2026/7/1
ソメイヨシノや初詣はいつから「伝統」になったのか?明治に生まれた風景を辿る

明治時代に創られた「日本の伝統」には具体的にどんなものがあるのか?
キュリオす
明治時代、近代化を進める中で「日本の伝統」が意図的に創り出された。ソメイヨシノの普及、初詣の定着、相撲の国技化など、現代に続く習慣や風景がどのように形作られたのか、その背景を探る。
均質なピンク色に染まる春の公園で
上野恩賜公園の桜並木を歩くと、その圧倒的な視覚の統一感に足が止まる。どの木も同じ時期に蕾を膨らませ、一斉に淡いピンク色の花を咲かせ、そして一週間ほどで潔く散っていく。この風景を、私たちは「日本の原風景」として疑いもなく受け入れている。しかし、足元の土に刻まれた歴史を遡ると、この均質な風景が形作られたのは、実はそれほど古いことではない。
江戸時代の花見は、もっと混沌としていた。山桜、八重桜、しだれ桜。種類も開花時期も異なる木々が混在し、人々は長い期間をかけて、それぞれの個性を愛でていたという。それが明治という新しい時代の幕開けとともに、風景の質が劇的に塗り替えられた。主役となったのは、江戸末期に染井村の植木職人が生み出した「ソメイヨシノ」である。
なぜ、私たちはこの明治生まれのクローン樹木を「伝統」として内面化するに至ったのか。そこには単なる園芸的流行を超えた、国家という巨大な装置が風景を設計しようとした意志が透けて見える。古くから続く伝統だと思い込んでいるものの多くが、実は明治という激動の数十年間に「発明」されたものであるという事実は、現代の私たちが立つ土地の輪郭を捉え直すための、ささやかな、しかし鋭い手がかりを与えてくれるだろう。
染井村から軍靴の響く場所まで
ソメイヨシノの普及は、明治政府が進めた近代化の歩みと見事に重なっている。この品種は、エドヒガンとオオシマザクラの交配種であり、接ぎ木によって増殖する。つまり、全国に広まったソメイヨシノはすべて、元を辿れば一株の木に行き着くクローンである。成長が極めて早く、数年で立派な花を咲かせるという特性は、何もない場所に急いで「伝統的な風景」を創り出さなければならなかった新政府にとって、これ以上ない武器となった。
明治政府は、上野や靖国神社、あるいは全国に新設された小学校や軍の駐屯地に、競うようにソメイヨシノを植えた。特に靖国神社における桜は、軍隊の規律や「散り際の美学」と結びつけられ、単なる植物以上の精神的意味を帯びるようになる。江戸時代の桜が、生命の謳歌や現世の享楽の象徴であったのに対し、明治の桜は、均質に咲き、一斉に散るという集団性の象徴へと変質していった。
風景の再編と同時に行われたのが、信仰の再編である。明治維新直後の「神仏分離」と、それに続く「廃仏毀釈」は、それまで数百年続いてきた「神仏習合」という日本の宗教的基盤を根底から破壊した。たとえば、現在の伊勢神宮を訪れると、そこには静謐で純粋な神道空間が広がっているが、江戸時代までは周辺に数百もの寺院が立ち並び、神宮内でも僧侶が祈りを捧げていた。
明治政府は、伊勢神宮を全国の神社の頂点に据え、かつて庶民の歓楽地でもあった伊勢を「国家の宗廟」へと作り替えた。内宮の天照大神を皇祖神として絶対化し、外宮よりも格上の存在として位置づける序列も、この時期に再定義されたものである。かつての伊勢にあったカオスな信仰形態は削ぎ落とされ、現在私たちが目にする「簡素で清浄な神宮」という伝統の姿が抽出された。それは、古いものを守ったというよりも、古い素材を使って新しいシステムを構築したと言うほうが正確かもしれない。
鉄路が運んだ新しい祈りの形
伝統の創出は、政治的な意図だけでなく、商業的な戦略からも生まれている。その代表的な例が「初詣」である。正月三が日に有名な社寺へ参拝するこの習慣は、江戸時代から続く古風なものと思われがちだが、実態は明治中期に鉄道会社が仕掛けたキャンペーンから始まった。
江戸時代の人々が行っていたのは、その年の恵方にある社寺に詣でる「恵方参り」や、地元の氏神への参拝、あるいは毎月の「縁日参り」であった。特定の「元日」に遠方の有名な社寺へ一斉に押し寄せるという行動様式は存在しなかった。この状況を変えたのが、1899年(明治32年)に開業した大師電鉄(現在の京浜急行電鉄)などの私鉄各社である。
鉄道会社は、冬場の閑散期の乗客を増やすため、沿線の川崎大師や成田山新勝寺への参拝を「初詣」という新しい言葉でパッケージ化し、大々的に宣伝した。当初は恵方に関係なく参拝することを不自然に感じる人々もいたが、鉄道という近代的な移動手段と、新聞広告による刷り込みが、わずか数十年で「正月は初詣に行くのが日本の伝統」という認識を定着させてしまった。
同じく「国技」としての相撲も、明治という時代にその地位を確立した。江戸時代の相撲は、人気のある興行の一つに過ぎず、明治維新直後には「野蛮な見世物」として存続の危機にすら立たされていた。しかし、1884年(明治17年)に浜離宮の延遼館で行われた天覧相撲をきっかけに、相撲は天皇が観戦するに相応しい「高尚な武道」へと格上げされる。
1909年(明治42年)に常設の興行施設が完成した際、作家の江見水蔭が起草した案内文に「国技」という言葉が使われ、その建物が「国技館」と名付けられたことで、相撲は名実ともに日本の国技となった。土俵の上に吊り屋根を設け、神裁を模した行司の所作が様式化されたのもこの時期である。私たちが現在、テレビ中継で目にする「伝統的な大相撲」の様式の多くは、近代スポーツとしての体裁を整える過程で整えられたものである。
さらに、新渡戸稲造が1899年に英文で出版した『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』の影響も無視できない。これは、西洋人から「日本には宗教教育がないのに、どうやって道徳を教えているのか」と問われた新渡戸が、日本人の中に流れる無形の精神を体系化しようとした試みであった。それまで武士の家訓や地域ごとの倫理に過ぎなかったものが、この一冊によって「日本民族共通のアイデンティティ」として定義し直された。武士道という言葉が、古来からの伝統として語られるとき、その背景には常に「西洋という鏡」に映し出された自己像の再構築があった。
霧のロンドンと江戸の残像を並べて
明治の日本で行われた「伝統の創出」は、決して日本固有の現象ではない。歴史学者のエリック・ホブズボームが指摘したように、19世紀のヨーロッパでも同様の動きが活発に見られた。たとえば、スコットランドの伝統とされる「各家系特有のタータンチェック(キルト)」は、実は18世紀末から19世紀にかけて発明されたものである。それまでは地域ごとの大まかな柄に過ぎなかったものが、イギリス王室の訪問やロマン主義の流行を経て、古くからの伝統として制度化された。
イギリスにおけるこの動きと、明治の日本における伝統創設には、共通する構造がある。それは「国民国家の形成」という切実な必要性だ。多様な地方文化や階級が混在する社会を一つの「国民」として統合するためには、全員が共有できる「古い歴史に基づいた物語」が必要だった。キルトがスコットランド人の誇りを象徴するように、ソメイヨシノや初詣、武士道は、日本人という新しい枠組みを固定するための接着剤として機能した。
一方で、明治の創出が江戸時代の文化と決定的に異なる点は、その「均質化」と「中央集権化」にある。江戸時代の文化は、藩ごとの境界や身分制度によって守られた、多様で断片的なものであった。食文化一つとっても、明治初期に「和食」という言葉が生まれたのは、西洋から入ってきた「洋食」という対抗軸が出現したからに他ならない。1898年(明治31年)の『日本料理法大全』などの文献に象徴されるように、それまでは「江戸料理」や「京料理」として個別に存在していたものが、洋食との対比において「和食」という一つのカテゴリーに統合されていった。
江戸時代の伝統が「重なり合う多様性」であったのに対し、明治の伝統は「整理された統一性」を目指した。この違いは、現代の私たちが伝統を語る際の解像度を大きく左右している。私たちは、明治というフィルターを通した後の「洗練された伝統」を伝統と呼び、その奥にある、より泥臭く支離滅裂な江戸以前の姿を、しばしば忘却してしまっている。
誰の記憶にもないはずの原風景
現在の日本において、明治に創られた伝統は、もはや「創られた」という接頭辞を必要としないほど、社会の深部にまで根を張っている。春になれば気象庁がソメイヨシノの開花宣言を出し、人々はそれを基準に行動する。正月の鉄道は、初詣に向かう人々で深夜まで動き続ける。これらは、現代の日本人にとっての「季節の正しさ」を測る尺度そのものになっている。
しかし、この百五十年の間に定着した伝統も、今、新たな変容を迫られている。ソメイヨシノは、クローンゆえの弱点として、寿命や病害虫への耐性が懸念されている。戦後に大量植樹された木々が一斉に老齢期を迎え、各地で植え替えの議論が起きているが、そこで選ばれるのは再びソメイヨシノなのか、あるいは江戸時代のような多様な品種の混在なのか。
初詣にしても、コロナ禍を経て「分散参拝」が推奨されたことで、鉄道会社がかつて構築した「三が日に集中する」という様式が揺らぎ始めている。また、デジタル技術の普及により、現地に足を運ばない「オンライン参拝」という、明治の人々が聞けば腰を抜かすような形態も現れた。
伝統とは、一度完成すれば永遠に変わらない静止画ではない。明治の人々が、江戸の素材を近代という器に盛り直したように、現代の私たちもまた、明治の遺産を今の時代に合わせて編集し続けている。上野公園の桜並木が、単なる観光地ではなく、今なお人々の心を強く揺さぶるのは、それが「古いから」ではなく、明治以来の数え切れないほどの「花見という行為の積み重ね」が、その場所に固有の密度を与えているからだろう。
私たちが「伝統」と呼ぶものの正体は、過去から届いた遺物ではなく、今を生きる私たちが「これは守るに値する」と合意し続けている意志の現在地である。その意味で、明治の創出は現在進行形の出来事として、私たちの目の前の風景の中に生き続けている。
百五十年の地層が教えるもの
明治時代に創られた伝統を眺めると、そこには「偽物」や「捏造」といった言葉では片付けられない、凄まじいまでの切実さが浮かび上がる。当時の人々は、西洋という巨大な波に飲み込まれないよう、自分たちの足元に急いで頑丈な石垣を築かなければならなかった。ソメイヨシノのピンク色も、初詣の賑わいも、武士道の峻厳さも、すべてはその切実さが結晶化したものである。
伝統が「創られた」ものであるという事実は、その価値をいささかも減じるものではない。むしろ、わずか数十年の間に、これほどまでに強固な心象風景を国民全体に共有させたという事実は、人間の想像力と意志が持つ恐るべき力を示している。私たちは、千年続く伝統を守っているつもりで、実は明治という時代が設計した「近代」というレールの上を、今も走り続けているのだ。
重要なのは、その伝統がいつ始まったかという年表上の数字ではない。なぜその伝統が必要とされ、どのようにして人々の生活に溶け込んでいったのかという、その「手間」と「力学」を理解することだ。染井村の植木屋が接ぎ木を繰り返した回数、鉄道会社が新聞広告に費やしたインクの量、新渡戸稲造が異国の地で筆を走らせた孤独な時間。そうした具体的なコストの集積が、今の私たちの「当たり前」を支えている。
風景は、常に書き換えられる。明治の伝統が江戸を塗り替えたように、私たちの時代の選択もまた、未来の伝統を形作っていくだろう。上野の桜が散った後に残る、青々とした葉の茂みを見上げるとき、そこに重なっているのは、百五十年前の誰かが夢見た「新しい日本」の残像であり、同時に、それを伝統として受け入れ続けてきた私たちの、静かな共犯関係の証左である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 日本史の一大汚点「廃仏毀釈」はいかにして行われたか?【書籍オンライン編集部セレクション】 | 三流の維新 一流の江戸 | ダイヤモンド・オンラインdiamond.jp
- 天覧相撲 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 明治維新後、知られざる「宗教行政史」の謎を解く 『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』窪壮一朗氏インタビュー Wedge ONLINE(ウェッジ・オンライン)wedge.ismedia.jp
- 神と仏を分かつもの ~明治維新の廃仏毀釈 | 戦国ヒストリーsengoku-his.com
- 【初詣の歴史】知っていますか? 鉄道から始まる「初詣」の100年 | ホトカミhotokami.jp
- 鉄道トリビア(286) 初詣の慣習は鉄道会社の集客競争がきっかけで広まった | マイナビニュースnews.mynavi.jp