2026/6/5
群馬のこんにゃく、なぜ「王国」と呼ばれるのか

群馬のこんにゃくは有名だ。群馬のこんにゃくの歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
群馬県が全国生産量の9割以上を占める「こんにゃく王国」となった背景には、栽培に適した気候と土壌、精粉加工技術の早期導入と発展、そして時代の転換点での継続的な生産という選択があった。人々の知恵と努力が積み重なった歴史を辿る。
群馬県の山間部を車で走ると、広がる緑の中に独特の風景が点在する。それは、こんにゃく芋の畑だ。見慣れない人には、サトイモの一種に見えるかもしれない、しかしその地下には、日本の食文化を支える独特の食材の源が眠っている。全国のこんにゃく芋の約9割が群馬県で生産されているという事実。この圧倒的な数字は、なぜ群馬が「こんにゃく王国」と呼ばれるに至ったのかという素朴な疑問を呼び起こす。単に栽培に適した土地だったのか、それとも人々の知恵と努力が積み重なった結果なのか。その答えを探るには、歴史の層を一枚ずつ剥がしていく必要があるだろう。
日本におけるこんにゃくの歴史は古い。こんにゃく芋自体は東南アジアが原産とされ、日本へは縄文時代に伝来した、あるいは仏教伝来とともに中国から薬膳として持ち込まれたなど諸説あるが、奈良時代には既に貴族や僧侶の間で薬用や珍味として利用されていたという。一般家庭に普及し始めたのは鎌倉時代以降、特に江戸時代に入ってから大衆食として定着していく。
群馬県でのこんにゃく栽培の始まりは室町時代にまで遡ると言われている。1505年頃、南牧村の茂木正峯が紀州(現在の和歌山県)から種芋を持ち帰り、栽培を始めたのがきっかけとされているのだ。当初は南牧村の南面傾斜地で自然生に近い形で栽培されていたものが、後に種芋貯蔵技術の発展とともに植玉栽培へと移行していったという。
しかし、こんにゃく芋は収穫後の腐敗が早く、重いため、遠隔地への流通には不向きな食材だった。この課題を解決したのが、江戸時代中期から後期にかけて活躍した水戸藩(現在の茨城県)の農民、中島藤右衛門である。彼は1776年(安永5年)頃、偶然畑で鍬で切られたこんにゃく芋が白く乾燥しているのを見てヒントを得、生芋を薄く輪切りにして乾燥させ、粉末にする製法を考案した。この「精粉(せいこ)」技術の確立により、こんにゃくは長期保存と軽量化が可能となり、全国各地への流通が飛躍的に拡大したのである。
群馬県における精粉加工の本格化は明治初期、1886年頃のこととされる。富岡市の篠原粂吉が加工技術を導入し、南牧村で麦つき水車を改良して精粉加工に着手したのが始まりだ。その後、下仁田町を中心とした地域では、急流を利用した水車による精粉加工が盛んになり、各地で生産されたこんにゃく芋(荒粉)が下仁田町に集められるようになった。この精粉技術の導入と普及が、群馬のこんにゃく産業発展の決定的な転換点となったと言えるだろう。
群馬県がこんにゃくの一大産地となった背景には、複数の要因が重なり合っている。まず、こんにゃく芋の栽培に適した気候と土壌が挙げられる。こんにゃく芋はデリケートな作物で、直射日光や強い寒さを嫌い、水はけの良い土壌を好む。群馬県、特に下仁田町を中心とする中山間地域は、冷涼な気候と、水はけの良い火山灰土壌に恵まれていた。また、雨量が多いこともこんにゃく芋の生育には好条件だが、同時に水はけが悪いと病気になりやすいため、その両方の条件を満たす土地が求められたのだ。吾妻地域では、冷涼な気象と排水性の良い傾斜地が多いことが、病害が発生しにくい自然条件となり、栽培拡大につながったとされている。
次に、加工技術の早期導入と発展が重要だった。中島藤右衛門が精粉加工を発明したことで、こんにゃく芋の貯蔵・流通の課題が解決されたが、群馬県では明治時代にこの精粉技術を積極的に取り入れた。特に、富岡製糸場に代表される近代的な工場技術が発展していたことも、こんにゃく製品の大量生産を可能にした一因とされる。水車を改良した精粉工場が下仁田町に集積し、効率的な生産体制が築かれていった。
そして、他の地域との対照的な選択も、群馬の地位を確立させた大きな理由である。第二次世界大戦後、多くの地域では食糧増産のため、こんにゃく芋からサツマイモなどの他の作物へと転作が進んだ。しかし、群馬県ではこんにゃく芋の生産を継続する道を選んだのだ。さらに、かつて群馬の基幹産業であった養蚕業が衰退すると、桑畑が広大なこんにゃく畑へと姿を変えていった。栽培が難しいとされるこんにゃくを、他県が転作していく中で群馬県が作り続けたことが、今日の生産量日本一につながっている。
昭和21年には国の助成により群馬県農事試験場こんにゃく指定試験地が設置され、品種改良や栽培技術の向上が図られた。特に「みやままさり」などの品種育成は、北部平坦地域での急速な普及と安定生産に寄与した。このように、自然条件の適合性、加工技術の発展、そして厳しい時代における粘り強い選択と技術革新が、群馬県を「こんにゃく王国」へと押し上げたのである。
こんにゃく芋の栽培は、群馬県だけでなく、茨城県や栃木県など北関東の他地域、あるいは一部の西日本地域でも行われてきた。特に茨城県は、中島藤右衛門が精粉加工法を考案した地であり、江戸時代には水戸藩の専売品として藩財政を支えるほど栽培が盛んだった歴史を持つ。しかし、現在では群馬県が全国生産量の9割以上を占める圧倒的なシェアを誇っている。
この差はどこから生まれたのか。茨城県大子町のように、かつてこんにゃく栽培が盛んであった地域でも、生芋の貯蔵や輸送の難しさから、加工技術の発展がなければ大規模な産業として継続することは困難だった。中島藤右衛門の精粉技術は全国的なこんにゃくの普及に貢献したが、その後の産業としての発展には、地域ごとの気候風土への適応と、継続的な技術革新、そして市場の変化への対応が求められたのである。
群馬県の場合、他の農作物の栽培が難しい中山間地が多かったという地理的条件が、こんにゃく栽培の継続を後押しした側面がある。水田が少ない下仁田町にとって、商品価値の高いこんにゃくは重要な作物だったのだ。さらに、戦後の食糧増産期に多くの地域が他の作物に転換する中で、群馬県がこんにゃく栽培を継続したという歴史的な選択がある。この「継続」が、その後の技術開発や品種改良の基盤となり、他地域との差を広げていったと考えられる。
また、こんにゃく芋は植え付けから収穫まで2〜3年を要する手間のかかる作物であり、低温に弱く病気にもかかりやすい。かつては「運玉(うんだま)」と呼ばれるほど、栽培には経験と運が左右すると言われた。このような栽培の難しさを克服するため、群馬県では農事試験場による品種育成や栽培技術の指導、さらには農家と関係機関が協力して課題を研究する「研究会活動」が盛んに行われてきた。麦類を被覆作物として利用した土壌病害防除や緑肥作物を主体とした輪作など、継続的な研究と実践が、安定生産を可能にしてきたのである。他の地域が栽培の難しさから撤退する中で、群馬県はこうした地道な努力を重ね、こんにゃく産業の基盤を強化していった。
現在の群馬県は、全国のこんにゃく芋生産量の約90%から97%を占める、まさに「こんにゃく王国」である。主要な産地は昭和村、渋川市、沼田市などの北毛地域が上位を占め、かつて精粉加工の中心地であった下仁田町も重要な役割を担っている。昭和村では、寒冷な気候条件から、こんにゃく芋が規格サイズに成長するまでに3年間かかる場合が多いという。
現代のこんにゃく生産は、機械化も進んでいる。例えば、乗用こんにゃく植付機が開発され、地域のこんにゃく農家の規模拡大に貢献した事例もある。一方で、伝統的な手練りこんにゃくの製法を守り続ける職人も存在する。下仁田町の佐々木信也氏のように、群馬県が認定する「ぐんまの達人」として、昔ながらの製法でこんにゃくを作り続け、その技術を伝える活動も行われている。彼らのこんにゃくは、大量生産品とは異なる弾力や風味を持ち、手間をかけて二日間かけて作られることもある。
群馬県では、こんにゃくをテーマにした観光施設も展開されている。甘楽町にある「こんにゃくパーク」は、こんにゃくの製造工程や歴史、豆知識を学ぶことができ、年間約100万人もの来場者があるという。ここでは、こんにゃく作り体験や、こんにゃくバイキングなども提供され、群馬のこんにゃく文化を広く発信する拠点となっている。
しかし、こんにゃく産業も課題を抱えている。日本人の食生活の変化により、こんにゃくの消費量は減少傾向にあるという指摘もある。また、温暖化による栽培への影響や、規模拡大に伴う雇用労力の確保なども、生産者が直面する問題だ。こうした中で、有機栽培や特別栽培による付加価値化、製品の自家加工・販売による有利販売化など、生き残りをかけた経営変革に取り組む生産者も現れている。海外では低カロリーでグルテンフリーなヘルシーフードとして「Konjac」の名で注目を集め、「ミラクルヌードル」としてパスタの代替品とされるなど、新たな市場も広がっている。
群馬のこんにゃくの歴史をたどると、単に恵まれた自然条件だけで今日の地位が築かれたわけではないことが見えてくる。確かに、水はけの良い土壌や冷涼な気候は栽培に適していたが、それはあくまで可能性に過ぎなかった。他の地域でもこんにゃく栽培は行われていたにもかかわらず、群馬が圧倒的な産地となったのは、いくつかの重要な「選択」と「継続」があったからだろう。
江戸時代に確立された精粉加工技術をいち早く導入し、近代化の波に乗って工場生産へと発展させたこと。そして、戦後の食糧難や養蚕業の衰退といった時代の転換点において、他の作物への転換ではなく、あえて栽培の難しいこんにゃくを選び、その生産を継続したこと。この粘り強い選択の背景には、こんにゃくが単なる換金作物ではなく、地域の人々の暮らしを支える基盤作物であったという認識があったのかもしれない。
また、品種改良や栽培技術の確立、病害対策など、地道な研究と実践を重ねてきたこと。これらは一朝一夕に成し遂げられるものではなく、何世代にもわたる農家や研究機関の努力の積み重ねである。こんにゃく芋が「運玉」と呼ばれた時代から、安定的な生産を可能にするまでの道のりは、容易ではなかったはずだ。
群馬の山間部に広がるこんにゃく畑の風景は、その土地の記憶と、そこに生きてきた人々の選択の重みを静かに語りかけてくる。それは、自然の恵みを最大限に活かしつつ、同時にその厳しさにも向き合い、知恵と労力を注ぎ込んできた営みの結果なのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。