2026/6/8
福井・多田寺の薬師如来像はなぜ薬壺を持たない?

福井の多田寺について詳しく知りたい。
キュリオす
福井県にある多田寺は、孝謙天皇の勅願で創建された。本尊の薬師如来立像は薬壺を持たない古式で、平安時代の仏像彫刻の潮流を伝える。廃仏毀釈の時代には地域住民に守られた仏像群は、都と若狭の交流、山岳信仰、そして地域に根差した信仰の歴史を物語る。
多田寺の創建は、奈良時代中期の天平勝宝元年(749年)に遡るとされる。孝謙天皇が眼病を患った際、勝行上人という僧が勅願により多田ヶ岳に百日籠もり、その法力で天皇の病を平癒したと伝えられている。この功績により、孝謙天皇の勅命で多田寺が開基されたのだ。勝行上人は「東大寺三綱牒」にもその名が見える人物であり、この縁が多田寺と当時の都である奈良との深いつながりを示唆している。
最盛期には、多田寺は12もの子院を擁し、朝廷からの寄進田は16ヘクタールにも及んだという。しかし、江戸時代初期には二度の火災に見舞われ、伽藍の多くを焼失する。現在残る本堂は、文化4年(1807年)に再建されたもので、往時の壮麗さを完全に伝えるものではないものの、その建築様式には若狭地方の中世密教系本堂の発展形が見て取れる。江戸時代初期には、小浜藩主となった酒井忠勝が本尊を納める厨子を寄進した記録も残る。
近代に入ると、1868年の神仏分離令とそれに続く廃仏毀釈の嵐は、全国の寺院に大きな影響を与えた。多田寺も例外ではなかったはずだが、多くの貴重な仏像がこの地で守り伝えられた。2015年には、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 — 御食国若狭と鯖街道 — 」の一部として、多田寺も日本遺産に認定され、その歴史的価値が改めて評価されている。
多田寺が擁する文化財の中でも、特に注目すべきは、本尊である木造薬師如来立像をはじめとする仏像群だろう。本堂の須弥壇には、御本尊の薬師如来、その脇侍である日光菩薩(十一面観音菩薩立像)、月光菩薩(菩薩立像)の薬師三尊が安置されている。これらの三尊像は、いずれも国の重要文化財に指定され、平安時代初期から奈良時代末期の作とされる。
本尊の木造薬師如来立像は像高192.5cmに及ぶカヤの一木造りで、薬壺を持たない初期の薬師如来像の形態を示す。その特徴的な童顔に近い相好や、唐招提寺旧講堂薬師如来像、神護寺薬師如来像にも共通する平安時代初期の衣文の意匠は、当時の仏像彫刻の潮流を伝える貴重な資料である。また、日光菩薩と称される十一面観音菩薩立像は、奈良時代末期から平安時代初期の作で、福井県内で最も古い木彫像の一つとされ、その穏やかな表情から「若狭のモナリザ」とも呼ばれることがある。
これらの仏像が若狭という地で制作されたことは、平安時代初頭にはすでにこの地で密教受容の社会基盤が築かれていたことを示す。また、須弥壇には四天王像や色彩鮮やかな十二神将像も配され、内陣に入って間近に拝観すると、それぞれの像の細部や表情までが鮮明に見て取れる。これらの像の多くは、元々別の寺の本尊であったものが、廃仏毀釈の際に多田村の人々によって守り伝えられたとされている。戦禍に見舞われることが少なかった若狭の地には、地域住民による仏像への「優しい信仰」が根付いていたのだ。
多田寺が、なぜこれほどまでに多くの、そして質の高い仏像を擁し、その信仰を保ち続けてきたのか。その背景には、いくつかの要因が複合的に絡み合っている。
一つは、地理的な条件とそれに伴う歴史的役割である。多田寺が位置する若狭小浜は、「海のある奈良」とも称され、古くから大陸や朝鮮半島との交易、そして都である奈良や京都への物資供給路として重要な役割を担ってきた。「御食国(みけつくに)」として天皇家に海産物を献上する地であったことは、都との緊密な関係を物語る。こうした交流の中で、最先端の文化や技術、そして信仰が若狭にもたらされ、多田寺のような寺院が建立される基盤となったと考えられる。
次に、多田ヶ岳という神体山との関係がある。山そのものが信仰の対象であった多田ヶ岳の玄関口に多田寺が建立されたことは、この地が古くから特別な場所であったことを示す。勝行上人が多田ヶ岳に籠もって法力を得たという伝承も、山岳信仰と仏教が融合した若狭独自の信仰形態を反映している。
そして、孝謙天皇の勅願という国家的な後ろ盾があったことだ。当時の最高権力者からの庇護は、寺院の創建とその後の発展に決定的な影響を与えた。勝行上人が東大寺という当時の仏教界の中心人物であったことも、多田寺の格式を高める要因となっただろう。
さらに、特筆すべきは、廃仏毀釈という激動の時代において、仏像が地域住民によって守り抜かれたという事実である。これは、多田寺の仏像が単なる美術品としてではなく、地域の信仰の中心であり、人々の生活に深く根差した存在であったことを意味する。都からの勅願によって創建され、国家的な庇護を受けた寺院でありながら、その実態は地域の「お薬師さん」として親しまれ、住民の信仰によって支えられてきたという、二重の構造が見えてくる。
多田寺の仏像群、特に薬壺を持たない薬師如来立像は、平安時代初期の仏教彫刻における一つの特徴的な事例として挙げられる。一般的に薬師如来像は左手に薬壺を持つ姿で表されることが多いが、多田寺の本尊は薬壺を持たない。これは、平安時代初期の薬師如来像にしばしば見られる古式の表現であり、同時期の他の著名な薬師如来像と比較することで、その独特な位置づけがより明確になる。例えば、奈良の薬師寺に安置される薬師如来像が薬壺を持つ坐像であるのに対し、多田寺の像は立像であり、その様式には唐招提寺旧講堂薬師如来像や神護寺薬師如来像との共通点が指摘されている。多田寺の薬師如来像は、かつて日本三大薬師の一つと数えられたとも言われ、その造形美と歴史的価値は、全国的に見ても稀有な存在である。
若狭の地には、多田寺以外にも多くの寺院に薬師如来像が祀られている。平安後期の薬師如来がある明通寺をはじめ、国分寺、神宮寺など、小浜市内には薬師信仰が深く根付いているのだ。これは、古代から中世にかけて疫病が流行した際、病気平癒を願って薬師如来に縋る信仰が非常に強かったことを示唆する。都の文化が流入する一方で、人々の切実な願いが特定の仏教信仰を育んだという点で、多田寺の薬師信仰もまた、若狭の地に普遍的に見られる信仰の形の一つであったと言える。
また、廃仏毀釈の際に多くの寺院が破壊され、仏像が失われた地域がある中で、多田寺の仏像が地域住民の手によって守られたという事実は、若狭の信仰の独自性を際立たせる。多くの仏像が本来の寺を離れ、多田寺に集められてきた経緯は、小浜の住民が仏像を単なる宗教的偶像としてだけでなく、地域の文化財、精神的支柱として大切にしてきた証左だろう。これは、権力による保護や学術的な価値評価とは異なる、生活に密着した信仰と文化財保護の形が若狭には存在したことを示している。
現代の多田寺は、その古くからの信仰を守りつつも、新たな魅力を発信している。現在の住職の尽力により、「北陸随一の花の寺」を目指し、境内には四季折々の花々が植えられているのだ。特に春には、約500本ものシャクナゲが山の斜面を彩り、70種類約200本の牡丹、ツツジ、しだれ桜などが咲き誇る。これらの花々は、訪れる人々に静かな癒しと安らぎを与えている。
また、夏には期間限定で「瑠璃光門」が登場する。独特な青い色合いの風鈴が飾られた門をくぐると、涼やかな音色が参拝者を迎える。一つとして同じ音色がないという風鈴のハーモニーは、古刹の静寂の中に現代的な彩りを添える。住職自身が丹精込めて花を育て、参拝者へのガイドも積極的に行っているため、仏像の歴史や背景を深く知る機会も得られる。
多田寺は「小浜八ヶ寺巡り」の一つにも数えられ、周辺の歴史的な寺院とともに、若狭の豊かな仏教文化を体験できる場所となっている。拝観時間は9時から16時までで、冬期(12月から2月)は事前予約が必要だ。小浜市街地から車で10分ほどの距離にあり、駐車場も完備されている。古の仏像と、現代に咲き誇る花々、そして風鈴の音色。多田寺は、時代を超えて人々の心を惹きつける場所であり続けている。
福井の多田寺を巡る旅は、単に古い寺院を訪れること以上の意味を持つだろう。そこには、都の権力と地方の信仰、そして人々の生活が織りなす重層的な歴史が見えてくる。孝謙天皇の勅願によって創建されたという歴史は、中央集権的な国家体制の中で仏教が果たした役割を示す。しかし、その仏像が薬壺を持たない古式の薬師如来像であり、かつ地域の人々によって廃仏毀釈の困難を乗り越えて守り継がれてきたという事実は、単なる国家仏教ではない、地域に深く根ざした信仰のあり方を浮き彫りにする。
若狭の地が「御食国」として都と結びつき、文化の流通路であったことは、多田寺に集められた仏像の質の高さと多様性を説明する一因となる。しかし、それ以上に、多田ヶ岳という神体山への信仰や、疫病平癒を願う切実な薬師信仰が、この地に仏教文化を定着させ、守り育てる土壌となったのだ。
現代において、住職の尽力により「花の寺」としての新たな顔を持つ多田寺は、過去の遺産を守りつつ、現代社会における寺院の役割を問い直しているようにも見える。それは、歴史の重みを背負いながらも、常に変化し、人々の心に寄り添おうとする姿勢の表れだろう。多田寺の静かな佇まいの中に、古の祈りと、今を生きる人々の息吹が確かに宿っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。