2026/7/5
平安・鎌倉時代の庶民の家はなぜ20〜30年で建て替えられたのか?

平安・鎌倉時代、庶民の家の作りや構造や間取りや大きさはどのようなものだったのか?自分で木を切ってきて建てたのか?あるいは建てる職能を持った人たちがいたのか?
キュリオす
平安・鎌倉時代の庶民の住居は、貴族の寝殿造とは異なり、竪穴住居や掘立柱建物が主流だった。これらは消耗品とみなされ、20〜30年で建て替えられることが一般的だった。その背景には、簡便な建築技術と独特の価値観があった。
泥と柱の境界線から
平安時代の京都といえば、誰もが寝殿造の優美な貴族邸宅を思い浮かべる。広大な池を配した庭園、透かし渡殿でつながれた檜皮葺の屋根。しかし、その華やかな都の片隅や、あるいは地方の村々で、当時の人口の圧倒的多数を占めていた庶民たちがどのような空間で寝起きしていたのかとなると、途端にイメージは霧に包まれる。
教科書的な理解では、古代の竪穴住居は平安時代には姿を消し、地上に柱を立てる「掘立柱建物」へと移行したとされる。だが、近年の発掘調査が描き出す実像は、その通説を裏切るものだ。例えば、鎌倉時代の中心地であった由比ヶ浜周辺の遺跡からは、驚くべきことにこの時代になってもなお、地面を掘り下げて床とする竪穴住居の跡がいくつも発見されている。武家政権が誕生し、都市が成熟を見せていたはずの鎌倉で、人々は依然として先史時代以来の「穴の中」で暮らしていたのだ。
一方で、平安京の都市部では、限られた土地を効率的に使うための極めて合理的な空間設計が始まっていた。一辺120メートルの正方形の区画を細かく切り分け、隣家と軒を接するようにして暮らす「町屋」の原型である。そこには、貴族の邸宅にあるような「自然との調和」や「永遠性」などは微塵も存在しない。
では、これらの住居は誰が、どのようにして建てたのだろうか。山から木を切り出し、自分の手で組み上げた自給自足の産物だったのか。それとも、現代の大工のような専門的な職能を持った集団が、すでに存在していたのだろうか。その答えを探っていくと、当時の住居が「資産」ではなく、20年から30年で使い捨てられる「消耗品」であったという、現代とは決定的に異なる建築観が浮かび上がってくる。
穴から地上へ、そして「町」の誕生
平安時代から鎌倉時代にかけての庶民住居の変化を語る上で、まず避けて通れないのが「竪穴から地上へ」という建築様式の転換だ。とはいえ、これはある日を境に一斉に起きた変化ではない。
地方の農村部では、平安時代を通じて竪穴住居が根強く残っていた。地面を数十センチ掘り下げ、その底を床とするこの形式は、地熱を利用できるため冬の寒さに強く、構造も単純で材料も少なくて済む。しかし、この様式には致命的な弱点があった。排水が難しく、一度大雨に見舞われれば床が泥沼と化すことだ。また、都市のように人口が密集する場所では、穴を掘るという行為自体が土地の有効活用を妨げる。
そこで、平安京という巨大な計画都市の誕生とともに普及したのが、平地に直接柱を立てる「掘立柱建物」だった。この建築手法の最大の特徴は、礎石(土台となる石)を使わないことにある。地面に直接穴を掘り、そこに柱の根元を突き刺して埋め戻す。この単純極まりない構造が、当時の庶民住居のスタンダードとなった。
平安京の宅地割りは、驚くほどシステマチックに管理されていた。一辺約120メートルの「町」と呼ばれる正方形の区画を、東西に4つ、南北に8つに分割する「四行八門制」が基本である。これによって、1つの町には32の宅地が整然と並ぶことになった。1区画の面積は約450平方メートル。現代の一般的な住宅地と比べれば十分に広く感じるが、ここには住居だけでなく、小さな畑や井戸、さらには下男たちの小屋なども含まれていた。
さらに時代が下り、商業が活発化すると、この区画はさらに細分化されていく。道路に面した間口を重視する「うなぎの寝床」のような細長い敷地が生まれ、建物もまた、通りに対して平行に並ぶ長屋のような形式を取るようになった。これが、私たちがよく知る「京町家」の遠い先祖である。
だが、ここで注意しなければならないのは、これらの町屋が現代の家のように「一生もの」として建てられたわけではないという点だ。掘立柱という構造そのものが、ある種の「期限付き」の選択だったのである。
腐敗と再生の20年サイクル
なぜ、当時の庶民は礎石を使わず、柱を地面に埋めるという手法を選んだのか。その最大の理由は、技術的な難易度とコストの低さにある。
礎石の上に柱を立てる建築(礎石建物)は、柱を垂直に自立させ、かつ屋根の重みを均等に分散させるために、高度な設計能力と「継手・仕口」と呼ばれる複雑な木組みの技術を必要とする。これには専門の職人が不可欠だ。対して掘立柱建物は、柱の一本一本が電柱のように地面によって自立しているため、構造的な計算が甘くても、とりあえず屋根を載せることができてしまう。
しかし、この簡便さと引き換えに、掘立柱建物は「腐食」という宿命を背負うことになった。土に埋まった柱の根元は、湿気や微生物によって必ず腐る。当時の木材の耐用年数を考えると、掘立柱の寿命はせいぜい20年から30年程度だったと推測されている。つまり、当時の庶民にとって家を建てるという行為は、一度きりの重大事ではなく、世代ごとに繰り返される定期的な「更新作業」だったのである。
この「使い捨ての建築」を支えたのが、驚くべき原始的な加工技術だ。平安・鎌倉時代の建築現場には、現代のような「引き鋸(のこぎり)」は存在しなかった。大きな丸太を板に加工する際、彼らが使ったのは「楔(くさび)」である。丸太の端に楔を打ち込み、木の繊維に沿って力任せに割っていく。そうして得られた荒い板を、手斧(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)で削って表面を整える。
この方法は、木材の細胞を壊さずに割るため、水に強く耐久性が高いという利点があったが、一方で得られる板の厚みは不揃いになりがちだった。そのため、庶民の家の壁は土壁を塗る余裕などなく、多くの場合、こうした割板を打ち付けただけのものや、竹や葦を編んだ網代壁(あじろかべ)だった。
間取りも極めてシンプルだ。基本的には「二室住居」と呼ばれる形式で、煮炊きを行う土間(どま)と、少し高くなった床座(ゆかざ)のスペースがあるだけだ。広さは4畳半から6畳程度。そこに家族全員が密集して寝起きしていた。プライバシーという概念は存在せず、家はあくまで「雨風をしのぎ、火を囲むための場所」に過ぎなかった。
このような短命で簡素な住居は、災害や火災が頻発した中世の都市において、ある種の適応戦略でもあった。焼失しても、あるいは腐り落ちても、身近な材料で速やかに再建できる。この「軽さ」こそが、中世庶民の住まいの本質だったのである。
「番匠」というプロフェッショナルの台頭
では、こうした住居は本当に住人たちが自分たちだけで建てていたのだろうか。ここで、日本の建築史における重要なプレイヤーである「番匠(ばんしょう)」が登場する。
古代、律令体制下において「大工(だいく)」という言葉は、職人の名称ではなく、宮中の建設部門(木工寮など)における官職の名前だった。従五位という貴族に近い位を与えられた最高責任者が「大工」であり、その下で実際に手を動かす技能者集団が「番匠」と呼ばれていた。
平安時代中期以降、律令体制が崩壊し、官営の工房が解体されると、これらの技術者たちは特定の寺社や権力者に抱えられるようになった。そして鎌倉時代に入ると、彼らは「座(ざ)」と呼ばれる職能ギルドを形成し、特定の地域や寺社の作事(建築工事)を独占する権利を持つようになる。
都市部における庶民の住居建設においても、こうしたプロの関与が徐々に強まっていった形跡がある。特に平安京のような密集地では、隣家との境界や限られた部材のやりくりにおいて、素人の手には負えない調整が必要になったからだ。
ただし、ここでいう「プロの仕事」は、現代の大工仕事とは少し意味合いが異なる。番匠たちは、単に家を建てるだけでなく、山からの木材調達、製材、そして地鎮祭などの祭祀までを一手に引き受ける「建築の司祭」のような役割も果たしていた。彼らは木を伐り出す際に山の神に祈りを捧げ、棟上げの儀式によって建物に魂を吹き込んだ。
一方で、地方の農村部では、依然として共同体による自力建設が主流だった。近隣住民が互いに労働力を提供し合う「結(ゆい)」や「組(くみ)」といった仕組みによって、材料を運び、柱を立て、茅を葺く。掘立柱建物という簡便な構造は、こうした「専門家ではない大勢の手」による建設を可能にするためのプラットフォームでもあったのだ。
つまり、平安・鎌倉時代とは、建築が「共同体の行事」から「専門職への発注」へと移り変わる過渡期にあったといえる。都市では番匠が町割りに合わせた精緻な町屋を組み上げ、村では農民たちが古くからの知恵で竪穴や掘立柱を維持し続ける。この二極化が、当時の住環境の多様性を生んでいた。
港町に残された「使い捨て」の痕跡
当時の庶民がどのような空間で、どのような道具に囲まれて暮らしていたのか。その実態を生々しく伝えてくれるのが、広島県福山市にある「草戸千軒町遺跡(くさどせんげんちょういせき)」だ。
芦田川の河口に位置し、鎌倉時代から室町時代にかけて繁栄したこの港町は、度重なる洪水によって一時期は完全に土砂の下に埋もれていた。そのため、腐りやすい木製品や建物の跡が驚くほど良好な状態で保存されており、「中世のポンペイ」とも称される。
発掘調査によって明らかになったのは、驚くほど高密度な都市空間だ。道に面して小さな店舗兼住居が並び、その背後には井戸やゴミ捨て場が密集している。建物の柱穴を詳しく調べると、同じ場所で何度も建て替えが行われた痕跡が見つかる。柱が腐るたびに、わずかに位置をずらして新しい穴を掘り、家を更新していたのだ。
興味深いのは、出土した遺物の多様性だ。庶民の町でありながら、中国から輸入された青磁や白磁の破片が大量に見つかっている。彼らは決して貧しさに喘いでいたわけではなく、交易によって得た富で、当時の最先端の文化を享受していた。しかし、その一方で、住居そのものは依然として掘立柱の簡素な作りのままだった。
ここに、中世人の独特な価値観が見て取れる。彼らにとって、陶磁器や衣服、あるいは信仰の対象となる仏具などは、大切に所有し、継承すべき「財産」だった。しかし、家という箱は、あくまでその時々の活動を支えるための「シェルター」に過ぎなかった。土地に執着し、堅牢な家を建てて資産価値を維持するという現代的な感覚は、この時代の庶民にはまだ希薄だったのである。
また、草戸千軒の調査では、番匠が使っていた道具も多数発見されている。手斧や鑿(のみ)、そして墨を打つための道具。これらは、当時の建築が決して「いい加減な掘っ立て小屋」ではなく、限られた部材と道具を最大限に活かした、プロの技術に裏打ちされたものであることを物語っている。
消耗品としての建築、その豊かさ
平安・鎌倉時代の庶民住居を巡る旅を終えて見えてくるのは、私たちが当たり前だと思っている「家」の概念がいかに特殊なものであるかという事実だ。
私たちは家を、数十年かけてローンを払い、一生をかけて維持していく「不動産」として捉えている。しかし、中世の庶民にとって家は、もっと動的で、代謝の激しい存在だった。木が腐れば建て替え、家族が増えれば増築し、都市の構造が変われば場所を移す。掘立柱という、地面に直接根を下ろす構造は、その不自由さゆえに、かえって生活の変化に対する柔軟な「軽さ」を担保していたのではないか。
自給自足で木を切ってきた時代から、番匠という専門職に頼る時代へ。その変化の中で、家は単なる「穴」から、都市を構成する「部品」へと進化した。しかし、その根底にある「建築は消耗品である」という思想は、鎌倉時代が終わるまで一貫していたように思える。
現代の私たちは、古民家を見て「昔の家は100年も200年も持った」と感嘆する。だが、それは現存する一部の「特別な家(豪農や権力者の家)」の話に過ぎない。歴史の余白に消えていった名もなき数百万の庶民たちは、20年ごとに土に還る家を愛おしみ、その短いサイクルの中で、たくましく、そして意外なほど豊かに暮らしていた。
彼らにとっての「良い家」とは、何世代も残ることではなく、今この瞬間の火の温かさを守り、仲間とともに速やかに再建できる、再生の力を秘めた空間だった。その潔いまでの割り切りの中に、現代の私たちが忘れてしまった、住まうことの根源的な自由が隠されているような気がしてならない。
草戸千軒の井戸跡に今も残る、幾重にも重なった柱の傷跡。それは、中世という荒々しくも活気に満ちた時代を駆け抜けた、名もなき住人たちの絶え間ない「再生」の記録そのものである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。