2026/6/12
久美浜湾の地形が丹後地方の要衝たる歴史を築いた

久美浜の歴史について詳しく教えてほしい。
キュリオす
久美浜湾は、約2万年前の地形形成から古代の交流拠点、中世の荘園、江戸時代の代官所設置、豪商の活躍、そして丹後ちりめん産業との関わりを経て、現代の景観に至るまで、この地の歴史を形作ってきた。
湾を隔てる砂州の眺めから
日本海に面した久美浜を訪れると、まずその独特の地形に目を奪われる。長く伸びる砂州「小天橋」が、荒々しい外海と穏やかな久美浜湾を隔てている。この湾は、かつて日本海とつながっていた谷が最終氷期の海面上昇と沿岸流によって運ばれた砂によって閉じられ形成された潟湖であるという。 周囲約28キロメートル、面積約7平方キロメートルにも及ぶこの汽水湖は、単なる景勝地ではなく、久美浜の歴史そのものを形作ってきた。 なぜこの地が、古代から近世にかけて、丹後地方の要衝であり続けたのか。その問いは、この湾の成り立ちと、そこに人々が築き上げてきた営みに隠されている。
潟湖に開かれた古代からの道筋
久美浜湾周辺は、その特異な地形から古くから人々の生活の場であった。弥生時代には、日本海沿岸という立地から大陸文化の影響を受け、鉄と稲作の文化が伝えられたとされる函石浜遺跡が残る。 また、湾に突き出す大明神岬には、丹後半島の平定に派遣されたという丹波道主命の墳墓伝承を持つものを含む、11基の古墳群が分布している。 これは、古代においてこの地が有力な勢力を擁していたことを示唆するだろう。
平安後期以降、久美浜湾周辺は「久美の丘」、のちに「久美荘」と呼ばれる荘園が拓かれ、丹後有数の人口を抱える地域となった。 1191年(建久2年)の記録にその名が初出する久美荘は、当初は後白河法皇の御所六条殿の持仏堂である長講堂の所領であったとされ、その後も仁和寺や延暦寺といった有力寺社が支配に関わった記録が残る。 室町時代には伊賀氏、桃山時代には細川氏の家臣である松井康之が松倉城を築き、その城下町として「うなぎの寝床」と呼ばれる短冊形地割の町並みが整えられていった。 これらは、久美浜が単なる漁村ではなく、古くから政治的・経済的な拠点として認識されてきた歴史を示すものだ。
幕府の要衝と豪商たちの時代
江戸時代に入ると、久美浜は元禄10年(1697年)に幕府の直轄領(天領)となる。 そして享保20年(1735年)には久美浜代官所が設置され、明治維新までの約130年間、丹後・但馬にまたがる約7万石を管轄する行政の中心地として機能した。 この「海の代官所」とも呼ばれる久美浜代官所の存在は、この地が年貢米の搬出港として、また商品経済の拠点として、いかに幕府にとって重要視されていたかを物語る。
代官所が置かれたことで、久美浜は海上交通の要衝としても栄えた。特に湊宮地区では、廻船業や両替商、酒造業を営む「五軒家」と呼ばれる豪商たちが大きな財をなした。 小西家(本座屋、新屋、下屋)、五宝家、木下家といったこれら五軒家は、最盛期には多数の廻船を所有し、日本海沿岸だけでなく遠く江戸までを活動範囲としたという。 天明の大飢饉の際には、蔵から米を出して人々に振る舞い、多くの命を救った「一杯の粥」の逸話も伝わる。 また、久美浜の中心部では、麹製造で財を築き、廻船業や沿岸交易で巨富を得た稲葉家が知られる。 稲葉家は宝暦6年(1756年)には幕府の公金預かり所となるなど、その信用と影響力は絶大であった。 こうした豪商たちの存在は、久美浜の経済的繁栄を象徴するものであった。
丹後ちりめんが映す織物の歴史
久美浜の歴史を語る上で、丹後地方全体で栄えた絹織物産業「丹後ちりめん」に触れないわけにはいかない。丹後地方では奈良時代から絹織物の生産が盛んであり、古くは「精好」と呼ばれる高級織物が織られていた。 しかし、江戸時代に入ると販路が狭まり、衰退の危機に瀕する。
この転換点となったのが、享保年間(1720年代)に峰山の絹屋佐平治らが京都西陣で「ちりめん織り」の技法を習得し、丹後に持ち帰ったことである。 当時、西陣の秘法とされていたちりめんの技術は、強撚糸を用いて生地表面に「シボ」と呼ばれる独特の凹凸を生み出すもので、そのしなやかさと染色性の良さから、友禅染などの着物の生地として全国的に需要が高まった。 丹後地方の湿潤な気候と豊富な水が絹織物の生産に適していたこともあり、ちりめんの技術は急速に広まり、丹後は国内最大の絹織物産地へと成長していった。
久美浜自体が丹後ちりめんの主たる生産地であったわけではないが、代官所が置かれ、豪商が栄えたこの地は、丹後全体の経済活動と密接に結びついていた。ちりめん産業の隆盛は、地域の経済基盤を強化し、久美浜の港を通じて物資や情報の流通を活発化させたと考えられる。丹後ちりめんは、特定の地域に限定された産業ではなく、丹後という広域な地理的・歴史的条件が育んだ産業であり、久美浜もその一員としてその恩恵を受け、またその発展を支えた側面があるだろう。
明治維新と、その後の町並み
明治維新は、久美浜の歴史に大きな転換点をもたらした。慶応4年(1868年)、久美浜代官所は官軍陣営となり、その後「久美浜県」が置かれた。 この久美浜県は、丹後・但馬・丹波・播磨・美作の5ヶ国、総石高23万石余りを管轄する広大な範囲を統治し、県庁舎や県立小学校、県立病院も建設されるなど、一時的に地域の行政・産業の中心として隆盛を極めた。 しかし、わずか4年後の明治4年(1871年)には府県統廃合により久美浜県は廃止され、豊岡県に編入される。 さらに明治9年(1876年)には京都府に転じ、その行政的地位は大きく後退した。
かつての中心地としての輝きは失われたものの、久美浜の町並みには、中世の城下町を基盤とした地割りが今も明確に残されている。 豪商稲葉本家の住宅(明治23年築、国登録有形文化財) など、江戸・明治期の面影を伝える建物群は、往時の繁栄を静かに物語る。近年では、こうした歴史的街並みの保全と活用を目指す取り組みも進められており、観光客がその歴史の層を歩いて感じられるよう整備が進められている。
湾に刻まれた時間の層
久美浜の歴史は、その地形、特に久美浜湾という汽水湖の存在と切り離せない。約2万年前の最終氷期に始まる湾の形成は、この地が大陸との交流拠点となり、やがて荘園、代官所、そして一時的な県庁所在地へと発展する地理的基盤を与えた。 豪商たちの繁栄は、この地の港が物資と富の集積地であったことを示し、天明の飢饉における「一杯の粥」の逸話は、単なる経済活動に留まらない、地域社会における彼らの役割を浮かび上がらせる。
明治維新後の行政的地位の変動は、中央集権化の波が地方にもたらした影響の一例であり、久美浜は一時期、その波の頂点に立ったものの、やがてその役割を終えた。しかし、中世以来の地割が残り、豪商たちの屋敷が今も往時の姿を伝える町並みは、歴史が単線的に進むのではなく、幾層もの時間の堆積として存在することを示している。 久美浜湾に静かに広がるカキ棚の風景は、太古の地形が現代の生業と結びつき、新たな文化的景観を形成している姿そのものである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。