2026/6/8
小浜西組の町並みは、なぜ京風の意匠と若狭の特色を併せ持つのか

小浜の小浜西組の重要伝統的建造物群保存地区について詳しく知りたい。どういう場所だったの?
キュリオす
福井県小浜市の小浜西組重要伝統的建造物群保存地区は、北前船の寄港地として栄え、鯖街道を通じて京都との交流が深かった。京町家と共通する「うなぎの寝床」や「むくり屋根」といった意匠に加え、防火対策や若狭瓦などの独自の工夫が見られる町並みが形成された。
福井県小浜市、若狭湾に面した港町の一角に、小浜西組(おばまにしぐみ)の重要伝統的建造物群保存地区がある。路地を歩くと、かつて京の都と海をつないだ人々の息遣いが、今も建物や石畳に染み付いているように感じられる。なぜこの町は、これほどまでに豊かな歴史の痕跡を留めているのか。そして、その町並みは、何が特別だったのだろうか。この疑問は、小浜が果たした役割の大きさを静かに問いかけてくる。
小浜は古くから若狭の中心地であり、中世には京都に最も近い日本海側の湊町として繁栄した。大永2年(1522年)には若狭武田氏が後瀬山城を築き、山麓に居館を配置して町を整備したことで、武士と町人が混在する城下町の基礎が築かれたという。
江戸時代に入ると、慶長5年(1600年)に京極高次が小浜に入部し、小浜城の築城を開始した。この築城を機に、町は東・中・西の三組に分けられ、現在の小浜西組を含む地域は町人地として整備されていく。現在の小浜西組の町並みは、明治4年(1871年)の地籍図とほぼ同じ形態を保っているとされる。
この小浜の発展において重要な役割を担ったのが、日本海を往来した「北前船」と、京都へと海産物を運んだ「鯖街道」である。北前船は江戸時代中期から明治時代にかけて、大阪と北海道の間を往復し、各地の港で商品を売買する「買い積み方式」で巨万の富を生み出した「動く総合商社」とも呼ばれた。小浜は、日本海側の西回り航路の中間地点に位置し、当時の都であった京都にも比較的近かったため、北前船にとって重要な寄港地であった。ここで荷揚げされた物資は、陸路で京都へ運ばれたのだ。
特に「鯖街道」は、小浜で水揚げされた鯖に一塩を施し、夜通し歩いて京都まで運ぶことで、到着時にはちょうど良い具合に熟成され、美味な鯖寿司の材料となったという。小浜から京都までは「京は遠ても十八里」(約70km)と言われ、この道のりを通じて小浜は都の食文化を支える「御食国(みけつくに)」としての役割を担い続けた。小浜西組の町並みには、こうした海の道と陸の道が交差する歴史が刻まれている。
小浜西組の町並みが現在の姿を形成した背景には、港町としての機能と、京都との密接な文化交流という二つの要因が大きく影響している。この地区は、丹後街道を基軸とした商家町や茶屋町、そして山麓に広がる寺町で構成されている。
町家にはいくつかの特徴が見られる。まず「うなぎの寝床」と称される、間口が狭く奥行きが長い造りは、京都の町家と共通する様式である。これは限られた土地を有効活用するための工夫であったと考えられる。また、屋根にはわずかに上に膨らんだ「むくり屋根」が見られ、これも京町家に見られるデザインだ。
防火対策も重要な要素だった。明治21年(1888年)の小浜大火では多くの建物が失われたため、現存する建物の多くは大火以降に再建されたものが主体となっている。この経験から、町家には防火壁となる「袖壁」が設けられている。また、かつて町奉行の武久権十郎が町の防火帯として堀川の建設を提案し、町人たちの寄付によって実現した歴史もある。この堀川は昭和59年(1984年)に埋め立てられ道路になっているが、川に面して土蔵が多く建っていたのは火災時の延焼防止のためであったと考えられている。
商家の表構えには、商品陳列用の折りたたみ式の縁台「がったり」や「摺り上げ戸」が設置され、ミセノマを全開放できる構造になっていた。また、若狭瓦と呼ばれる土葺きの瓦や、ベンガラ格子、土蔵の海鼠壁や漆喰壁、そして屋根に施された波が立った立浪型鳥衾(とりぶすま)なども、小浜西組の町家が持つ固有の要素である。
さらに、町を歩くと玄関に記された「井」のマークに気づくことがある。これは大正期に、火災の際に井戸がある家を示すために用いられたもので、井の中に書かれた数字で井戸の数を表したり、「泉」の字で湧き出す泉があることを示したりしたという。こうした細部にまで、この町の歴史と人々の暮らしの知恵が息づいている。
小浜西組が持つ商家町、茶屋町、寺町が融合した多様な町並みは、北前船の寄港地としての特性と、都との文化交流によって形成されたものだ。この多様性は、他の北前船寄港地と比較することで、より明確になる。
例えば、北前船の寄港地として栄えた地域は日本海沿岸に数多く存在する。石川県加賀市の橋立や瀬越は、北前船で巨万の富を築いた船主を多く輩出し、「日本一の富豪村」とも称された。新潟県の佐渡市宿根木も、廻船問屋や船大工の集落として知られ、独特の板壁の家屋が密集する。これらの地域では、船主屋敷の豪壮さや、船乗りたちの生活を支えた集落の様相が色濃く残る。また、北海道の松前や小樽、函館なども、ニシン漁業や開拓と結びつき、独自の港町文化を形成した。
これらの寄港地と小浜西組の決定的な違いは、京都という都への「陸の道」である鯖街道の起点であった点にある。多くの北前船寄港地が海運による富に特化する中で、小浜は海からの物資を都へと送り届ける「中継地」としての役割が加わった。このため、小浜の町家には、京町家に見られる「むくり屋根」や「がったり」といった意匠が取り入れられ、都の文化が色濃く反映されている。
一方、北前船がもたらした文化の共通点も存在する。例えば、各地の港町に広まった「おけさ」や「あいや節」といった民謡は、船乗りたちによって日本海沿岸に伝えられたハイヤ節がルーツとされている。また、北海道から運ばれた昆布が、京都や大阪で「昆布だし」として磨かれ、日本の出汁文化の基本となったのも北前船の影響である。小浜西組の町並みは、こうした普遍的な海運文化の痕跡を残しつつも、都との近さが生んだ独自の洗練された意匠を併せ持っている点で、他の寄港地とは一線を画しているのだ。
平成20年(2008年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されて以降、小浜西組では地域住民が主体となった町並み保存活動が活発に行われている。電柱の地中化や道路のカラー舗装といった街路整備が進められ、100件以上の建築物が町並みに合わせて修理・修景されてきた。
この地区では、伝統的な町家を単なる観光資源としてではなく、「生きているまち」として捉える意識が強い。例えば、空き家となっていた町家を改修し、「小浜町家ステイ」として宿泊施設に再活用する取り組みも進められている。これは、歴史的資源を活用した観光まちづくりの一環であり、滞在型の観光を推進することで、地域経済の活性化にも繋がっているという。
また、かつて明治初期に建てられた料亭「酔月」は、「四季彩館 酔月」として小浜の海の幸、山の幸が楽しめる食事処として活用されている。大正期に日用品を販売していた小間物屋の町家は、「小浜町並み保存資料館」として公開され、当時の暮らしや建築様式を伝えている。
しかし、保存地区が19.1ヘクタールと広大なため、全ての建物の維持管理には課題も残る。それでも「ベンガラ格子が灯る町」を合言葉に、地域住民が主体となって策定された「小浜西組マスタープラン」に基づき、まちづくりの精神が受け継がれている。小浜西組は、過去の栄華を伝えるだけでなく、現代の暮らしと歴史的な町並みを共存させようとする、人々の地道な努力によって維持されている場所なのである。
小浜西組の町並みを巡り、その歴史と現在の姿を紐解くと、この地が持つ独特の立ち位置が浮かび上がる。それは、単なる北前船の寄港地でも、鯖街道の起点でもない、「御食国」としての小浜の役割が、町並みそのものに深く刻まれているという点である。
日本海に面した多くの港町が、海の恵みと交易によって栄えた。しかし、小浜が特筆されるのは、その恵みを直接的に都へ供給する「最短ルート」を担ったことだ。太平洋側の物資輸送船が復路では空の船倉で戻ることが多かったのに対し、北前船は往路と復路の両方で商品を積み、各寄港地で取引を行うことで高い利益を上げた。小浜は、この「動く総合商社」の恩恵を受けつつ、さらに陸路で都との物流・文化交流を密にしたのである。
この地理的・歴史的条件が、小浜西組の町家に京風の意匠が取り入れられつつも、若狭瓦や袖壁といった独自の工夫が凝らされるという、他には見られない建築様式を生んだ。都の文化を単に模倣するのではなく、港町としての機能と融合させ、独自の形で昇華させた結果が、現在の町並みには静かに示されている。小浜西組は、海と都という異なる二つの世界が、いかに深く結びつき、互いに影響を与え合いながら、一つの地域の文化と景観を形成していったかを物語る場所である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。