、加賀藩の武家文化、職人の矜持、そして時代を超えて受け継がれる「もてなし」の精神が、確かにそこに息づいていることを感じ取るだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。